*:.。.:*゜ぁいとーの日記 ゜*:.。.:*

ある時点での自分の記録たちとその他いろいろ

何も言ってないに等しい記事(3000字)

こないだ一人で映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観てきた。控えめに言って最高って感じだった。一人でどこかへ行くことは割と好きな方だと思う。一人でフィンランドに行ったのも、いい思い出である。仲良きことは美しき哉、確かに友達との時間はテンションは上がるけれど、いくらか余計なものもついてくる。それゆえ一人の方が幾分楽だと思うこともよくある。もっとも、友人との付き合い無しにずっと過ごしていくことは自分にはできないから、その余計なものについてちゃんと向き合わないといけなくなる。

これまでの人生流れに任せ過ごしてきた中で、自分がどれくらい思想的にこだわり持ってる人間なのかはあまりわからない。ただ、一つだけ明確に意識してきたことは、「敵を作らない」ということである。

「敵を作らないがマイテーゼです」なんてここで自分で言ってしまってはずいぶんと敵も増えそうなものだがそれは置いておいて、外面の良さはまあそこそこだと自分では思っている。Tinderでもわりとそこ褒められるし(まるで恋愛に至る気配がない原因でもあるのかもしれないけど)。外面だけは良いよね、なんて言ったらたいてい蔑みを込めた言葉だけれど、どうせ内面がぐちゃぐちゃなら外面だけでも整ってる方が幾分マシというものだろう。性格悪いやつにどう思われようがどうでもよくない?って思う人はけっこういると思うが、自分はそうではなく、どんなに僕が嫌いなタイプの奴でも、自分のことを嫌うことはないように振舞いたい。誰とでも仲良くできる自分ってすごくステキに見えるから。あんまり仲良くなりたくないやつには、掴みどころないなあと思わせておくくらいでよくて、そうすれば勝手に向こうも「こいつとは適当に付き合っておけばいいか」となってお互い得なのである(これは、こっちから色々開示したうえで掴みどころないなあと思われるのとは別)。そして逆に、すごくいいやつそうだからすごく仲良くしようと思えば、こちらからどんどん何でも話して、信頼してるんだぞ感を出す。犬が飼い主にお腹を向けるようなものである。しかしここで蹴っ飛ばされたりしたらダメージがでかいので、相手は慎重に選ばないといけない。向こうも一緒に仰向けに転がってくれるという確信がなければいけない。

今回はずいぶんとメンヘラチックな記事になっている。当然と言えば当然で、本当に中身もキレイなやつはいちいちこんなくだらないことは考えないわけで、このメンヘラ目線は外面整えてるタイプにしかできないことなのである。いちいち「自分の本心はなんだろう?」とか考えているうち、「なんで自分は親切をしてるんだろう?」とか考えるようになって、そして自分が偽善に塗れているのかそうでないのか、だからといって自分の性根は悪いのかそうでないのか、余計なことが頭を渦巻くようになった。まさに、問題の存在に気づいてしまったがゆえの不幸というやつだ。だからやっぱり時々、もっと不自由な方がよかったかもしれない、世界が狭かった方がよかったかもしれないと思ってしまう。ひたすら継母と姉たちの手伝いをするシンデレラは、自分が親切だ偽善だとかそんな観点はなくって、ただ命令されたから手伝いをしてるだけだろう。シンデレラの話とは違うが、誰かの言葉を全部建前じゃなく本音だと思って生きられるならずいぶんと楽だろうと思う。また、適度に素の自分を見せたり隠したりしてうまく生きてる人を見るたび、すごいなあと思うけれど、他の人もみんなこんな感じなのかと、自分も結局誰かの外面しか見せてもらってないのかと思う。

さっきから、散々外面内面と言葉を使ってきたけれど、どこまでが外にあたるのか、それもまたわからない部分だ。誰だって、相手に合わせて、何をどこまで語るかを決めるものである(自分が割とそういう風にしているだけしれないけれど)。振舞いの違いの態様と程度に応じて内外を分けるとかいうことになるかもしれないが、あまりにも複雑でやってられないだろう。結局のところ、人の振舞いが、そのままの内面の一番外の部分か、内面を守る殻としての外面なのか、結論付ける術はないような気がする。永遠に納得できないなら、考えないのが一番いい。

とはいえ、自分について何でも話せて、相手も相手自身のことを自分に何でも明かせるような関係を理想だとすれば、やっぱり相手の内面というべきものについて探ろうとしないと無理なのである。他者からの信頼を求める中で、まず自分から相手を信頼して、見返りをもらおうという気持ちの表れなのだろうか。ところが本音と呼ばれるようなものは、ダダ洩れになっては、人間関係は成り立たない。『サトラレ』なんてまだ生易しいかもしれないってくらい、ぐちゃぐちゃになるに違いない。結局建前を張り替えながら生きていく今のスタイルが一番マシなんだと思う。形だけでも他者を尊重できるから、人類はここまで社会性を持って生きてこられたんだろう。別に全部嘘だって、結果として誰も傷つかないように振舞えるのならその方がいいし、責める謂れもない。本音と正論を振り回して他人を傷つけて生きるよりは遥かにまともな生き方だ。

人はとかく陰口を叩く生き物だと自分は思っているが、これも本音を求める習性と関わるのかもしれない。人の嫌なところは、とりわけ一見いい感じの人のものほど、目立って感じられるものである。ただ、そこで直接誰かに悪口を言うことは、素直な点は評価できようが、共同体をぶち壊してしまうという巨大な損失をもたらすため、簡単にできることではない。つまり、外面には表れにくい、どちらかというと本音に近いものだろう。そこで、その人がいない(その人の影響を受けない)場所で、陰口が飛び交う。陰口を言うことは、なんだかお互いの本音を素直に出しているように思えて、仲間意識を生むものである。よっぽどいいやつに対してでない限り、誰かの性格を褒めることで連帯意識が生まれるなんてことはない。スキルを褒めることはよくあるだろうけど。それに、仲良くなった人にはとかく愚痴を言いがちである気がする。この映画が面白かったとかいうことは、あまり仲良くない人にも臆面なく言える(もちろん仲良い人に話す方が楽しいのだけど)。こうした傾向に寂しさを感じつつ、自分もそうして生きてきたことを思い返し、複雑な気分になる。負の感情の共有から信頼が生まれるのは皮肉なことだ。自分は結局何を友達に期待しているのだろうかと疑問に思う。

ここまで散々言葉をこね回してきたけれど、別に実際友達と話している時こんなことは頭から吹き飛んでいる。適当に話し、楽しんで、終わり。一人の時間がやってきたときに、こうしたことが思い出されてくるのである。こんなことは種々の行動から適切な後付けの理由を見出しているだけに過ぎないだろう。それでも少しでも他人に心地よく会話してもらうために、つまり自分が傷つけられないために、体系づけてやりたいと思ってしまう。そういう自分の弱さが、まさに偽善という感じがして、やはりあまり好きではない。ただ、直観を言葉にするのは、苦しいけれど嫌いではなく、続けてしまう。こうして、普通は仲良い人にもあまり言わないようなことを共有することで、他人を繋ぎ留めたいのかもしれない。

今回と共通する部分があるので、次は自己肯定感の話題にするつもりだ。