*:.。.:*゜ぁいとーの日記 ゜*:.。.:*

ある時点での自分の記録たちとその他いろいろ

君たちは「ネット予想家」を知っているか

お久しぶりです。司法試験が終わり、人生最大の暇を謳歌しているあいとーです。

たいへん唐突ですが、そんな自分の暇な時間を彩ってくれるのが競馬です。僕は中央競馬しかやっていないのですが、それでも土日の朝から夕方までたっぷりと楽しむことができるという優れものなのです。今や阪神や漫画と比肩する最大の趣味の一つとなっています。

さて、この頃の競馬の話題といえば、ハズレ馬券が経費になるのか、ということについての論争がありました。このことについて書こうとも考えているのですが、大学を追い出されたためにタダで法律の本を見るのが難しくなってしまい、なかなか進んでいないのが現状です。そういうことなので、今回は「競馬予想家」というニッチな世界に関して現状分析をしてみようと思います(競馬の色々についても書いていましたが、これは下に回しました。競馬そのものに興味がある人はぜひ読んでみてください。)。基本的に個性を捨象した記述なのでご了承ください。

 

ウマ娘の爆発的人気もあり、SNS(特にTwitter)で競馬について触れる人は増えてきているのではないでしょうか。そんなTwitterの競馬界隈には、「予想家」と言われるような活動をしている人が一定数います。彼らの中でも、例えばフォロワーの数に表れるような、他者への強い影響力を持っている方々を「ネット予想家」と呼ぶことにして、話を進めていきましょう*1*2

競馬の界隈に詳しくない人からすると、「予想って自分でするもんじゃないの?」「ネット予想家って何をする人なの?」と疑問に思う声があがりそうです。自分も、競馬を知らなかった時は、「ネット予想家」の存在など全く知りませんでした。しかしながら、フォロワーが万を超えるようなネット予想家も少なくないように、彼らを取り巻く界隈はけっこうな規模を持つものなのです。これはちょっと面白いんじゃないか、ということで、この記事では「ネット予想家」の存在の謎に迫ってみようと思います。

騎手による競馬予想が公式に禁止されて以来、日本の中央競馬*3では、「競馬評論家」なるプロの人や、スポーツ紙の競馬担当の記者が、テレビや新聞、雑誌で予想を語る、というのがほとんどでした。

しかし、SNSがすっかり浸透した現代、市井の競馬ファンでも、他人に向けて予想を公開している人は少なくありません。改めて、そのような人の中でも影響力のある人を指して「ネット予想家」と呼ぶこととしましょう。無料で予想を発表しているネット予想家も一定数いますが、中には、的中の実績を引っ提げて有料で予想を売っている人もいます。また、そのような有料ネット予想家の予想を集めるポータルサイトも存在しています。さらに、彼らのほとんどは副業としてネット予想家をやっているため、プロではなく、素人(アマチュア)であるということになります。

なぜこれだけ素人がのさばっているのか、というと、競馬予想は誰でもできるから、というのが当然あるのですが、もう一つ大事な理由が存在します。それは、(ネット予想家を含む)一般の競馬ファンには「しがらみ」がないということです。記者たちは、現場の取材に始まり、スポーツ紙の記事執筆やテレビの解説者など色々と仕事をしていますが、そのために人気馬を悪し様に言うことはあまりできません。例えば、しばらく後になって、前走の時は実は状態が整ってなくて…といった情報が出てくることも珍しくありません。現場と良好な関係を築き、馬券の売り上げに貢献する役割も担う記者には、情報発信の上で制約が課せられているわけです。その点、ネット予想家は競馬の現場とは何らの関係もない人がほとんどなので、忖度なく予想に取り組めるのです。その強みが、ネット予想家の存在の前提であると言ってもいいでしょう。

 

さて、彼らが有料又は無料で公開している「予想」とは何なのでしょうか。この答えは単純で、「予想の印」(どの馬を本命にして、その他に紐としてどんな馬を買うのか)と「見解」(なぜその馬を本命にして、どのように紐の馬をチョイスしたのか)です。加えて、人によっては、「自信度」(的中の見込みや、期待値の高さ)や「買い目」(印をもとにして、どのような馬券を買うか)も併記しています。

では、予想を見る人、特に買う人(以下では彼らを「予想の消費者」と呼ぶことにします。予想を買うことはないですが、僕も予想の消費者の一人です。)の動機は何なのでしょう。一番最初に思いつくのは、やはり「お金を増やしたい」ということです。馬券で生活費を稼ぐ人はほとんどいないでしょうが、ちょっと美味しいご飯食べれるくらいのお小遣いが欲しい、という人はけっこういそうです。

ここで、前提として、馬券で勝つのは相当に難しいという事実があります。馬券の払戻総額は、(同着がない場合)ある券種の総券面金額に、所定の払戻率を掛けた額となっています。ここで控除された額はJRAの運営費と国庫納付金として使用されるのです。この仕組みにより、競馬における回収率の平均は約75%であると言われます。標準偏差がどの程度の値かはわかりませんが、直感的に、回収率90%を超えれば充分優秀であり、100%、110%を超えてくるのはほんの一握りであると考えられます。

そうすると、予想の消費者たちのほとんどは、競馬で勝つことができない人であるということになります。翻って、ネット予想家はみんな100%という高い壁を越えているのかというと、どうやらそうでもないようなのです。回収率を公開している人自体多くないので、実体は不明ですが、特に予想の買い目に限ってみると*4、100%を超えているのは相当手練れの有料予想家だけだろう、というのが所感です。例えば、上でも紹介したポータルサイトの一つでは、「期待値レベル」という概念がありますが、同サイトに予想を提供している予想家の買い目の回収率を、期待値レベルによる限定を外して見てみると、100%を超えている人はほとんどいませんでした。結局、予想の消費者も、ただネット予想家に丸乗りするのでは100%の壁を越えるのは難しいと言えます。そして、丸乗りはせずある程度自分で考えるとしても、同じような結果が待っていることは言うまでもありません。

以上に書いたようなことは、初めはわからなかったとしても、長期的にみれば、予想の消費者にとって明らかな事態であるはずです。だとすれば、予想の消費者が予想を見る、または買う動機は、「お金を増やしたい」という希望(希望的観測)には留まらないと考えるのが妥当でしょう。全然興味のない人からすれば、勝てもしないのにどこの馬の骨ともしれない人の予想を見たり買ったりするのか不思議に思われるかもしれません。この点、私見では、メンタル的な部分が大いにあるのではないか、と考えています。

競馬の予想は、マジメにやろうとすると、意外と考えるべきことが多く、難しいものです(そこが醍醐味でもあるわけですが)。展開を考えたり、馬場状態を見たり、血統や調教を参考にしたり、とパッと挙げるだけでもなかなかややこしいです。それらの情報を効率的に分析するには多少のお金と時間がかかります。そのくせ、そんなに当たらないし、当てても勝つのは難しい。そうなると、ある程度の割合の人、特に「ちょっと競馬に詳しくなってきた人」*5にとってみると、自分で予想するという行為はストレスの方が勝っているのではないでしょうか。

そんな中で、ネット予想家のTwitterやnoteを見ると、もっともらしいことが書いてあって、時には買い目まで教えてくれているわけです。予想を読んで、「なるほど、確かに」と納得すれば、自分で考えるストレスを抱えることなく馬券を買うことができます。その上、外れても自分(だけ)の責任ではなく、ネット予想家に責任を転嫁することができ(これは実際に文句をつけにいくということでなく、あくまで消費者のメンタルの問題です)、その意味でもストレスを軽減することにつながります。当たった場合には、もちろんお小遣いが増えて嬉しいですし、「自分が乗る人を正しく選んで当たった」という達成感も得られます。

また、予想に丸乗りしなくても、自分のなんとなくの予想と近いことが書いてあれば、安心するものです。同じことを考えている人がいれば、それが客観的に正しい、ということにはなりませんが、それでも人は同志を求めるものです。ネット予想家のリプ欄を見ると、「見解同じで安心しました」「(予想が外れた時)次は当ててくださいね🥺」という類の返信が多く、「お前のせいで負けたわ下手くそ」みたいな返信は思いのほか少ない(馬券は自己責任なので、こんな批判は的外れではあります)ことは、以上に書いたことの表れではないでしょうか。

ここまでをまとめると、ネット予想家の予想を消費する最大の動機は、「諸々のストレスの軽減」にある、と僕は思います。ただし、その役割を担うためには、「この人の言うことは当たりそうだし、勝てそうだ」というイメージを作り上げ、それを崩さないことが必要です。それゆえ、自分の知る限り、ネット予想家となっている方々は、「(トータルで勝っているかは別にして)的中の実績があること」「見解に説得力があること」の2要素を満たしていることが多いです。

このように考察すると、ネット予想家の役割というのは、人間社会において物珍しいものではないということが言えます。時の人、ということで例を挙げると、ひろゆき氏も似たような立場にあると僕は考えています。彼は、今や「論客」としての地位を固めつつあります。「2ちゃんねるを立ち上げたという実績」があり、「なんとなく正しそうなことを言っている」と思わせる話し方ができる、ということが理由でしょう。それゆえに、多くの人が氏の提供する情報や、スタンスに価値を感じ、時には鵜呑みにするわけです。そこには、自分で正確な情報を調べるのは面倒だ、という感覚もあります。真っ当な学者などが、彼の発言の誤りを指摘し、それがバズることもありましたが、(フィルターバブルがあるとしても)その影響により、氏の立場が揺らぐという事態は今のところありません。

ここで大事なのは、氏の発言に「正当性がありそう」という「イメージ」であり、実際に正確な発言をしているかどうかはあまり意味がないという事実です。ネット予想家についてみても同じで、「この人の予想は当たりそう、勝てそう」というイメージが大事で、実際に彼らが予想を当てて勝っているかどうかは二の次ということです。Post-truthの時代を象徴するかのようですが、単に競馬予想の場合真実(正解)はレースが終わってからでないとわからないために、結果として構造が似てしまっている、という方が正確です。基本的には、悪意に満ちた世界というわけではない、とは言っておくべきでしょう。

しかしながら、残念なことに、馬券の捏造を駆使したインチキ予想家も登場しました。けっこう最近のことですが、何者かが、即PAT(インターネットで馬券が買えるサービスで、この記事の前提となっている存在)の的中画面を自由に作成できるサイトを作成し、これを利用した嘘の高額的中をエサにフォロワーを獲得、有料予想を買わせたり、オンラインサロンに引き込んだりといった詐欺まがいの事案がありました。彼らインチキ予想家は、しきりに「俺についてこい」的な発言をしていました。消費者を騙すことを真剣に考えただけあって、僕が上で書いたようなことを早い段階でよく理解していたのでしょう。騙す方が悪いのは当然として、勝てる予想家に思考を丸投げしたい、という人が少なくないために、このような事件が起こってしまったのだろうと思います。

ネット予想家にとっても、特に有料で予想を出す場合には、消費者を勝たせる、ということが至上の価値にはなります。しかしながら、実際に消費者を勝たせるのが簡単ではないという現実がある中で、ネット予想家が提供している最大の価値としては、先ほど触れたような、消費者のストレスを引き受ける、という点が挙げられます。その他にあるとすれば、「自力で予想する材料や方法を提供する」ことかな、と考えています。特に、先ほど予想の消費者のボリュームゾーンとして設定した、「ちょっと競馬に詳しくなってきた人」にとってみると、勝っている(と思われる)人の予想の思考や方法を学ぶのは価値のあることです。自力で勝てるようになるのが何より嬉しい、というのは、多くの馬券購入者が思っていることでしょう。かくいう自分も、色々な予想を消費することで、自分なりの予想・馬券購入のスタイルを作っていきました。後述しますが、丸乗りして勝つだけならもっといい方法が消費者にはある(あった)ので、このあたりが重要なポイントのような気がしています。

最近では、オンラインサロンを開くネット予想家も複数います。そこでの回収率の実態は謎に包まれていますが、競馬を楽しむコミュニティを形成する、という点では、一介のネット予想家とは異なる価値を提供できているのだろうと思います。もっとも、オンラインサロンともなると会員は「勝てる」と信じて入ってくるでしょうから、その信頼に応えることは必要になってきそうです。

 

ここまで、ネット予想家の消費者側の需要について考察してきましたが、ネット予想家当人たちにとって、予想を公開することにどのような意図があるのでしょうか。抽象的には、ネット予想家にとっては、「予想を公開することによって得られる効用>公開を停止することによって得られる効用」という状態が成り立っているだろう、ということが考えられます。そこで、その具体的な意味を明らかにしていきたいと思います。

少し話が逸れるようですが、皆さんは「競馬AI」なる存在を聞いたことがあるでしょうか。最近では、深層学習を用いてAIでの競馬予想をしている人(アカウント)が増えてきています。その精度についてはまさに玉石混淆といった様相ですが、初期の代表的なAI予想である「競馬AI 松風」は、凄まじい額を稼いでTwitterを去っていきました(詳しく知りたい人は「競馬AIでポルシェを買う話」と検索してください)。

(競馬AIについては、馬券と税金の話においても重要な存在です。かなり大雑把に言ってしまうと、競馬AIの場合は自動購入・大量購入なので、外れ馬券も経費として扱ってよい(=実際の利益にのみ課税される)ということになります。)

その「松風」と並び有名なのが、「競馬AIゆま」というものです。このうさんくさそうなのはなんなんだ、という方に説明すると、バカみたいに当たるAI予想を、馬券発売の締め切り前に無料で公開してくれる優れものです。その存在があまり知られていなかった頃はよかったのですが、最近ではゆまの優秀さが多くの人に知られることとなり、ゆまのツイート後のオッズ変動が凄まじいことになっていました。例を挙げると、先日の地方競馬のレースでは、単勝オッズ15倍だった馬をゆまが軸として指名し、最終的には3.4倍になった上に無事勝利するという出来事もありました。さらに、大量購入するAI予想では、ほとんど全レースを買うことになる(先の税金の取り扱いの関係)中で、それでも100%、どころか110%を超える回収率を誇るのが凄まじいところです。たいていの競馬ファンやネット予想家は、勝負レースを絞って買った上でなかなか100%を超えないということを考えると、AI予想の正確性には度肝を抜かれます。

そんな「競馬AIゆま」ですが、2022年8月末をもって公開を停止するとの発表がありました。ブログにおいてその理由が書かれており、様々な憶測も飛びましたが、自分なりに端的に解釈すれば、「有料で公開する方式に変えることによる効用を、公開を停止することによって得られる効用が上回っていると判断したから」公開を停止したのだと思います。既に馬券で相当の資産を得ており、馬券の購入資金も一般人より遥かに多いのだとすれば、1レースでいくら、月でいくらと決めて人々に購入してもらうことで得られるだろう利益よりも、予想の公開が生むオッズの低下による損失の方が大きいのでしょう。その上、予想を参考にして馬券を当て、感謝の意を述べてくれる人が多くいる一方で、公開しなければ予想の当たり外れでいちいち叩かれることもなくなるため、精神的な安定という意味で後者を重視したのだろうと思います。

ここで、改めて言明しておくと、ネット予想家にとっては、「予想を公開することによって得られる効用>公開を停止することによって得られる効用」という状態が成り立っているということが推測されます。ゆまの事例と対照しながら、「予想を公開することによって得られる効用」について考えてみましょう。有料ネット予想家にとっては、予想が購入されることによって得られる額が相対的に大きいとは思われます。人力で回収率100%を超えることが難しいという現実からも、有料予想の売り上げに期待するところは、ゆまよりも大きくなるのではないでしょうか。とはいえ、ほとんどのネット予想家は、副業として予想家活動をしているので、この点がメインの理由とはならないと考えるのが妥当です。

無料有料を問わず、予想を的中させ、(可能であれば消費者を勝たせ、)消費者に感謝されることで承認欲求が満たされるということがあります。この点が、最も重要なポイントだと考えています*6。自分の趣味、好きなことをして他人と交流したり、時に感謝される、というのは、Win-Winの関係であることも含め、素晴らしいことだと言えます。もっとも、その関係を保っていくには最低限的中させ続けなければいけないわけですが(イメージの問題)。先に述べたように需要はけっこう大きいので、承認欲求を満たすフィールドとしては、かなり優秀なんじゃないかなという気がします。

今度は、「公開を停止することによって得られる効用」について考えてみます。消費者に叩かれることがなくなる、ということがまずは言えそうです。その評価については、個人の性格によって異なってくるので、何とも言い難いところではあります。一方、ゆまにはあった、いわゆる「オッズ破壊」がなくなるという利益は、一介のネット予想家にとっては気のせい程度しかないように思われます。無料で予想を出したところでフォロワー全員が丸乗りするわけでもないし、有料予想でも、丸乗りする割合は増えても、絶対数が減るので、(少なくとも中央競馬では)オッズを動かすほどの影響力のある人はいないと言っていいでしょう。

色々と考えてみると、ネット予想家が自ら予想の公開を止めることは、基本的にはあまり起こらないことだろうと結論付けられます。承認欲求を満たしつつお金も稼ぐとなると、やってることは普通のインフルエンサーと似ているので、当然といえば当然です。SNSの発展により、承認欲求の存在が強く意識されるようになり、もはや当たり前のものとして受け入れられるまでになりました(そのことの是非について語るものではありません)。ネット予想家は、ビジュアルの強さや、面白さではなく、見解の巧みさや的中実績によって、承認欲求を満たす存在だ、と言うことができるでしょう。

 

ここまで、ネット予想家の現在地がどんなものかについて私見を述べてきました。一見謎の存在に思えるネット予想家は、ギャンブルに関わるもの、という点は特殊でありながら、その需要という面においても、本人たちの動機という面においても、まさに現代らしい典型的な存在である、ということが明らかになったのではないかと思います。さて、最後に、ネット予想家が与えた影響と、その未来について考えてみることにします。

最近馬券購入者の間でよく言われるのが、「オッズが辛い」ということです。これは、先に述べた「オッズ破壊」の問題とは似て非なるもので、そのレースで有力であろう馬が、順当に売れているということを意味しています。そして、オッズが辛くなる理由として、競馬民全体の予想レベルの向上がある、と言われています。競馬番組の内容、スポーツ紙の内容なんかは昔とさほど変わりがない中で、ファンの予想が上手くなったのは、広くは情報化社会の進展が要因であり、具体的には、網羅的なデータベースの登場と、優秀なネット予想家たちの影響が大いにあると思われます。前者によって正確な予想をする素地ができ、それを利用したネット予想家が、馬の能力や適性、コースの特徴を捉えた予想で成果を挙げていき、その影響が今や一般の競馬ファンにも浸透している、ということだと理解しています。

このように、ネット予想家の功績が大きい一方で、そのために一般の競馬ファンが勝つのがますます難しくなり、ネット予想家の方も簡単には生き残れないという環境が作られてしまった、というのが現状だと言えるでしょう*7。「この人は当ててくれそうだ」というイメージを保つのが困難になった、ということです。今後のネット予想家がどうやってサバイブしていくのか、と考えてみると、オッズの辛さをものともしないような「勝てる」予想をするか、他のネット予想家にはないファクターを活用して、独自の地位を築いて生き残るか、あるいは粗品ばりの「おもしろ枠」として活路を見出すか、といった方向性がありそうです。他にも、徹底的に「逆神」になるスタイルもありそうです。これはいつの世にも通用する面白さを備えているので、悪くない方法に思えます。

ただ、自分としては、ネット予想家の最大の需要は「思考の丸投げ」「ストレスの引き受け」という点にあると考えているので、ネット予想家が消え去ってしまうことはないだろう、とは考えています。払戻額の控除率が変わることもないでしょうし、人間のメンタルの根本からきているだろう需要がなくなることはないからです。また、既に述べたように、承認欲求を満たすフィールドとして優秀(努力でなんとかできる部分が大きく、需要も大きい)なので、ネット予想家の数(供給)も、減ることはないでしょう。もっとも、ネット予想家を求める消費者においては、予想家が的中した時にはしっかりと感謝の気持ちを示すことが必要であり、そうしなければ、この界隈自体がどんどんとしぼんでいくことになるのだろうと推測されます。

言いたいことは以上です。これを読んで、競馬と、謎多きネット予想家の世界を少しでも面白いと思ってもらえれば何よりです。

 

 

・・・

まず、競馬にのめり込むきっかけから書いていくことにします。大学2年生、2019年の秋のこと、クラスからの友人が「今年の秋の天皇賞が超豪華メンバーだから観に行こう!」と誘ってくれました。当時の僕は、競馬番組はおろか、超有名なレースすら一度も見たことがないというド素人だった(クイズの前フリで、「父キングカメハメハ…」ときたら「アパパネ(史上三頭目牝馬三冠馬)」と答えるというような浅すぎる知識しかありませんでした)のですが、実際に競馬場に行く機会なんてなかなかないだろう、ということで行ってみることに決めたのです。これが全ての始まりでした。

初めて行った東京競馬場は、およそイメージしていたような小汚い場所ではなく、とても綺麗に整備されていました。当日は10万人を超える人数がいて、メインの天皇賞・秋はまともに観るのも難しい状況でしたが、それでも全力で走る馬が地面を踏みしめる音の迫力には、自然と心動かされるものがありました。実際に馬が駆け抜けていく光景を目の当たりにした時の感慨というのは、時代を問わない普遍的なもののように思います。そして、素人の僕は当然のように5000円負けて帰りました。それでも「二度と競馬なんてやらない」と思わなかった時点で、既に競馬沼にハマっていたのでしょう。

競馬に詳しくなっていくと、想像以上にたくさんの予想のファクターがあることを知ることになります。色々な要素が複雑に絡み合ってレースの結果が決まり、また次のレースへと向かっていく、という競馬のプロセスは、まるで人生のようだと僕は思っています(数ある娯楽の中でも、競馬と麻雀は特に人生っぽさがあるというのが持論です)。それを説明するべく、予想に使われる様々な事柄についてみていくことにしましょう。

人間界においても、最近つとに「親ガチャ」という言葉が広まっています。そして、競馬の世界、すなわちサラブレッドの世界においても、血統や育成環境がモノをいう領域は多いです。優秀な父か、優秀な母か、どの牧場で生まれ、どの厩舎に入るのか、といったところがパッと挙げられるでしょうか。父母の馬場、距離への適性や、育成、調教の方法が、その馬の能力や個性を形作る面は大きいです。馬に自主的な「努力」の観念を容れる余地がないので、当然と言えば当然なわけですが…。能力の限界とは別に、一生懸命に走れる馬と、そうでない馬とがいますが、「努力できるのも才能/遺伝」と言ってしまえば、それまでかもしれません。

もう少し馬の「能力」について深堀りしていきたいところですが、その前提として、いくつか競馬の基本的な知識について押さえておきます。

  • 競馬は主に「芝」「ダート」「障害」の3種類のレースがあります。日本では芝が花形ですが、アメリカではダートがメインですし、ヨーロッパでは障害レースが平地(障害以外のレースのこと)より人気なこともあります。
  • 平地競争の距離のカテゴリーとしては、おおよそ短距離、マイル、中距離、長距離に区分でき、オープンレースや重賞、その中でも最も格の高いG1のレースも、それぞれの路線で用意されています。重賞以外にも多くのレースがあり、勝利数によってステップアップしていく「条件戦」として行われています。キャリアの浅い2歳から3歳前半あたりまでは、1勝するだけでも重賞に歩を進められますが、基本的には4勝を挙げることで「オープン入り」し、格の高いレースに向かっていくことになっています。ほとんどの馬は1勝もできずに終わり、オープン入りできるのは限られた馬だけです。条件戦においても、いい着順を取れば、賞金を稼ぐことができます(なお、日本では地方競馬も含め、世界の中でもトップクラスの賞金が得られます)。
  • さらに、2歳から3歳までの若駒が競い合う「世代限定戦」も存在します。「クラシック三冠」「牝馬三冠」といったレースは世代限定戦であり、有名な日本ダービーもその一つです。対して、例えば有馬記念は3歳以上の馬が一堂に会して戦いますが、このようなレースは「古馬戦線」に位置づけられます。世代ごとのレベルにも差がありますし、早熟な馬もいれば晩成の馬もいます。
  • 日本の中央競馬には10の競馬場があり、それぞれ直線の長さやコーナーの角度、坂の有無など個性が豊かです。そしてどの競馬場にも多彩なコースが設定されています。また、雨が降って路盤に水を含んだり、強い風が吹いたり、使い込まれて芝が痛んだりすることで、同じコースでも様相が変わってきます。
  • 競走馬の血統は、基本的に父系と言われるもので、ざっくりと分けると4種類になりますが、様々に分化した小系統がたくさんあります。そして、それぞれの血統が持つ特徴、伝える能力は千差万別で、そのために得意な条件と苦手な条件が生まれてきます。大レースが多い芝中距離に強い血統(「良血」と言われるのはこういう血を持っている馬が多いです)もあれば、ダートの短距離で活躍する血統もあります。よく参照されるのが5代目までの血統表で、どんな系統の馬がいるかや、同血の馬が複数いる「クロス」が大事になってきます。
  • 基本的に競馬は前に行った馬が圧倒的に有利です。ただし、ペース(ラップの推移も含む)や馬場状態によっては前の馬にかかる負荷が大きく、後ろにいた馬が差してきやすいこともあります。ハイペースに強い馬もいれば、スローペースに強い馬もいます。

ざっとこんなところでしょうか。長くなってしまいましたが、これだけの知識を入れると、ひとえに「能力」といっても、方向性が一定ではないことがわかってもらえると思います。人間についても、運動ができる人、勉強が得意な人、絵が上手な人、など多種多様な才能があるわけですが、競走馬についても同じようなことが言えます。短距離が得意な馬、長距離が得意な馬などの個性があり、距離の適性には限界があります。例えば、1200m、1600m、2000mのG1を全て勝った馬は日本にはいません。さらに、勉強が得意といっても、科目ごとに得手不得手があるように、競馬においても、同じ距離のレースなのに、コースの違いや天候、ペースによって求められる能力が変わってくるということがあります。そのために、多彩な血統が存在し、小さな牧場も生き残ることができているのです。「良血」と呼ばれる馬が常に強いわけでもないし、雑草とみられるような血統の馬でG1を勝つことも可能です(重賞で、地方競馬の馬が中央競馬の馬をなぎ倒すこともあります)。障害レースにおいても、平地の実績で勝る馬が強いとは限りません。多様な才能が肯定されるのは、競馬の素晴らしい側面と言えるのではないでしょうか。

(とはいえ、いい成績が出せず登録抹消となり、乗馬にもなれず繁殖にも上がれなかった馬が、ほとんど屠畜されるという現実もあります。サラブレッドは経済動物なので、ショッキングではありますが仕方のないことなのです。アニマルライツ、アニマルウェルフェアといった概念の浸透もあり、引退した競走馬への支援は、JRAが行うものから民間が行うものまで、昔に比べれば色々と拡大していますが、それでも限界があるのは確かです。)

競馬の場合、「努力」をするのは馬に関わる人々の方でしょう。競馬に携わる人の中で、一番イメージがしやすいのがジョッキーです。ジョッキーにとっては、騎乗技術を磨くことも大事ですし、自分が乗る馬についてはもちろんのこと、走るコースのこと、当日の馬場状態(どこが走りやすいか、といったこと)、他の馬や騎手のことなど、頭を使って考えなければならない事柄が色々とあります。馬の能力の違いもありますが、力差がそこまで大きくなければ、騎手の腕が着順に小さくない影響を与えると言えます。面白いのは、馬に乗るのが上手でも、馬を勝たせるのが上手とは限らない、ということです。努力の方向性がズレていると結果に繋がらない、というのは、人間の世界と共通するものがあるように思われます。

それ以外にも、調教師や調教助手、育成牧場のスタッフなど、馬の仕上げ、すなわち馬が持てる能力をしっかりと発揮させることに力を注ぐ人たちがいます。常に100点満点の状態を保つのは難しいので、仕上げ切らずに出走させる「叩き」を入れることもありますし、体質も考慮して長い休みをとって仕上げ切ることもあります。いずれにせよ、馬の能力・適性を見極め、目標とするレースに一番いい状態で出走させられるのが理想です。ただ、経済動物という目線からすると、馬主にとっては安定して賞金を持ち帰ってくれることも非常に大切(馬の維持費はバカにならないのです)で、調教師としては、どのくらいの状態でどの程度走らせて、いつ休ませるかといったことも考える必要があります。人間も、自分の適性を見極めるために様々な事柄を学び、経験することが大切ですし、適度に休みを入れたり、肩の力を抜くことも必要です。

ここまで才能/環境、努力の要素について書いてきましたが、当然のことながら運の要素も多分にあるのが人生であり、競馬も同様です。適性の話ともつながりますが、晴れの良馬場で走らせたい馬なのに、雨が降って重馬場で走らなければならなくなることもあります。能力が高くても、ゲートを出た時に躓いてしまって、苦しいレースを強いられることや、騎手が落馬して競走中止になってしまうこともあります。さらに、他の馬の動きやアクシデントによって、進路がなくなったり不利なコース取りをさせられたりすることも珍しくないです。ともかく、その時々の1回のレースにおける、上にあげてきたような不運は、甘んじて受け入れるしかないのです。

 

長きにわたって競馬における様々な要素を説明してきました。予想をするときには、これらの要素を組み合わせながら考えていくことになります(あくまで理詰めで予想する前提で、フィーリングやオカルトで予想を楽しむこともあります)。具体的には、馬場読み、展開読み、血統、騎手の得意条件、調教、過去レースでの好走や不利の回顧などが挙げられます。しかし、全ての要素を合わせて考えるのは、時間もかかりますし、各要素の重み付けも非常に難しいので、例えば馬場状態、コースの特徴を前提に血統メインで予想する、というように、多少単純化した方法をとっている人も多いです。

ただ、個人的には、なるべく全ての考慮要素を総合して考えたい、と思ってしまいます。そうやって頭を使う方が、競馬に関わっている、という当事者意識を持てる気がして楽しい、ということが大きいです。自分や他人のことをもっと知りたい、というのと同じように、馬についてもっと知りたい、という知的好奇心もあるのかな、と思います。「調教はめちゃくちゃいいけど、適性が合わないんじゃないかな…」などと考えて失敗し、悔しい思いをすることもままありますが、仮説と検証を繰り返すというプロセスの面白さが勝っていると感じています。

予想の仕方というのはこんなところになりますが、より重要なのは馬券の買い方です。なんだかんだと綺麗事を言っても、馬券を当ててたくさん勝つことで、お金も増えるし脳汁も出るというものです。そのために最も大事なのが、しっかりと期待値を取ることで、どういう馬を狙い、どの券種を使って何割くらい的中させたいか、ということは個々人の性格によって変わってくるところかなと思います。

ここでいう期待値は、非常に単純なもので、何倍になる馬券が何%の確率で的中するのか、で計算されます。もっとも、的中確率はあくまで主観です。実際の客観的な的中確率が存在すると仮定したときに、主観的な的中確率を実際のものにどれだけ近づけられるが予想の上手さであると言うことができます(客観<主観になると、実際には期待値の取れていない馬券を買ってしまうことになりますし、客観>主観になると、実際には期待値が取れている馬券を買い損ねてしまうことになります)。

その上で、オッズはつかないけど的中確率の高い馬券を買うか、的中確率は低くてもオッズは高い馬券を買うかは人それぞれです。前者は1回でも外れた時には辛い思いをしますし、後者は長い間外し続けることも珍しくない(独立事象)、という辛さを味わうことになります。ちなみに、自分は資金力もなく、一気に大金失う方が辛いタイプなので、少額で参加レースを増やして穴狙いをするスタイルでやっています。予想がピタっとはまって大きな馬券を獲れた時の気持ちよさは、難しい問題で一人だけ正解(あるいは最もいい答え)を出した時のような感覚です。

馬券を買うのには抵抗のある、という人は多いと思いますが、理詰めで考えて予想し、的中させるという営みは、なかなか魅力的なものだ、ということは伝えておきます。まあ、どうせ頭を使うならちゃんと学問に向き合う方がほとんどの人にとってはいいとは思いますが…笑。

 

 

*1:YouTubeで同じようなことをしてる人も少なくありません。ただ、競馬YouTuberの場合、予想そのものよりも購入する過程や結果を共有し、エンタメとして見せる人が多いので、方向性がちょっと違うのかな、と考えています。

*2:また、Twitterでも予想ではない情報提供をメインにされている方もいます。彼らは「ネット予想家」には含まれないという前提で話を進めます。

*3:海外では、公認・合法の予想家が活動していますし、地方競馬には「場立ち」と呼ばれる人がいるのは有名です。

*4:個人で買っている馬券全体、ということになると、一般の競馬ファンに比べればプラスの人の割合が多いだろう、とは思います。

*5:ウマ娘から入ったり、何かの馬のファンになったりで競馬を始めたライト層にとってみると、わざわざ競馬予想を見ようなどと考えないだろう、という意味も込めて、この表現になりました。Instagramで競馬予想がイマイチ広がらない(例えば、1万フォロワーを超えるような予想家はほぼいない)のは、このような層の違いにあるのだろうと思います。

*6:その他にも、単純に自分の意見をまとめて文章に起こし、それを公開すること自体の楽しさはあると思います。競馬予想という行為自体に最大の楽しみを見出し、それをブラッシュアップしていきたいという人もいそうです。

*7:ゆまの公開停止によってまた流れは変わるかもしれませんが。