*:.。.:*゜ぁいとーの日記 ゜*:.。.:*

ある時点での自分の記録たちとその他いろいろ

ダイレクトマーケティングです

ハロウィンと憲法の記事はちょっとまだ荷が重い、というか先生に聞きそびれたのでゴミを生産しそうなのでやめときました。あいとーです。

Twitterでも言ったんですが、『圕(としょかん)の大魔術師』という漫画の第2巻が先日発売されたのでさっそく買って読みました。やっぱアツいなあと思いながら、登場人物の生き方というのが自分が考えていることと似てる部分があるなあなどと考えていました。ハロウィンの記事と、一個前の記事と似てしまうと思いますがご了承ください。

往々にして、「知らないもの」や「違うもの」は怖いものです。全然知らない言葉で話している人は敬遠したくなるし、明らかに日本人じゃない人が騒いでいるところには少しビビッてしまいます。そういう時、一番楽に自分を守る手段は、その存在を認めず、拒絶することです。自分にとっての「普通」がみんなにとっても普通であるという立場を揺るがされないように。ただ、きっとそれは最良のやり方ではないはずです。知らないのなら、知ろうとすればいいはずだからです。本当に知ることができるか、それは別次元の話で、自分の価値観に閉じこもらない姿勢をまずとっていくことが必要なことだと思います。これは別に相対主義を礼賛しているわけではありません。自分の中で、「正しい」と思えることは、ちゃんと整理すべきだと思っています。大事なのは、色々なことを知って、その「正しい」を更新していく姿勢を持つことだということです。自分の中で「正しい」にはあたらないことを、「間違っている」とすぐ決めつけるのではなく、相手にとっての『正しい』を認識し、どんな背景が違いを生んでいるのか考えて、自分の中に消化していくことです。

さっきの例のように、明白に違いが「ある」ということは、いいことでもあります。少なくとも、知らないということは知っています。違いというものに限らず、あらゆる問題は、それが「ある」ことを知ってから向き合うことになります。少し迂遠ですが、司法試験の問題のことに置き換えれば、とある論点が「ある」ということを知っていなければ、問題の事案からそれを見出す段階には至りません。何を当たり前のことを、と思われるでしょうが、そう思われた人はまず自分がどれだけのことを知っているのだろう、と問い直してみるべきだろうと思います(もちろん、自戒でもあります)。経験や環境から知っていることに対する評価とその理由の集積が自分だとしたら(注1)、いったい自分はどれだけの広さを持てているのだろうか、と考えてみるべきだと思います。経験や環境はわりと運に左右されがちで、偏ってしまいがちな中、こと識字率の高い日本においては、本は自分を広げるための素晴らしい道具であるはずです。勉強をするのもそういうことなんだと思います。理系学問の応用の仕方は残念ながら僕にはわからないですが… そうやって世の中にあまたの問題が「ある」ということをまず知るのがキッカケになって成長していけるはずです。

注1:「優しい性格」だということは、さまざまな場合に自分がどう行動するか、どう行動すると思われているか、ということを総合的に考慮したものだと言えるはずです。そして、その性格とかの集積が自分というべきものにあたるのではないか、ということです。

「ある」とわかった問題は、次は「向き合う/向き合わない」という段階に辿り着きます。自分が全然何も知らない、という問題を知って、それに向き合って戦っていくか、あるいは拒絶するか。最初に、違いの問題について書いていたのはこの部分の話なわけです。「向き合う」と定めたうえで、最後に「理解できる/できない」の段階がやってきます。これも当たり前ながら大事なことです。「向き合わない」ことは「理解できない」ことではないということです。問題というとちょっと違う感じもしますが、「これ以上努力できない」というのは、自分の限界に向き合ってないだけという場合が大半だと思います。今の自分もきっとそうです。今までなんとなく「向き合う」の過程をすっ飛ばして「できる/できない」の枠組みだけを見てきたために、見逃していることがいっぱいあるんだろうなあと思います。なんでもかんでも向き合ってたらキリがないのもまた確かではありますが、規範として「ある」「向き合う」「できる」の3段階の審査を持っておくのは必要だなあと思います。

こういう風に何かを整理することも、知っていることを増やすための営みです。自分を知り、広げるための営みです。なんとなく最近の論の立て方は、勉強している法律のやり方に近い部分があって、勉強が自分を広げる手段だという先ほどの自説にピッタリだなあと思います。

自分が常に「正しく」いられる、あるいは「正しい」とかいう枠組みがどうでもいい(ないに等しい)くらい狭い世界にいる方が、概して幸せだなあと時々考えます。こんな風にいちいち悩んでしまうのも、自分にこうした問題が付きまとっていることを知るだけの基盤が作られてしまったためです。東京オリンピックのボランティアだって、妙に世間ずれしていなければ、きっと喜び勇んで登録してあくせく働いたはずで、それは実はけっこう幸せだと思います(一方薄給だとかそんな話を知ってしまった自分は、ずっとボランティア応募するか悩んでいるわけです)。ただ、もはやたくさんのことを知るようになった自分の人生は、自分を広げていく先に見えるはずの幸せを追っていく方向にしか進みません(クスリをキメたら別かもしれませんが)。だからこそ、これからも色々な問題があることに向き合って、少しでも理解できることを増やしていく姿勢を持っていきたいと思います。

ここまで、というかこれまでの記事は、大体綺麗事しか書いていません。何をいい子になってんだと、もはや腹を立てる人もいるかもしれません。実際、普段過ごしていても、こんな机上の空論を軽く吹き飛ばしてしまうような、自分の心の動きに出会うことばかりです。ただ、それでも、意味はないのかもしれないけれど、自分にこんな問題があって、それに向き合わないといけないということを、頭の片隅の隅にでも置いておければ、少しはいい人生になるに違いないという希望を抱いて、こうしてブログに綺麗事ばっかり綴っている次第です。

そろそろ恋愛のことを、また書いていきたいという思いです。とはいえ恋愛のことはあまりにも空論すぎて無風の机の上に立てることも難しいので、なかなか書きにくいところです。とにかく、この記事で一番大事なのは、こんだけ考えさせてくる『圕の大魔術師』、マジで面白いのでみんな読むべきだよってことです。以上、ダイレクトマーケティングでした。また次回。