*:.。.:*゜ぁいとーの日記 ゜*:.。.:*

ある時点での自分の記録たちとその他いろいろ

等身大を生きる

人間の性格というのは、まさに千差万別である。巷ではMBTI(なんかアルファベットで16種類あるやつ)でキャッキャしている人が多いが、個人的には気分によって結果が変わるところがあり、どうも腑に落ちない。しかし、自分は人間の性格を、大雑把には2パターンに分けられると思っている。その分かれ目は、その人がサリンジャーを好きかどうか、ということだ(誰それ、とか読んだことないという人も、仮に読んだとすればどう思うか、ということでこの分類の枠内に入れることができる)。サリンジャーというか、言ってしまえば『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(ここでは村上春樹訳を想定している。以下『ライ麦』)を気に入るかどうか、ということだろう。僕は『ライ麦』が好き(他のサリンジャーの小説も好き)だけれど、母親は嫌いだという。父親もたぶん好きな方ではないだろう。わりあい読書家の二人だが、村上春樹を読んでいるところは、物心ついた時から全く記憶にない。

ここで、『ライ麦』がどういう話かということをざっと述べておく。主人公はホールデン・コールフィールドという、高校を放校されたクソガキである。大人への、社会への批判を一丁前に語る。一応だが、彼なりに筋の通ったところもあって、妹のフィービーはすごく大切にしているように、無垢な子供の世界に愛着を持っている。『ライ麦』はざっくり言えば、そんなホールデンが、高校を追い出されてからの出来事を斜に構えた口語体で語る小説ということになる(紙幅の関係でだいぶ端折ってますが)。ホールデンは、とにかく大人社会の色々なことについて考え、そのたび文句をつけているわけである。

そうすると、こういったホールデンの語りについて、「下らないことうじうじ考えてばっかでバカじゃないの?」と思う人と、「わかるわ~~、なんか色々考えちゃうよね」と思う人が大雑把に分けられるのである。もちろん、ホールデンへの共感度合いはそれぞれで、完璧に二分できるわけではないけれど。自分だってなんでもかんでも文句を言いたいわけではなく、労働の対価をいっぱいくれるならまあいいよ、程度にしか思っていない節がある。そして、別にこれは後者がいわゆるHSPなので優しくしてあげましょう、とか、レールから落ちた人にも寛容な社会に変えていきましょう、とかいう話ではない。「悩みがちな俺カッケェ~」という類の自慰行為がしたいのでもない。単に世の中には一定数クソガキがいる、というだけのことだ。こんなに回りくどく書かなくても、『ライ麦』が今なおそれなりの支持を得ていることが、そのことを示しているだろう。

さて、本題は、そんな『ライ麦』好きの自分と『ライ麦』嫌いの親がこの間話し合ったことである(一応飲み会の体だったが、全然酒は進まなかった)。わざわざ喋ることといえばただ一つ、またしても予備試験に落ちたことについてである。

 

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二回目も落ちるまでの経緯は、前回の記事の通りである。かいつまんで言えば、ぐだぐだ迷った結果の努力不足で落第したということだ。あれだけ色々と書けば、共感していただけたところもあったかもしれないが、冷静に考えると、もう大学3年生だというのに何を暢気に構えているのだと思われた方が多いのではないか。実際、自分でもこの経緯を俯瞰的な視点で見れば「こいつほんま何をやっとんねん」と嘆くより他はないのである。圧倒的に、パッションが足りていない。

自分がそう思うのだから、『ライ麦』嫌いの親からすれば、二回目の試験ももうほとんど意味不明という感じだったろう。「当初試験をナメてたのはもうしゃあないとして、普通一回落ちてめっちゃ悔しかったらもう二度と落ちひんようにするんちゃうの?」と言われれば、明らかに正論は向こうの側である。「いや~それは普通はそうなんだよ」と返さざるを得ない。

とはいえ、自分がそういう類の「正しさ」「普通さ」を持ち合わせていないこともまた、非常に残念ながら正しい。後天的にそれが身に着くこともあるのかもしれないが、どうも自分はそんなにまっすぐに生きられる気はしない。我が人生の半分における勉強の歴史を振り返ってみれば、そこにあるのは、怠惰、慢心、希望的観測、悩み癖(こうして考えると早めに予備試験の勉強をスタートさせたのは正解だった)。辻褄合わせの能力だけでやってきた典型的ダメ人間である(こういう人は東大に溢れかえっているのかもしれない)。両親としても、長年息子のそんな姿を見ていて、さらに言えば今回また予備試験に落ちた経緯を聞き、同じように思ったに違いない。それゆえあちらからは「受かるまで実家に帰ってきたら?」と言われてしまった。

大学4年を間近に迎える中で、親にこんな提案をさせてしまった、ということがたいへん情けなくなった。うちの両親はそこまで過干渉なわけではない。まあ、最難関の中学受験に付き合っていた時点で世間的には過干渉なのかもしれないが、心配性の域を出ないと個人的には思っている。子どもを管理したいとか支配したいとかそういうことでは全然なく、純粋に怠惰な息子のキャリアが心配で、最も効率的に勉強できるだろう環境を仕方なく提供しようと、そういう意図なのである(そもそも命令じゃなくて提案なわけだし)。仮に今年も落ちたとしてその瞬間人生お先真っ暗というわけではなく(無論だからといって落ちる気はないが)、そういう意味で両親とも心配性には違いないのだが。それも愛されている証拠ということで大変ありがたいし、恵まれていることである。

ただ、実家に帰って至れり尽くせりの状態で無事試験に合格したとしても、何か根本的な解決になることはない、というのは、両親も自分も重々承知しているところである。むしろこのまま社会に出る方がお先真っ暗というものだろう。何を仕事にするにせよ、迷っている間にもそんな事お構いなしで、どんどんタスクはたまっていくのだ。対価に見合う価値を生み出さなければやっていけないのが現代社会である。そこで生きていく上では、心の中のホールデン的な部分をどうにかしなければ、見通しが立たない。(本当に苦労している人からしたら、非常に贅沢な悩みであることは自覚しているのだが…)

どうにかする、とは言っても、『ライ麦』に共感しちゃうような心を追い出すことはできない。年を取るうちに勝手にそんな心はどこかへ行ってしまうのかもしれないけれど、今はその時ではない。「正しい」ものではなくても、こういう心が確かに自分の中に存在している以上、誠実に向き合うのが筋だろう。嫌いな他人みたいに遠ざけていれば済むというものではない。ちゃんとした人間を演じようとしたところで、どこかでボロが出るのがとどのつまりだろう(現実に同じ試験に二回落ちていることからもそれは明らかである)。

さて、唐突であるが、今年の全豪オープン女子シングルスで、大坂なおみ選手が優勝した。決勝はNHKで放送していたので生で見ていたのだが、ストレート勝ちで、内容的にも素晴らしいものだったと素人目にも映った。ただ、テニスのプレー以上にすごいなあ、と思ったのが、試合中のメンタル的な崩れがほとんど見られなかったことだ。自分の中での大坂選手のイメージは、世間の評と同様、好不調の波が激しく、メンタルが繊細で崩れると弱い、といったものだった。ところがこの決勝を見る限りでは全くそんな様子はなく、劣勢な場面でも冷静なプレーを続け、むしろ相手をどんどんミスさせているといった感じであった。なんとなくそれが気になって、試合後のインタビュー記事などを色々と見てみたところ、メンタル面の強化について本人やコーチが話していたが、単純に「もう弱い自分は捨てた!」ということではないようだった。そういうことではなくて、チームの間で、弱い自分の存在をありのまま伝えて、それを認めることが、メンタルの安定につながっている、そういった趣旨の言葉があった。

自分の心に弱いところがある、ということから逃げずに、その存在を肯定する。弱い自分との向き合い方として、そういう方向性が間違ってはいない、と言ってもらったような気がして、ちょっと晴れやかな気分になった。このブログでごちゃごちゃと書いていることも無駄ではない、と改めて思えた(反応をいただけることのありがたさたるや…)。もちろん、肯定して終わり、では何も変わらない。大坂選手のように、ちゃんと前に進む努力をしてこそ、ダメな自分と共存共栄できる。自分がダメな奴だというなら、ダメなりに頑張るのが身の丈にあっているというもので、正しい自分を演じるよりはずいぶんと気が楽だろう。そういうことで、クソガキとしての努力の成果を示すべく、短答でしょうもない点を取ろうものなら大人しく神戸に帰る、という約束になった。これで神戸に戻ることになったら、いくら自分がダメ人間だからといってもさすがにしょうもなさすぎるので、何とか頑張ってやっていきたい。

 

※後付け:ここから、『インファナル・アフェア』という映画と繋げて色々書いています。ストーリーの内容については触れませんが、結末について言及します。真っ新な気持ちで映画を観たい人はここから先は読まないようにしてください!

 

 

 

ちょっと前、高校生以降くらいの自分は、いつ死んでもいいと思っていた、というと語弊があるかもしれないが、たしかに似たようなことを考えていた。いつでも死ねるような薬を持って、自分のダメさによって破滅的な局面が訪れたら、それを飲んで現世とおさらばすればいい。それが幸福な死というものだろうと思っていた。精神を病んでいたというわけではなく、本当に楽しい時間を過ごさせてもらっていたからこそ、キリのいいところで死ぬのがベストだと真剣に信じていた。とはいっても、そんな都合のいいブツはないし、痛いのは嫌なので、予備試験のことも含めて、色んな失敗をしながらも生きながらえてきた。

またまた唐突なのだが、この間『インファナル・アフェア』という映画を観た。警察に潜入するマフィアと、マフィアに潜入する警察官が主人公である(後者を演じるトニー・レオンがめちゃくちゃカッコいい)。この筋書きは面白いのだが、結末は賛否両論あるようだ。三部作になっているので、残り二作も観れば疑問は解消されるのかもしれないが。

この映画は台湾で制作されたもので、原題は『無間道』という。物語の最後において、このタイトルが活きてくる。すなわち、主人公の一人が堕ちるのは、善と悪の狭間で生き続けるという「無間地獄」なのだ、ということが語られる(ここがあっさりすぎるのが賛否両論ある理由だろう)。死んでカタをつけるのではなく、生き続ける。それこそが無間道というわけだ。

かねてから、キレイなまま死にたいなどと考えていた自分にとっては、罪を背負いながら生きていくことこそ無間地獄だ、というメッセージはすごく共感できた。善と悪という究極に対極的な二つを抱えて生きているわけではないにせよ、どうしようもない自分と共存しながら生きていくというのは、構造的にここでいう「無間地獄」と近いものがあると思う。どうも宗教的すぎる気もするけれど。

今のところさしたる大目標もない自分だが、最近はそんな中でも生き続けてやろう、と思うようになった。前の記事にも書いたことだが、こんなダメ人間に期待してくれている人がいる、と改めて感じられたことが大きい。このまま逃げてしまってはいけないな、ということが直感的に思われた。ここまで他人から色々なものを貰ってやってきた以上、責任を持ってダメな自分と生きていくしかないのだ。そこで待っているのは山あり谷ありの人生だろうが、幸い周りに恵まれているのだから、それも楽しんで生きていけばいい。汚れた川を汚れた自分のまま泳いでいく、そういう人間の生をありのまま受け入れようではないか。多くの人は初めから、こんなの当たり前だろう、と思われているかもしれないが、自分はこの年になってようやくこの境地へ辿り着き、肩の荷が多少降りた気分でいる。

この『インファナル・アフェア』は、母親が「めっちゃおすすめ!」というので観てみた映画である。世間的には賛否両論あると言ったが、僕としてもこの映画はけっこう好きだった。『ライ麦』は嫌いだとしても、ダメな自分と向き合って生きていく、という在り方には、うちの親もきっと共感してくれるに違いない。

きれいにまとまったので、この辺で筆を擱かせていただきます。またいつか。

(P.S. 『ライ麦』肯定派の友人に会いました。やっぱりこういう人は色んなところにいるのかもしれません。その人も、ダメな自分と生きていこうと思えたのはけっこう最近だとか。パッションに欠ける者なりに、マイペースで頑張っていこうと思います。そうはいっても、全力で打ち込めるものを見つけたい、とはずっと考えていますが。)