*:.。.:*゜ぁいとーの日記 ゜*:.。.:*

ある時点での自分の記録たちとその他いろいろ

幕の内弁当(大)

大変ご無沙汰しております。あいとーです。毎回ご無沙汰しているので、そろそろ誠意がこもっていない感じがいたします。

これだけ間が空くと、君はもう何も書かないのか、という風に思われていたのではないだろうか。実際のところ、ここ数か月は途中で記事を投げ出してばかりだった。メモ書き程度(高田ふーみんと若い頃のイジリー岡田って似てません?)ならいくらでも更新できたとは思うが、自分の考えを綺麗にまとめて書き上げるのは想像以上に難しい。驚くべきことに、なぜかまだ毎月数百PVがあって、しかもそれがかなりの割合でGoogleからのアクセスということなので、いったい誰が見ているのか不思議になる。

ただ、今回の記事については、令和2年度の予備試験にも落第したということで、何か書き切って膿を出さないとな、という風に、それに何か宣言することでやる気を保ちたい、と強く思ったので、どうにか完成に漕ぎつけた。2回も落ちたのを見ておられる皆様方においては、そんなんいいからしっかり勉強しろよと思われることだろう。しかし、2年連続けっこう惜しいところで落ちていることを踏まえ、試験の敗因を当日のひどいミスとそれをカバーできない努力不足の二つに分けるとすると、自分の精神面というのは後者に強く関係している所なので、ここでは自分の2020年と、試験を受ける理由を整理することによって、この先のことを考えていこうと思う。

(後付け:Facebookもすっかり見なくなっており、こういう文章を小分けに書く機会がなかったので、けっこう文字数多くなってしまいました。毎回のことですがすいません。試験のことはわりとどうでもいいよって人は、昔の記事が貼り付けてあるあたりまで飛ばしてください。逆に多少の惚気成分も受け付けない人は、試験の話だけ読んでくさい。)

とりあえず、大元は試験の話ということで、自分と予備試験のかかわりについて振り返ってみようと思う。そもそも、自分が大学に入る前から法律や法曹に興味があったかといえば全くそんなことはなかった。まあ、これは実際に法律にかかわる仕事についた人もほとんどそうかもしれない。自分が多くの人と違うのは、資格試験に向けた勉強を始める時期の早さだろう。平成23年から門戸の広い予備試験が導入されて、学部生のうちに合格し、司法試験に臨むという人はそれなりの数いる。特に最近では、予備試験ルートのわかりやすさや待遇の良さもよく知られるようになり、年少の合格者(今年は高校生論文合格者がいたとか?)も出ている状況である。とはいえ、学部2年までに受かる人はまだまだごく少なく、4年生で受かればキャリア的には無問題となっている。

そんな中で、自分が1年生から予備試験の勉強を始めることにした最初のきっかけは、某クイズ番組で知り合った先輩に勧められたことだった。その方は非常に優秀で(自分から見れば)キャリアについてもよく情報を集めしっかり考えられていたので、早く始めるに越したことはないという話を聞くうちに、なんとなく自分でもそんな風に思うようになった。それで話を聞きに行った予備校の講師の方も大変気さくで話しやすく、これなら受かるのではないかと思い、親を説得した末五月祭が終わった後から勉強を始めた。まだ結果を出せていませんが、ここで勉強を始めたこと自体は全く後悔はなく、自分にとって良い選択であったと思っているところだ(誤解を招きそうなので明示で書いておいた)。

これだけ書くと、他人に流されて始めただけじゃないかという風に見えるが、実際そこまで単純な話ではない。この選択肢を魅力的だと感じたのは、「何者かになりたい」あるいは「何者にもなれないまま過ごしたくない」という、自分の根底にある想いの為せる技だったと思う。この想いがどこから来たかと考えると、自分が抱えていた二つの不安に帰着した(しばらく非常にモラトリアムらしいありきたりなことしか書かないが、ご容赦ください)。

一つには、「何も目標を見つけられないまま過ごす不安」である。思えば昔から、なにか具体的な将来の夢を思い浮かべていたことは全くと言っていいほどなかった。もちろん、高校生の時あるいはもっと前から、何か夢や目標を持ってそれに向かって突っ走っている人は、そんなに多いわけではないと思うけれども、数少ないそういう人の存在を目にするにつけ、行く先を知らず、また決めもしないまま、レールの上を歩いてきた自分自身の空虚ぶりを実感していた。別に何かに打ち込んだことがないわけではないし、とりわけクイズはいい線行ってたと自負しているが、それに生涯を捧げるつもりはなかった(昨今のブームを見るにこれは先見の明がなかったかもしれない)ので、将来の不透明さは拭えなかった。

もう一つは、「目の前に広がる選択肢が広すぎることによる不安」である。何をやるにも遅すぎることはない、とは言うが、とりわけ学生というのはその気になれば何にでもなれる、というような前途洋々な存在である。しかし、それは裏返してみれば、学生(自分)は非常に曖昧な存在である、ということだ。その曖昧さを楽しむこともできたかもしれない。事実、前期教養学部のある東大に来た裏には、一つそういう意図があったなと思われる。とはいえ、いざその無限の色が広がってるところに身を置いていることを自覚すると、何をすればいいのかわからず、そして何をしても中途半端なままになってしまうという不安が頭をもたげてきた。もともと優柔不断なタイプなのもあって、このまま漫然と過ごしていてはなんかいろんなことをちょっと齧っただけのペラペラ人間になるだろう、ということがイメージされたわけだ。

(少し脱線するが、自分の前に道(選択)がたくさん見えている状況と、1本だけ見えている状況とを比べた場合に、絶対的な正しさとか美徳というものには前者の方が近いのに対し、相対的な幸福や満足というものには、明らかに後者の方が近いのではないか、と自分は考えている(Qアノンとか見れば納得してもらえるのではないか)。色々なことを視野に入れて行動できるということは、それ自体素晴らしいことではあるけれども、言ってしまえば非常に負担が大きいものである。そうはいっても、目の前にたくさんの道があるということを知ってしまった以上、その認識は変えられるものではない。)

こういった不安や、そこからくる「何者かになりたい」という指向性は、多くの人が少なからず持っているものではないか。ありきたりな悩みだからこそ、こういうものといかにして向き合っていくか、というのが人生における難題なわけある。例えば就活は、強制力をもってこの悩みの存在を突き付けてくるものなのではないか、と(自分でやってはいないながら)思う。よく考えてみると、20歳前後の学生なんてまだまだ先は長いわけで、誰しもがすぐに答えを出す必要はないのだが、そこで自分が選んだのが、文系最高峰の資格を得るべく司法試験(予備試験)に合格する、という道だった。一度道を一つに絞ってみれば気持ちが楽になるだろう、と考える中で、最もつぶしがきいて、やりがいのあるものが、法曹の資格を手に入れる、というルートだと結論したわけである。法律に向いているか、そもそもやっていて興味が湧くかもわからない中で、資格の勉強をすることに決めるのは大きな賭けではあったが、それは同時に逃げの一手でもあったように思う。

さて、かくして自分は予備試験の勉強をスタートさせた。早く何かになりたいのなら必死のパッチで勉強してさっさと合格するよう頑張ればいいわけだが、一昨年と昨年は結局そこまで詰め切れずに終わった。本当に興味がなければすぐ見切りをつけているはずで、実際法律は勉強し甲斐があると感じながらやってはいる(こんだけ文章が書けるのも、法律の勉強をした副産物だろう)。そんな中で、この努力不足の原因は、一昨年と昨年とでは異なっていると自分では考えている。一昨年に関しては、単純に過信が問題だった。それなりに順調に勉強を進めることができていて、合格レベルにあると評価されるような答案を書く基礎体力もついてきていることを実感する中で、それなりにやっていれば受かるだろうというような甘い考えになっていたなと思う。

問題は、なぜこれを踏まえての昨年も結局努力不足に陥ってしまったのかということである。その原因は、一言で言えば「迷い」だった。

先ほど、自分の前にたくさんの道が広がっているという状況からの不安について書いた。そして、自分はとりあえず先の長そうな1本の道を選ぶことによって、その不安を解消しようとしたのだった。しかし、当然のことながら、他の道があることを(不可避的に)知りながら、逃げの手として1本の道を選ぶという行為においては、機会費用が生じているわけである。もっとも、勉強を始めた1年目は、先の過信が逆にプラスの効果を発揮して、その機会費用についてはほとんど考えることなく過ごすことができていた。ところが、現実に落第したという事実を突き付けられたことによって、「自分は本当にこの道を選んでよかったのか」という、それまでは意識せずにすんでいた迷いが一気に噴出してきた。非常に良い環境で勉強させてもらっていただけに、余計にそういった思いが強くなったという面もある。こんなことになるなら、何かもっと他にできたことがあるのではないか――同じ状況でも、しっかりと将来を見据えられている人ならば、「それはそれとして次はもう絶対合格する!」と腹を括って勉強できたのだろうと思うけれど、フラフラしながら予備試験ルートに入った自分は、そこまで割り切れていなかったな…と反省せざるを得ない。

ただ、こうやって2回目も失敗したことによって、自分の中で「吹っ切れた感」があるなと思う。単純に悔しいのもあるし、キャリア的に切羽詰まっているというのもあるが、なんだかんだ言っても自分で選んだ道なので、文句を言って乗り換えるのは本気でやって失敗した後にしないとな、という割り切りが(今更ながら)できた、ということが大きい。落ちたことが良かった、というつもりは全くないけれど、過信を捨て、迷いを断ち切ることができたという点では、意味のある結果だったと思う。とはいえ、迷いについては自覚的であったので、色々な人にちゃんと相談しておけば、もっと早く切り替えられたんだろうな、と強く後悔している。

ここまでずっと試験のことについて書いてきたが、2020年は(実際のところ2019年末くらいからだが)、試験以外にも「何者かになりたい」ということに大きく関わることがあった年だった。

こんな久々の記事を読んでいる人は大体昔から当ブログを見ている人だろうから、なんとなく覚えておられるかと思うが、2019年の11月頭に、自分が試験に落ちたことと(ほんとに懲りないなこいつは…)と彼女がうつ病になったということに関する記事を書かせていただいていた。

 

konnichihaitou.hatenablog.com

こうして昔の記事を見るということは、得も言われぬ恥ずかしさを催すものであるが、一応どれだけ恥ずかしくても消さないという矜持を持って記事を書いていて、今回はまた同じテーマで書くということで、改めてリンクを載せておいた。そういうことで、ここからは彼女のうつと自分の話である。

振り返っておくと、彼女は一昨年、美大から、それも彫金⋀東京という狭き門を目指して就活しており、いいところまではいくも、なかなかうまくいかず、その苦悩からうつを発症してしまった、という経緯があった(自分がうだうだして失敗しているのとはえらい違いで、本当に大変な時期だったと思う)。その年僕が試験に落ちたことを知るあたりで、どういうことがあったかというのは、先の記事に色々と書いたところだ。そこでやっと、自分は彼女がどれだけ思い悩んでいたのかを思い知ったわけである。

当時は落第のショックを拭いきれずにいたが、それでもどうにかして彼女を元気にしたいと思った。自分が失意に沈んでいたからこそ、そういう風に思ったのかもしれない。言われ尽くしたようなことだが、誰かを助けることによって、その実自分を救っているということは往々にしてある。試験には落ちてしまったけれど、せめて身近な誰かを助けることができる者でありたい、そうすることで、自分も「身近な誰かを助けることのできる自分」を肯定できる――彼女を元気づけたいというのは間違いなく本心から思っていたことだが、こういう後ろ暗い打算もまた自分の本心だったといえるだろう(こういう記事を書いてしまうところもその表れかもしれない)。以前はこういう結局自分本位な自分が見え隠れするたびに嫌な気持ちになっていたが、今はほとんどの人ってそういうものだろう、と割り切るようになった。

さて、そうはいっても、具体的にどうすることができるか、というのは難しいものである。「うつは完治しない」なんて言われているし、何より重いうつで苦しんでいる人に、安易な言葉は掛けられない。以前はなんとなしに「まだ大丈夫」「頑張れるよ」なんて励まそうとしていたが、それも重荷になるだろう、と思って、こういった言葉は極力出さないようにしていた。想像でしかないけれど、自分の価値を全く見失って、どうしても頑張れない時に、いくら他人が根拠のない励ましの言葉をかけても、素直には受け取れないだろうし、むしろそういう期待に応えられない自分がますます嫌になるのだろうな、と。

そんな中で、心理学に詳しくない(どうせ法律の勉強に集中できないなら、胡散臭いけどアドラーの本くらい読んでもよかったなと今になって思う)自分ができることは、なるべく近くにいてあげることくらいだった。よく会って様子を見る、というのもその例(それでも試験勉強にあてる時間は、コロナのおかげで有り余るほどあったので、このことを言い訳にすることは到底できはしない)だが、とにかく共感的でいることを心がけていた。笑わせるようなことをもっと言えればよかったかな、とか考えてみるが、生憎そういうセンスは足りていないので、なかなか難しいものがあった。ただ、二人とも好きな番組(タモリ倶楽部とか)の録画を勝手に見て消さずに、一緒に見るようにしてはいた。

そうしているうちに、少しずつだけれど、彼女は元気になってきてくれたようだった。実際に本人に聞いたところによると、調子の波がありながらも、昨夏にはほとんど元気になっていたらしい。病院に行って薬を飲んでいた時期は、1年と少しといったところだろうか。これを聞いたのはつい最近のことだが、当時の自分としても、彼女はかなり気力を回復していたように見えていた。ただ、じゃあ完全に立ち直っているのかということでいうと、完治しないというだけのことはあって、否定的な見方をせざるを得ない、そんな状況だったと思う。そういう中で、やはり「頑張れ」的な言葉はまだ掛けたくないと感じていたし、仕事の話もなるべく自分からは振らないようにしていた。

奇しくも転機が訪れたのは、昨年の論文式試験の合格発表の日だった。過信に溢れていた一昨年は、合格はしているだろうという舐めた態度でいたが、先に述べたように迷いというものにはずっと自覚的であったので、当日にしたやらかしのことを思うと、合格には四信六疑といったところだった。そういうこともあって、その日は落ち着いていられず、彼女に来てもらっていた。

たいていの場合悪い予感は当たるもの。結果はご存じの通りである。合格者番号のPDFを開いて番号を確認した時、結果を受け入れられず思わず涙した前年とは違い、今年はただただ自分が情けなく、迷いが招いた無惨な結果を噛み締めていた。とはいえ、まず親に報告の電話をして、色々と話しているうちに、一丁前に悩むだけ悩んで頑張れず、また色々な人に迷惑を掛けている(自分が予備校に誘った同期や後輩は合格していた、とか)なんて思うと、自分のピエロっぷりに涙せずにはいられなかった。彼女にしたって、何と声をかけていいかわからず困っていたことだろう。

ただ、不合格の結果を受け入れて噛み締めているうちに、上で書いたように、心の中の迷いが吹っ切れつつあった。一旦落ち着いて、不合格を報告するツイートも済ませ、しばらくすると、予備校の恩師からDMがあり、色々とアドバイスをいただいた。落ちたばかりの自分には大変耳の痛い話だったが、最後に「君が適性がないはずがない、受からないなんてことは決してない」というようなことが書いてあるのが目に映った。期待されながら2回も同じ試験に落ちても、まだこれだけの期待をかけてくれる人がいる――そのことに気づいて、本当に救われた気持ちになって、心がクリアになった。自分はまだやれる、そしてやらねばならないと心の底から思った。目の前にいたのは、一度は頑張れなくなった人だった。そろそろ言えること、言った方がいいことがあるのではないか。

2回も同じ試験に落ちてしまったけど、自分はもう一回頑張る。信じてくれる人がまだいるから、まだ辛いかもしれないけど、少しずつでも一緒に頑張ろう。そういうことを色々と言った。文章にすると格好がついているが、思いっきり泣きながら絞り出すように声をかけていた。ついに「頑張れ」って言っちゃったけど、言ったものはもうどうしようもないな、なんてそわそわしているうちに、彼女も泣いていた。やっと心に響く「頑張れ」の言葉をかけることができたことに、無性に安堵していた。創作意欲は溢れているから、君が予備試験に合格するまでに何か成果を出すよ、と彼女は力強く言った。彼女を助けることができた、なんていうのは傲慢に過ぎると思うが、感謝されたこと、前に向かって進みだしてくれたことくらい、素直に喜んでもいいだろう。

こうしてなんとなくいい話風にまとまったけれど、これはまだいい話ではない。ここから2人ともが頑張ってはじめて、本当にいい話になるものだ。そういうわけで、これをいい話にするためにも、日々頑張っていきたいと思う。とはいえ、息抜きの記事くらいは書いてもいいだろう。ではまた、どこかで会いましょう。