*:.。.:*゜ぁいとーの日記 ゜*:.。.:*

ある時点での自分の記録たちとその他いろいろ

等身大を生きる

人間の性格というのは、まさに千差万別である。巷ではMBTI(なんかアルファベットで16種類あるやつ)でキャッキャしている人が多いが、個人的には気分によって結果が変わるところがあり、どうも腑に落ちない。しかし、自分は人間の性格を、大雑把には2パターンに分けられると思っている。その分かれ目は、その人がサリンジャーを好きかどうか、ということだ(誰それ、とか読んだことないという人も、仮に読んだとすればどう思うか、ということでこの分類の枠内に入れることができる)。サリンジャーというか、言ってしまえば『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(ここでは村上春樹訳を想定している。以下『ライ麦』)を気に入るかどうか、ということだろう。僕は『ライ麦』が好き(他のサリンジャーの小説も好き)だけれど、母親は嫌いだという。父親もたぶん好きな方ではないだろう。わりあい読書家の二人だが、村上春樹を読んでいるところは、物心ついた時から全く記憶にない。

ここで、『ライ麦』がどういう話かということをざっと述べておく。主人公はホールデン・コールフィールドという、高校を放校されたクソガキである。大人への、社会への批判を一丁前に語る。一応だが、彼なりに筋の通ったところもあって、妹のフィービーはすごく大切にしているように、無垢な子供の世界に愛着を持っている。『ライ麦』はざっくり言えば、そんなホールデンが、高校を追い出されてからの出来事を斜に構えた口語体で語る小説ということになる(紙幅の関係でだいぶ端折ってますが)。ホールデンは、とにかく大人社会の色々なことについて考え、そのたび文句をつけているわけである。

そうすると、こういったホールデンの語りについて、「下らないことうじうじ考えてばっかでバカじゃないの?」と思う人と、「わかるわ~~、なんか色々考えちゃうよね」と思う人が大雑把に分けられるのである。もちろん、ホールデンへの共感度合いはそれぞれで、完璧に二分できるわけではないけれど。自分だってなんでもかんでも文句を言いたいわけではなく、労働の対価をいっぱいくれるならまあいいよ、程度にしか思っていない節がある。そして、別にこれは後者がいわゆるHSPなので優しくしてあげましょう、とか、レールから落ちた人にも寛容な社会に変えていきましょう、とかいう話ではない。「悩みがちな俺カッケェ~」という類の自慰行為がしたいのでもない。単に世の中には一定数クソガキがいる、というだけのことだ。こんなに回りくどく書かなくても、『ライ麦』が今なおそれなりの支持を得ていることが、そのことを示しているだろう。

さて、本題は、そんな『ライ麦』好きの自分と『ライ麦』嫌いの親がこの間話し合ったことである(一応飲み会の体だったが、全然酒は進まなかった)。わざわざ喋ることといえばただ一つ、またしても予備試験に落ちたことについてである。

 

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二回目も落ちるまでの経緯は、前回の記事の通りである。かいつまんで言えば、ぐだぐだ迷った結果の努力不足で落第したということだ。あれだけ色々と書けば、共感していただけたところもあったかもしれないが、冷静に考えると、もう大学3年生だというのに何を暢気に構えているのだと思われた方が多いのではないか。実際、自分でもこの経緯を俯瞰的な視点で見れば「こいつほんま何をやっとんねん」と嘆くより他はないのである。圧倒的に、パッションが足りていない。

自分がそう思うのだから、『ライ麦』嫌いの親からすれば、二回目の試験ももうほとんど意味不明という感じだったろう。「当初試験をナメてたのはもうしゃあないとして、普通一回落ちてめっちゃ悔しかったらもう二度と落ちひんようにするんちゃうの?」と言われれば、明らかに正論は向こうの側である。「いや~それは普通はそうなんだよ」と返さざるを得ない。

とはいえ、自分がそういう類の「正しさ」「普通さ」を持ち合わせていないこともまた、非常に残念ながら正しい。後天的にそれが身に着くこともあるのかもしれないが、どうも自分はそんなにまっすぐに生きられる気はしない。我が人生の半分における勉強の歴史を振り返ってみれば、そこにあるのは、怠惰、慢心、希望的観測、悩み癖(こうして考えると早めに予備試験の勉強をスタートさせたのは正解だった)。辻褄合わせの能力だけでやってきた典型的ダメ人間である(こういう人は東大に溢れかえっているのかもしれない)。両親としても、長年息子のそんな姿を見ていて、さらに言えば今回また予備試験に落ちた経緯を聞き、同じように思ったに違いない。それゆえあちらからは「受かるまで実家に帰ってきたら?」と言われてしまった。

大学4年を間近に迎える中で、親にこんな提案をさせてしまった、ということがたいへん情けなくなった。うちの両親はそこまで過干渉なわけではない。まあ、最難関の中学受験に付き合っていた時点で世間的には過干渉なのかもしれないが、心配性の域を出ないと個人的には思っている。子どもを管理したいとか支配したいとかそういうことでは全然なく、純粋に怠惰な息子のキャリアが心配で、最も効率的に勉強できるだろう環境を仕方なく提供しようと、そういう意図なのである(そもそも命令じゃなくて提案なわけだし)。仮に今年も落ちたとしてその瞬間人生お先真っ暗というわけではなく(無論だからといって落ちる気はないが)、そういう意味で両親とも心配性には違いないのだが。それも愛されている証拠ということで大変ありがたいし、恵まれていることである。

ただ、実家に帰って至れり尽くせりの状態で無事試験に合格したとしても、何か根本的な解決になることはない、というのは、両親も自分も重々承知しているところである。むしろこのまま社会に出る方がお先真っ暗というものだろう。何を仕事にするにせよ、迷っている間にもそんな事お構いなしで、どんどんタスクはたまっていくのだ。対価に見合う価値を生み出さなければやっていけないのが現代社会である。そこで生きていく上では、心の中のホールデン的な部分をどうにかしなければ、見通しが立たない。(本当に苦労している人からしたら、非常に贅沢な悩みであることは自覚しているのだが…)

どうにかする、とは言っても、『ライ麦』に共感しちゃうような心を追い出すことはできない。年を取るうちに勝手にそんな心はどこかへ行ってしまうのかもしれないけれど、今はその時ではない。「正しい」ものではなくても、こういう心が確かに自分の中に存在している以上、誠実に向き合うのが筋だろう。嫌いな他人みたいに遠ざけていれば済むというものではない。ちゃんとした人間を演じようとしたところで、どこかでボロが出るのがとどのつまりだろう(現実に同じ試験に二回落ちていることからもそれは明らかである)。

さて、唐突であるが、今年の全豪オープン女子シングルスで、大坂なおみ選手が優勝した。決勝はNHKで放送していたので生で見ていたのだが、ストレート勝ちで、内容的にも素晴らしいものだったと素人目にも映った。ただ、テニスのプレー以上にすごいなあ、と思ったのが、試合中のメンタル的な崩れがほとんど見られなかったことだ。自分の中での大坂選手のイメージは、世間の評と同様、好不調の波が激しく、メンタルが繊細で崩れると弱い、といったものだった。ところがこの決勝を見る限りでは全くそんな様子はなく、劣勢な場面でも冷静なプレーを続け、むしろ相手をどんどんミスさせているといった感じであった。なんとなくそれが気になって、試合後のインタビュー記事などを色々と見てみたところ、メンタル面の強化について本人やコーチが話していたが、単純に「もう弱い自分は捨てた!」ということではないようだった。そういうことではなくて、チームの間で、弱い自分の存在をありのまま伝えて、それを認めることが、メンタルの安定につながっている、そういった趣旨の言葉があった。

自分の心に弱いところがある、ということから逃げずに、その存在を肯定する。弱い自分との向き合い方として、そういう方向性が間違ってはいない、と言ってもらったような気がして、ちょっと晴れやかな気分になった。このブログでごちゃごちゃと書いていることも無駄ではない、と改めて思えた(反応をいただけることのありがたさたるや…)。もちろん、肯定して終わり、では何も変わらない。大坂選手のように、ちゃんと前に進む努力をしてこそ、ダメな自分と共存共栄できる。自分がダメな奴だというなら、ダメなりに頑張るのが身の丈にあっているというもので、正しい自分を演じるよりはずいぶんと気が楽だろう。そういうことで、クソガキとしての努力の成果を示すべく、短答でしょうもない点を取ろうものなら大人しく神戸に帰る、という約束になった。これで神戸に戻ることになったら、いくら自分がダメ人間だからといってもさすがにしょうもなさすぎるので、何とか頑張ってやっていきたい。

 

※後付け:ここから、『インファナル・アフェア』という映画と繋げて色々書いています。ストーリーの内容については触れませんが、結末について言及します。真っ新な気持ちで映画を観たい人はここから先は読まないようにしてください!

 

 

 

ちょっと前、高校生以降くらいの自分は、いつ死んでもいいと思っていた、というと語弊があるかもしれないが、たしかに似たようなことを考えていた。いつでも死ねるような薬を持って、自分のダメさによって破滅的な局面が訪れたら、それを飲んで現世とおさらばすればいい。それが幸福な死というものだろうと思っていた。精神を病んでいたというわけではなく、本当に楽しい時間を過ごさせてもらっていたからこそ、キリのいいところで死ぬのがベストだと真剣に信じていた。とはいっても、そんな都合のいいブツはないし、痛いのは嫌なので、予備試験のことも含めて、色んな失敗をしながらも生きながらえてきた。

またまた唐突なのだが、この間『インファナル・アフェア』という映画を観た。警察に潜入するマフィアと、マフィアに潜入する警察官が主人公である(後者を演じるトニー・レオンがめちゃくちゃカッコいい)。この筋書きは面白いのだが、結末は賛否両論あるようだ。三部作になっているので、残り二作も観れば疑問は解消されるのかもしれないが。

この映画は台湾で制作されたもので、原題は『無間道』という。物語の最後において、このタイトルが活きてくる。すなわち、主人公の一人が堕ちるのは、善と悪の狭間で生き続けるという「無間地獄」なのだ、ということが語られる(ここがあっさりすぎるのが賛否両論ある理由だろう)。死んでカタをつけるのではなく、生き続ける。それこそが無間道というわけだ。

かねてから、キレイなまま死にたいなどと考えていた自分にとっては、罪を背負いながら生きていくことこそ無間地獄だ、というメッセージはすごく共感できた。善と悪という究極に対極的な二つを抱えて生きているわけではないにせよ、どうしようもない自分と共存しながら生きていくというのは、構造的にここでいう「無間地獄」と近いものがあると思う。どうも宗教的すぎる気もするけれど。

今のところさしたる大目標もない自分だが、最近はそんな中でも生き続けてやろう、と思うようになった。前の記事にも書いたことだが、こんなダメ人間に期待してくれている人がいる、と改めて感じられたことが大きい。このまま逃げてしまってはいけないな、ということが直感的に思われた。ここまで他人から色々なものを貰ってやってきた以上、責任を持ってダメな自分と生きていくしかないのだ。そこで待っているのは山あり谷ありの人生だろうが、幸い周りに恵まれているのだから、それも楽しんで生きていけばいい。汚れた川を汚れた自分のまま泳いでいく、そういう人間の生をありのまま受け入れようではないか。多くの人は初めから、こんなの当たり前だろう、と思われているかもしれないが、自分はこの年になってようやくこの境地へ辿り着き、肩の荷が多少降りた気分でいる。

この『インファナル・アフェア』は、母親が「めっちゃおすすめ!」というので観てみた映画である。世間的には賛否両論あると言ったが、僕としてもこの映画はけっこう好きだった。『ライ麦』は嫌いだとしても、ダメな自分と向き合って生きていく、という在り方には、うちの親もきっと共感してくれるに違いない。

きれいにまとまったので、この辺で筆を擱かせていただきます。またいつか。

(P.S. 『ライ麦』肯定派の友人に会いました。やっぱりこういう人は色んなところにいるのかもしれません。その人も、ダメな自分と生きていこうと思えたのはけっこう最近だとか。パッションに欠ける者なりに、マイペースで頑張っていこうと思います。そうはいっても、全力で打ち込めるものを見つけたい、とはずっと考えていますが。)

幕の内弁当(大)

大変ご無沙汰しております。あいとーです。毎回ご無沙汰しているので、そろそろ誠意がこもっていない感じがいたします。

これだけ間が空くと、君はもう何も書かないのか、という風に思われていたのではないだろうか。実際のところ、ここ数か月は途中で記事を投げ出してばかりだった。メモ書き程度(高田ふーみんと若い頃のイジリー岡田って似てません?)ならいくらでも更新できたとは思うが、自分の考えを綺麗にまとめて書き上げるのは想像以上に難しい。驚くべきことに、なぜかまだ毎月数百PVがあって、しかもそれがかなりの割合でGoogleからのアクセスということなので、いったい誰が見ているのか不思議になる。

ただ、今回の記事については、令和2年度の予備試験にも落第したということで、何か書き切って膿を出さないとな、という風に、それに何か宣言することでやる気を保ちたい、と強く思ったので、どうにか完成に漕ぎつけた。2回も落ちたのを見ておられる皆様方においては、そんなんいいからしっかり勉強しろよと思われることだろう。しかし、2年連続けっこう惜しいところで落ちていることを踏まえ、試験の敗因を当日のひどいミスとそれをカバーできない努力不足の二つに分けるとすると、自分の精神面というのは後者に強く関係している所なので、ここでは自分の2020年と、試験を受ける理由を整理することによって、この先のことを考えていこうと思う。

(後付け:Facebookもすっかり見なくなっており、こういう文章を小分けに書く機会がなかったので、けっこう文字数多くなってしまいました。毎回のことですがすいません。試験のことはわりとどうでもいいよって人は、昔の記事が貼り付けてあるあたりまで飛ばしてください。逆に多少の惚気成分も受け付けない人は、試験の話だけ読んでくさい。)

とりあえず、大元は試験の話ということで、自分と予備試験のかかわりについて振り返ってみようと思う。そもそも、自分が大学に入る前から法律や法曹に興味があったかといえば全くそんなことはなかった。まあ、これは実際に法律にかかわる仕事についた人もほとんどそうかもしれない。自分が多くの人と違うのは、資格試験に向けた勉強を始める時期の早さだろう。平成23年から門戸の広い予備試験が導入されて、学部生のうちに合格し、司法試験に臨むという人はそれなりの数いる。特に最近では、予備試験ルートのわかりやすさや待遇の良さもよく知られるようになり、年少の合格者(今年は高校生論文合格者がいたとか?)も出ている状況である。とはいえ、学部2年までに受かる人はまだまだごく少なく、4年生で受かればキャリア的には無問題となっている。

そんな中で、自分が1年生から予備試験の勉強を始めることにした最初のきっかけは、某クイズ番組で知り合った先輩に勧められたことだった。その方は非常に優秀で(自分から見れば)キャリアについてもよく情報を集めしっかり考えられていたので、早く始めるに越したことはないという話を聞くうちに、なんとなく自分でもそんな風に思うようになった。それで話を聞きに行った予備校の講師の方も大変気さくで話しやすく、これなら受かるのではないかと思い、親を説得した末五月祭が終わった後から勉強を始めた。まだ結果を出せていませんが、ここで勉強を始めたこと自体は全く後悔はなく、自分にとって良い選択であったと思っているところだ(誤解を招きそうなので明示で書いておいた)。

これだけ書くと、他人に流されて始めただけじゃないかという風に見えるが、実際そこまで単純な話ではない。この選択肢を魅力的だと感じたのは、「何者かになりたい」あるいは「何者にもなれないまま過ごしたくない」という、自分の根底にある想いの為せる技だったと思う。この想いがどこから来たかと考えると、自分が抱えていた二つの不安に帰着した(しばらく非常にモラトリアムらしいありきたりなことしか書かないが、ご容赦ください)。

一つには、「何も目標を見つけられないまま過ごす不安」である。思えば昔から、なにか具体的な将来の夢を思い浮かべていたことは全くと言っていいほどなかった。もちろん、高校生の時あるいはもっと前から、何か夢や目標を持ってそれに向かって突っ走っている人は、そんなに多いわけではないと思うけれども、数少ないそういう人の存在を目にするにつけ、行く先を知らず、また決めもしないまま、レールの上を歩いてきた自分自身の空虚ぶりを実感していた。別に何かに打ち込んだことがないわけではないし、とりわけクイズはいい線行ってたと自負しているが、それに生涯を捧げるつもりはなかった(昨今のブームを見るにこれは先見の明がなかったかもしれない)ので、将来の不透明さは拭えなかった。

もう一つは、「目の前に広がる選択肢が広すぎることによる不安」である。何をやるにも遅すぎることはない、とは言うが、とりわけ学生というのはその気になれば何にでもなれる、というような前途洋々な存在である。しかし、それは裏返してみれば、学生(自分)は非常に曖昧な存在である、ということだ。その曖昧さを楽しむこともできたかもしれない。事実、前期教養学部のある東大に来た裏には、一つそういう意図があったなと思われる。とはいえ、いざその無限の色が広がってるところに身を置いていることを自覚すると、何をすればいいのかわからず、そして何をしても中途半端なままになってしまうという不安が頭をもたげてきた。もともと優柔不断なタイプなのもあって、このまま漫然と過ごしていてはなんかいろんなことをちょっと齧っただけのペラペラ人間になるだろう、ということがイメージされたわけだ。

(少し脱線するが、自分の前に道(選択)がたくさん見えている状況と、1本だけ見えている状況とを比べた場合に、絶対的な正しさとか美徳というものには前者の方が近いのに対し、相対的な幸福や満足というものには、明らかに後者の方が近いのではないか、と自分は考えている(Qアノンとか見れば納得してもらえるのではないか)。色々なことを視野に入れて行動できるということは、それ自体素晴らしいことではあるけれども、言ってしまえば非常に負担が大きいものである。そうはいっても、目の前にたくさんの道があるということを知ってしまった以上、その認識は変えられるものではない。)

こういった不安や、そこからくる「何者かになりたい」という指向性は、多くの人が少なからず持っているものではないか。ありきたりな悩みだからこそ、こういうものといかにして向き合っていくか、というのが人生における難題なわけある。例えば就活は、強制力をもってこの悩みの存在を突き付けてくるものなのではないか、と(自分でやってはいないながら)思う。よく考えてみると、20歳前後の学生なんてまだまだ先は長いわけで、誰しもがすぐに答えを出す必要はないのだが、そこで自分が選んだのが、文系最高峰の資格を得るべく司法試験(予備試験)に合格する、という道だった。一度道を一つに絞ってみれば気持ちが楽になるだろう、と考える中で、最もつぶしがきいて、やりがいのあるものが、法曹の資格を手に入れる、というルートだと結論したわけである。法律に向いているか、そもそもやっていて興味が湧くかもわからない中で、資格の勉強をすることに決めるのは大きな賭けではあったが、それは同時に逃げの一手でもあったように思う。

さて、かくして自分は予備試験の勉強をスタートさせた。早く何かになりたいのなら必死のパッチで勉強してさっさと合格するよう頑張ればいいわけだが、一昨年と昨年は結局そこまで詰め切れずに終わった。本当に興味がなければすぐ見切りをつけているはずで、実際法律は勉強し甲斐があると感じながらやってはいる(こんだけ文章が書けるのも、法律の勉強をした副産物だろう)。そんな中で、この努力不足の原因は、一昨年と昨年とでは異なっていると自分では考えている。一昨年に関しては、単純に過信が問題だった。それなりに順調に勉強を進めることができていて、合格レベルにあると評価されるような答案を書く基礎体力もついてきていることを実感する中で、それなりにやっていれば受かるだろうというような甘い考えになっていたなと思う。

問題は、なぜこれを踏まえての昨年も結局努力不足に陥ってしまったのかということである。その原因は、一言で言えば「迷い」だった。

先ほど、自分の前にたくさんの道が広がっているという状況からの不安について書いた。そして、自分はとりあえず先の長そうな1本の道を選ぶことによって、その不安を解消しようとしたのだった。しかし、当然のことながら、他の道があることを(不可避的に)知りながら、逃げの手として1本の道を選ぶという行為においては、機会費用が生じているわけである。もっとも、勉強を始めた1年目は、先の過信が逆にプラスの効果を発揮して、その機会費用についてはほとんど考えることなく過ごすことができていた。ところが、現実に落第したという事実を突き付けられたことによって、「自分は本当にこの道を選んでよかったのか」という、それまでは意識せずにすんでいた迷いが一気に噴出してきた。非常に良い環境で勉強させてもらっていただけに、余計にそういった思いが強くなったという面もある。こんなことになるなら、何かもっと他にできたことがあるのではないか――同じ状況でも、しっかりと将来を見据えられている人ならば、「それはそれとして次はもう絶対合格する!」と腹を括って勉強できたのだろうと思うけれど、フラフラしながら予備試験ルートに入った自分は、そこまで割り切れていなかったな…と反省せざるを得ない。

ただ、こうやって2回目も失敗したことによって、自分の中で「吹っ切れた感」があるなと思う。単純に悔しいのもあるし、キャリア的に切羽詰まっているというのもあるが、なんだかんだ言っても自分で選んだ道なので、文句を言って乗り換えるのは本気でやって失敗した後にしないとな、という割り切りが(今更ながら)できた、ということが大きい。落ちたことが良かった、というつもりは全くないけれど、過信を捨て、迷いを断ち切ることができたという点では、意味のある結果だったと思う。とはいえ、迷いについては自覚的であったので、色々な人にちゃんと相談しておけば、もっと早く切り替えられたんだろうな、と強く後悔している。

ここまでずっと試験のことについて書いてきたが、2020年は(実際のところ2019年末くらいからだが)、試験以外にも「何者かになりたい」ということに大きく関わることがあった年だった。

こんな久々の記事を読んでいる人は大体昔から当ブログを見ている人だろうから、なんとなく覚えておられるかと思うが、2019年の11月頭に、自分が試験に落ちたことと(ほんとに懲りないなこいつは…)と彼女がうつ病になったということに関する記事を書かせていただいていた。

 

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こうして昔の記事を見るということは、得も言われぬ恥ずかしさを催すものであるが、一応どれだけ恥ずかしくても消さないという矜持を持って記事を書いていて、今回はまた同じテーマで書くということで、改めてリンクを載せておいた。そういうことで、ここからは彼女のうつと自分の話である。

振り返っておくと、彼女は一昨年、美大から、それも彫金⋀東京という狭き門を目指して就活しており、いいところまではいくも、なかなかうまくいかず、その苦悩からうつを発症してしまった、という経緯があった(自分がうだうだして失敗しているのとはえらい違いで、本当に大変な時期だったと思う)。その年僕が試験に落ちたことを知るあたりで、どういうことがあったかというのは、先の記事に色々と書いたところだ。そこでやっと、自分は彼女がどれだけ思い悩んでいたのかを思い知ったわけである。

当時は落第のショックを拭いきれずにいたが、それでもどうにかして彼女を元気にしたいと思った。自分が失意に沈んでいたからこそ、そういう風に思ったのかもしれない。言われ尽くしたようなことだが、誰かを助けることによって、その実自分を救っているということは往々にしてある。試験には落ちてしまったけれど、せめて身近な誰かを助けることができる者でありたい、そうすることで、自分も「身近な誰かを助けることのできる自分」を肯定できる――彼女を元気づけたいというのは間違いなく本心から思っていたことだが、こういう後ろ暗い打算もまた自分の本心だったといえるだろう(こういう記事を書いてしまうところもその表れかもしれない)。以前はこういう結局自分本位な自分が見え隠れするたびに嫌な気持ちになっていたが、今はほとんどの人ってそういうものだろう、と割り切るようになった。

さて、そうはいっても、具体的にどうすることができるか、というのは難しいものである。「うつは完治しない」なんて言われているし、何より重いうつで苦しんでいる人に、安易な言葉は掛けられない。以前はなんとなしに「まだ大丈夫」「頑張れるよ」なんて励まそうとしていたが、それも重荷になるだろう、と思って、こういった言葉は極力出さないようにしていた。想像でしかないけれど、自分の価値を全く見失って、どうしても頑張れない時に、いくら他人が根拠のない励ましの言葉をかけても、素直には受け取れないだろうし、むしろそういう期待に応えられない自分がますます嫌になるのだろうな、と。

そんな中で、心理学に詳しくない(どうせ法律の勉強に集中できないなら、胡散臭いけどアドラーの本くらい読んでもよかったなと今になって思う)自分ができることは、なるべく近くにいてあげることくらいだった。よく会って様子を見る、というのもその例(それでも試験勉強にあてる時間は、コロナのおかげで有り余るほどあったので、このことを言い訳にすることは到底できはしない)だが、とにかく共感的でいることを心がけていた。笑わせるようなことをもっと言えればよかったかな、とか考えてみるが、生憎そういうセンスは足りていないので、なかなか難しいものがあった。ただ、二人とも好きな番組(タモリ倶楽部とか)の録画を勝手に見て消さずに、一緒に見るようにしてはいた。

そうしているうちに、少しずつだけれど、彼女は元気になってきてくれたようだった。実際に本人に聞いたところによると、調子の波がありながらも、昨夏にはほとんど元気になっていたらしい。病院に行って薬を飲んでいた時期は、1年と少しといったところだろうか。これを聞いたのはつい最近のことだが、当時の自分としても、彼女はかなり気力を回復していたように見えていた。ただ、じゃあ完全に立ち直っているのかということでいうと、完治しないというだけのことはあって、否定的な見方をせざるを得ない、そんな状況だったと思う。そういう中で、やはり「頑張れ」的な言葉はまだ掛けたくないと感じていたし、仕事の話もなるべく自分からは振らないようにしていた。

奇しくも転機が訪れたのは、昨年の論文式試験の合格発表の日だった。過信に溢れていた一昨年は、合格はしているだろうという舐めた態度でいたが、先に述べたように迷いというものにはずっと自覚的であったので、当日にしたやらかしのことを思うと、合格には四信六疑といったところだった。そういうこともあって、その日は落ち着いていられず、彼女に来てもらっていた。

たいていの場合悪い予感は当たるもの。結果はご存じの通りである。合格者番号のPDFを開いて番号を確認した時、結果を受け入れられず思わず涙した前年とは違い、今年はただただ自分が情けなく、迷いが招いた無惨な結果を噛み締めていた。とはいえ、まず親に報告の電話をして、色々と話しているうちに、一丁前に悩むだけ悩んで頑張れず、また色々な人に迷惑を掛けている(自分が予備校に誘った同期や後輩は合格していた、とか)なんて思うと、自分のピエロっぷりに涙せずにはいられなかった。彼女にしたって、何と声をかけていいかわからず困っていたことだろう。

ただ、不合格の結果を受け入れて噛み締めているうちに、上で書いたように、心の中の迷いが吹っ切れつつあった。一旦落ち着いて、不合格を報告するツイートも済ませ、しばらくすると、予備校の恩師からDMがあり、色々とアドバイスをいただいた。落ちたばかりの自分には大変耳の痛い話だったが、最後に「君が適性がないはずがない、受からないなんてことは決してない」というようなことが書いてあるのが目に映った。期待されながら2回も同じ試験に落ちても、まだこれだけの期待をかけてくれる人がいる――そのことに気づいて、本当に救われた気持ちになって、心がクリアになった。自分はまだやれる、そしてやらねばならないと心の底から思った。目の前にいたのは、一度は頑張れなくなった人だった。そろそろ言えること、言った方がいいことがあるのではないか。

2回も同じ試験に落ちてしまったけど、自分はもう一回頑張る。信じてくれる人がまだいるから、まだ辛いかもしれないけど、少しずつでも一緒に頑張ろう。そういうことを色々と言った。文章にすると格好がついているが、思いっきり泣きながら絞り出すように声をかけていた。ついに「頑張れ」って言っちゃったけど、言ったものはもうどうしようもないな、なんてそわそわしているうちに、彼女も泣いていた。やっと心に響く「頑張れ」の言葉をかけることができたことに、無性に安堵していた。創作意欲は溢れているから、君が予備試験に合格するまでに何か成果を出すよ、と彼女は力強く言った。彼女を助けることができた、なんていうのは傲慢に過ぎると思うが、感謝されたこと、前に向かって進みだしてくれたことくらい、素直に喜んでもいいだろう。

こうしてなんとなくいい話風にまとまったけれど、これはまだいい話ではない。ここから2人ともが頑張ってはじめて、本当にいい話になるものだ。そういうわけで、これをいい話にするためにも、日々頑張っていきたいと思う。とはいえ、息抜きの記事くらいは書いてもいいだろう。ではまた、どこかで会いましょう。

【東大法学部】同性愛者への遺族給付金の不支給について物申す!!!!!【ノーカット】

ご無沙汰しております。あいとーです。

最近はすっかり自己正当化の詭弁を弄する当ブログに書き連ねるようなこともない生活を送っていたのですが、この頃の単調な引きこもり生活にスパイスを加えるべく、久々に一筆啓上仕ろうという次第です。どうでもいいんですが、半年以上何も書いていないのに、6月のPVは4日前すでに100を超えているらしく、誰がわざわざ好き好んで昔の記事を見ているのだろうと不思議でなりません。

さて、今回はごくごく真面目な話で、何かというと、つい最近このようなニュースを目にしたわけです。

www.nikkei.com

こういった訴訟が進んでいたことは全く知らなかったのですが、見出しを見て、やっぱそうなるんだなあ、と妙に納得してしまいました。僕は大変自己中心的な人間ですので、こういった判決を見て怒りにかられるとか、そういったことはあまりないのですが、しかし今回一見して何かどうも結論としておかしなことになっている感じがするわけで、仮にも今の所法曹を目指している者として、この違和感ありありの判決を放置しておくわけにはいかないとは確信したわけです。そこでまず、何がおかしいのかを明晰にするべく、判決文の内容、関連条文について整理してみることにします。(所詮まだ予備試験も受かってない法学部3年生の浅知恵であるということは、事前にご理解のほどお願いします。)

まずは、判決文の原文のリンクを貼っておきます。

drive.google.com関連条文がこちらです。この記事は行政法的な頭の使い方の練習みたいなところがあるので載せていますが、特に読む必要はないので飛ばしてもらって大丈夫です。というより、けっこうぐちゃぐちゃと判決の検討をしているので、早くあなたの意見と結論を教えてほしいという人は、「・小括」のところから読んでもらえればと思います。

・参考条文

犯罪被害者等給付金の支給等による犯罪被害者等の支援に関する法律(以下、犯給法)

(目的)

第一条 この法律は、犯罪行為により不慮の死を遂げた者の遺族又は重傷病を負い若しくは障害が残つた者の犯罪被害等を早期に軽減するとともに、これらの者が再び平穏な生活を営むことができるよう支援するため、犯罪被害等を受けた者に対し犯罪被害者等給付金を支給し、及び当該犯罪行為の発生後速やかに、かつ、継続的に犯罪被害等を受けた者を援助するための措置を講じ、もつて犯罪被害等を受けた者の権利利益の保護が図られる社会の実現に寄与することを目的とする。

(定義)

第二条 この法律において「犯罪行為」とは、日本国内又は日本国外にある日本船舶若しくは日本航空機内において行われた人の生命又は身体を害する罪に当たる行為(刑法(明治四十年法律第四十五号)第三十七条第一項本文、第三十九条第一項又は第四十一条の規定により罰せられない行為を含むものとし、同法第三十五条又は第三十六条第一項の規定により罰せられない行為及び過失による行為を除く。)をいう。

2~7 (略)

第三条(略)

(犯罪被害者等給付金の種類等)

第四条 犯罪被害者等給付金は、次の各号に掲げるとおりとし、それぞれ当該各号に定める者に対して、一時金として支給する。
一 遺族給付金 犯罪行為により死亡した者の第一順位遺族(次条第三項及び第四項の規定による第一順位の遺族をいう。)
二、三(略)
(遺族の範囲及び順位)
第五条 遺族給付金の支給を受けることができる遺族は、犯罪被害者の死亡の時において、次の各号のいずれかに該当する者とする。
一 犯罪被害者の配偶者(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者を含む。)
二 犯罪被害者の収入によつて生計を維持していた犯罪被害者の子、父母、孫、祖父母及び兄弟姉妹
三 前号に該当しない犯罪被害者の子、父母、孫、祖父母及び兄弟姉妹
2 (略)
3 遺族給付金の支給を受けるべき遺族の順位は、第一項各号の順序とし、同項第二号及び第三号に掲げる者のうちにあつては、それぞれ当該各号に掲げる順序とし、父母については、養父母を先にし、実父母を後にする。
4 (略)
(犯罪被害者等給付金を支給しないことができる場合)
第六条 次に掲げる場合には、国家公安委員会規則で定めるところにより、犯罪被害者等給付金の全部又は一部を支給しないことができる。
一 犯罪被害者と加害者との間に親族関係(事実上の婚姻関係を含む。)があるとき。
二 犯罪被害者が犯罪行為を誘発したとき、その他当該犯罪被害につき、犯罪被害者にも、その責めに帰すべき行為があつたとき。
三 前二号に掲げる場合のほか、犯罪被害者又はその遺族と加害者との関係その他の事情から判断して、犯罪被害者等給付金を支給し、又は第九条の規定による額を支給することが社会通念上適切でないと認められるとき。
(裁定の申請)
第十条 犯罪被害者等給付金の支給を受けようとする者は、国家公安委員会規則で定めるところにより、その者の住所地を管轄する都道府県公安委員会(以下「公安委員会」という。)に申請し、その裁定を受けなければならない。
2, 3 (略)
(裁定等)
第十一条 前条第一項の申請があつた場合には、公安委員会は、速やかに、犯罪被害者等給付金を支給し、又は支給しない旨の裁定(支給する旨の裁定にあつては、その額の定めを含む。以下同じ。)を行わなければならない。
2 犯罪被害者等給付金を支給する旨の裁定があつたときは、当該申請をした者は、当該額の犯罪被害者等給付金の支給を受ける権利を取得する。
(施行規則は省略します)
 
・事案の概要等
今回の事案は、まとめると次のようになります。(常体)
原告は、平成6年頃に男性(以下「本件被害者」)と知り合い交際するようになり、その頃から共同生活を営んでいた。ところが、平成26年12月22日に、本件被害者は、原告と交際していた別の男性である本件加害者に殺害された。本件被害者が殺害されたことを受け、原告は、自らは犯給法5条1項1号にいう「婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」として、同号所定の「犯罪被害者の配偶者」にあたるとして「遺族給付金」(同4条1項1号)の支給の裁定を申請した(同10条1項、規則16条柱書)。しかし、管轄の愛知県公安委員会から、「犯罪被害者の配偶者」にはあたらないとして遺族給付金の支給をしない旨の裁定(以下「本件処分」)を受けた(平成29年度中における犯罪被害給付制度の運用状況についての警察庁の資料において、不支給裁定の理由の内、「遺族給付金の申請者が第一順位遺族ではなかった」にあたるものと考えられる。)。そのため、原告は本件処分の取消し(行政事件訴訟法3条2号)を求め訴訟を提起した。なお、犯罪被害給付制度において、申請に対して不支給裁定がされるのは1割かそれ以下程度の件数である。
 
本件処分については、犯給法10条1項、11条1項、同2項などから、「処分」(行訴法3条2号)にあたり、また原告は「処分の…相手方」(同9条2項)であって、原告適格(「当該処分…の取消しを求めるにつき法律上の利益を有する者」(同9条1項))はあることが前提として認められるものと思います(当然、その他の要件も満たすものと考えられます)。当然問題は本案について、つまり(本件処分の時において)同性の者と共同生活を営む原告が「…事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者」として「犯罪被害者の配偶者」にあたるか、ということになります。ここで、「事実上婚姻関係と同様の事情にあった者」の判断については、各都道府県の公安委員会により審査基準(行政手続法5条1項)が定められており、要件裁量があるものと考えられます。そして、犯給法6条各号、施行規則2条から10条は、例外的に犯罪被害者等給付金を支給しない場合を定めているものと読めるため、「事実上…者」に該当すれば、各都道府県の公安委員会は、犯罪被害者等給付金の支給の裁定をすると考えられ、この場合には効果裁量はないものといえるでしょう。
名古屋地裁の判断
さて、名古屋地裁はまず、その判断枠組みについて「同性の犯罪被害者と共同生活関係にあった者が『…事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者』に該当するためには、同性間の共同生活関係が婚姻関係と同視し得るものであるとの社会通念が形成されていることを要するというべきである。」と判示しました。理由としては、概略すると、①犯給法の目的が、犯罪の被害者が不法行為制度下での救済を受けられない場合も多い中で、社会連帯共助の精神に基づいて、租税を財源として、重大な経済的又は精神的被害を受けた遺族等に一定の給付金を支給し、国の法制度全般に対する国民の信頼を確保することにあることに鑑みると、犯給法による保護の範囲は社会通念により決するのが相当であること、②「配偶者(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあつた者を含む。)」について、犯給法5条1項2号、3号に掲げられた親族等と同様の、犯罪被害者と親密な関係を有し、その死亡により重大な精神的・経済的打撃を受けることが想定される者をいうものと考えられることを挙げています。(なお、愛知県警は、「事実上婚姻関係と同様の事情にあった者」の判断につき、「婚姻の届出をしていないために法律上は夫婦と認められないが、社会の一般常識からすれば夫婦としての共同生活を営んでいると認められるような事実関係をいうものであり、その事実を成立させようとする当事者間の合意と事実関係の存在とが要件になる。」との審査基準を示しています。名古屋地裁の基準は、前段の「社会の一般常識からすれば夫婦としての共同生活を営んでいると認められるような事実関係」という部分とほとんど同旨をいうものと考えられるため、審査基準の合理性はあるものと認定されたことが窺えます。この場合、個別審査義務があり、かつそれに違反していれば処分は違法というのが原則かと思いますが、後述のように本件では、その点は考慮されなかったように見えます。あくまでも、合理的な審査基準の枠内に、同性間の共同生活関係が含まれるのかという点を問題にしているようです。個別審査義務が本当に存在しないのかという点についても甚だ疑問ですが、この点はここでは深堀りしないことにします。)
次に、名古屋地裁は、社会通念の判断のための具体的な事情を様々取り上げています。
地方自治体による、同性パートナーシップの公的認証制度の創設(婚姻と同様の法的効果がないことは留保として挙げられています)
イ その他の共同生活関係にある同性の者らへの差別を解消する制度の広がり
ウ 民間企業における同性の共同生活関係に対する対応が、異性間カップルと同様の取り扱いに変化してきていること
エ 各種団体による差別解消に向けた提言
同性婚に向けた立法の動きの存在
カ 国民の同性婚に対する反対意識の少なさを示すアンケート
同性婚に関する海外の情勢
と7項目にわたって触れていました。さらに原告は、現代日本における家族の形態の多様化から、婚姻においても情緒的一体性が重視されるようになり、このことから同性間の共同生活関係についても家族の一形態として受け入れやすくなってきたことを主張しており、この点は大筋で名古屋地裁も認めるところです(一般市民にとっても、割と納得のできる事実であると思います)。
しかし、名古屋地裁の結論としては、上記のごとき社会通念は形成されていないとの判断がされています。一応名古屋地裁はまず、ア~キに述べたような動きから、「同性間の共同生活関係に対する社会一般の理解が相当程度進んでいたものと評価することができる」とは述べているのです。
ここからがポイントで、
⑴このような動き自体は、未だ社会において同性間の共同生活関係に対する理解が進んでいないため、その理解を推進するために行われていること
⑵ア にいうような制度には法的効力はなく、婚姻関係を男女間の関係とする婚姻法の規律に影響を及ぼすものではないところ、日本における同性間の共同生活関係の制度化は、「㋐婚姻とは別の生活パートナーとしての登録あるいは共同生活のための契約の登録を認め、婚姻に近似した法律関係を保障する」という段階(注1)にさえ至っていないこと
⑶ア~ウにいうような制度の導入は、その当時においても、また現在においても、依然として広く浸透しているとは言い難いこと(導入例が少ないこと)
⑷エ、オのような動きはあれど、同性婚の法制化が実現する具体的なめどは立っていないこと
⑸カにおけるアンケート結果も、未だ賛成と反対は拮抗していると評価できること(詳しくは上記PDFの10、11ページを参照、確かに圧倒的に賛成多数というわけではないです)
こういったことを指摘した上で、名古屋地裁は「同性間の共同生活関係を我が国における婚姻の在り方との関係でどのように位置づけるかについては、未だ社会的な議論の途上にあり、本件処分当時の我が国において同性間の共同生活関係を婚姻関係と同視し得るとの社会通念が形成されていたということはできないというほかない」として、「本件処分当時においては、同性の犯罪被害者と共同生活関係にあった者は、個別具体的な事情にかかわらず(同性間の共同生活関係を営む者に対する個別審査義務はない)、『事実上婚姻関係と同様の事情にあった者』に当たるということはできない」と結論を出しています。上記の原告の主張についても、だからといって、「同性間の共同生活関係が異性間のものと同一視されているとまではいえない」として否定しています。
 
注1:判決では、共同生活関係の制度化について、㋐に続く㋑が事実婚としての法的保障、さらに㋒同性婚としての法制化と、段階的に進んでいくものとされ、海外でもそうなってきたこと、㋐以前に㋑を導入した国は未だないことが述べられています。
 
さらに、原告は、身体的性が女性で自認する性が男性の者と、身体的性と自認する性が共に女性の者は、前者が性同一性障害特例法2条、3条1項に基づき性別を変更すると婚姻することができ、その結果犯給法の保護を受けることができるところ、性同一性障害特例法による性別変更以前にも、同様に犯給法による保護を及ぼすべきと主張しています。これに対して名古屋地裁は、特例法に基づく要件(興味のある方は調べていただければすぐに出てきますが、けっこう色々な要件があります)を充たしていることにより、自認する性に基づいた取り扱いをすることが社会的に許容されるのであり、同法による性別の変更の有無による犯給法の保護の有無の区別が生まれることは不合理ではない、として主張を退けています。
 
なお、近親婚や重婚にあたるため、法律上婚姻が認められていない内縁関係においても「事実上…者」に該当し得るところ、特に法律上禁止されていない同性間の共同生活関係としての内縁関係は当然保護に値し、同要件に該当すると原告は主張していましたが、地裁は、近親婚等が婚姻に該当することを前提に、弊害防止という政策的な理由で認められていないのに対し、現状同性婚民法上の婚姻に含まれない(このことは原告も同意するところである)のだから、性質を異にするとしてこの主張を容れませんでした。
・判断基準の妥当性
こうやって名古屋地裁の判決をまとめてみたところで、その妥当性について評価していくことにします。
まず、判断基準についてです。繰り返すと、地裁は、同性間の共同生活関係にある者が、「事実上婚姻関係と同様の事情にあった者」に該当するというには、同性間の共同生活関係が婚姻関係と同視し得るものであるとの社会通念が形成されていることを要すると述べています。自分としては、そもそもこのような基準が不当であるように思います。
この規範を導いた、名古屋地裁の認定する犯給法の趣旨については、学説が様々あるようですが、そこまで異論のないところかと思います(参考:警察庁の資料http://www.npa.go.jp/hanzaihigai/suisin/kentokai/kentokai1/data1/shiryo2.pdf)。もっとも、不法行為制度の補完としての性質を考慮すれば、少なくとも遺族給付金については、「同性間の共同生活関係が婚姻関係と同視し得るものであるとの社会通念が形成されていること」までは必要ないのではないでしょうか。民法711条は、不法行為による生命侵害があった場合について、近親者に対する損害賠償を認めています。その趣旨は、近親者は被害者の生命侵害について精神的苦痛を感じるのが通常であるため、「損害の発生」の立証を不要とするものです。711条の解釈としては、いわゆる近親者の範囲は条文上の者には限定されず、本条所定の者と実質的に同視できる身分関係が存在し、被害者の死亡により甚大な精神的苦痛を受けた者には、同条が類推適用するというものが確立されています。そして、今日の裁判例においては、内縁の配偶者に対して同条を類推適用し、損害賠償を認める事例が多々あります(大阪地判平成27年10月14日など)。当然、このような運用からすれば、同性間の共同生活関係を営むものであっても、上述の要件を充たせば711条類推適用による損害賠償請求が可能であると考えられます(清水雄大『日本における同性婚の法解釈』p.60-61)。711条の趣旨と、不法行為におけるこのような運用を鑑みれば、不法行為制度の補完という意味合いを持つ遺族給付金においても、被害者の生命侵害について、(経済的、)精神的苦痛を感じるのが社会通念上通常であるといえるような関係性があれば、「事実上婚姻関係と同様の事情にあった者」といえるのではないかと考えられます。さらに踏み込んで言えば、「事実上婚姻関係と同様の事情にあった」とは、社会通念に照らして、夫婦関係があるのと同様の、強い精神的な結びつきがあるといえるような場合をいうのであって、同性間の共同生活関係には未だ法的効力がないとか、理解が及んでいないということはどうでもよいのではないか、ということです。
この基準に照らせば、判断過程としては、まず、現代において、家族の形態が多様化しており、情愛的な結びつきの要素が重視されるようになったことから、社会通念上、同性間の共同生活関係が夫婦関係があるのと同様の結びつきがあるといえる素地が整っていることを述べた上で、同性間の共同生活関係について、遺族給付金の支給対象となるかを検討するには、その個別具体的事情から、婚姻関係があるのと同様の精神的な強い結びつきがあるか否かを判断すべきなのではないでしょうか。
ここで、犯罪給付金制度は広義の福祉政策であり、また被害者に対する見舞金的な性格を有するものでもあります。しかし、このような点と、不法行為制度の補完という観点を支点として、同性間の共同生活関係を法的保護の対象として犯罪被害者等給付金を支給することは決して矛盾するものではないでしょう。もっとも、共同生活関係にあった者に経済的な損害が発生していることも前提として必要かと思います(犯給法7条、8条参照)。ただ、夫婦関係と同様の精神的結びつきがある場合、基本的には生計を共にしているでしょうから、この点はあまり問題にならないかもしれません。
 
ところで、厚生年金保険法においても、遺族年金の受給資格として「婚姻の届出はしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にあった者」(同3条2項)が含まれます。判決文中第3の1のイ(ア)に挙げられた、最判平成19年3月8日民集61巻2号518頁は、近親婚的内縁配偶者につき、「事実上…者」として認めているものですが、今回の事例の理解に一役買うのではないかと思われます(名古屋地裁はそうは考えていないようですが)。同判例では、内縁関係にある者を年金受給の対象として含むことにつき、遺族厚生年金は遺族の生活の安定と福祉の向上が目的であるから、「配偶者」を民法上の配偶者に限る理由はなく、被保険者との関係において、お互いに協力して社会通念上夫婦としての共同生活を現実に営んでいた者にこれを支給することが、遺族厚生年金の社会保障的な性格や法の上記目的にも適合すると考えられたことによるものと解される、と判示されています。その上で、遺族厚生年金の公的な性格から、民法の定める婚姻法秩序に反するような近親婚的内縁関係の場合には年金受給の対象としない、という限定を付しています。ここでは、内縁関係が男女のものであることが、内縁関係を保護する前提とされていると読むことは不自然でしょう。あくまで、「社会通念上夫婦としての共同生活を現実に営んでいた」ということが大事なわけです。その上で、近親婚の反公益性から、限定がかけられる場合があるとされています。厚生年金保険法と犯給法は、広義の福祉政策的な法という点で共通点があること、名古屋地裁がこの判決を一応引いていることからも、両法における「事実上婚姻関係と同様の事情にあった者」の判断は、かなり近いものがあるとはいえそうです。であるならば、やはり犯給法上「事実上…者」といえるには、「遺族が、被害者と社会通念上、夫婦関係と同様の精神的な結びつきをもっていた」こそが大事なのであり、「遺族と被害者との関係が、一般的に、婚姻関係と同視し得るものであるとの社会通念が形成されていること」は不要であると考えるべきでしょう。これまでの事実婚の保護についての判例・研究においては、それが法律婚と同様男女のものであるということを前提としているとは思いますが、それは同性カップル同性婚という観念が、未だほとんど認識されていなかったからであって、同性カップルの存在を否定するために、そのような前提を立てていたわけではないと考えるのが自然ではないでしょうか。
・小括
色々と小難しいことを書いてきましたが、男女間の事実婚関係は、その情緒的結びつきが法律婚と異ならないために、法的に一定の保護を受けているのだから、同性間の事実婚関係であっても、典型的な法律婚の夫婦と同程度に情緒的結びつきが強いのであれば、法的に一定の保護を与えるのが素直な理解だということです。名古屋地裁は、犯給法の趣旨から、一見すると自然と導けそうな基準を用いて判断していますが、これこそがこの判決の不自然さの原因だといえるでしょう。名古屋地裁が、あえて「夫婦関係」ではなく、「婚姻関係」という言葉を用いているところが、厭らしいなあと自分は思いました(ある意味、非常に裁判官らしいテクニックともいえるでしょう)。これは根拠のない勝手な言葉の使い分けですが、「夫婦関係」は、法律婚をした夫婦(カップルという方が時代に合っているかもしれませんが)に典型的な、情愛での結びつきを持った二人の関係をいう言葉であるのに対し、「婚姻関係」は、主として契約としての法律婚の法的効果に着目したような言葉なのではないか、と考えています。
 
ここまでで、自分が修正してきた基準に則れば次のように結論づけることになると思います。
現代日本における家族の形態の多様化から、婚姻においても情緒的一体性が重視されるようになり、このことから同性間の共同生活関係についても家族の一形態として受け入れやすくなってきている。したがって、社会通念上、同性間の共同生活関係を、夫婦関係と同様の精神的結びつきがあるものとして認めることができる場合がある。
② 原告男性は20年間にわたり本件被害者と生活を共にしてきたのであり、浮気していたという事実は確かにありますが、夫婦関係と同様の精神的な結びつきがあった、社会通念上夫婦としての共同生活を現実に営んでいたということができると考えられ、「事実上…者」にあたり、「配偶者」として遺族給付金の支給の第一順位遺族となる。
そうだとすれば、本件処分は、「配偶者」にあたるべき者を、「配偶者」として認めなかったという点につき、裁量に過誤があり、違法だということになります。
 
一方、名古屋地裁の示した基準に則った場合には、同性間の共同生活関係が「事実上…者」にあたらないという結論は避けられないのかな、と思います。なぜなら、日本における同性間の共同生活関係への理解、差別解消への動きがまだまだ発展の途上にあるということは、残念ながら疑いようのないことだからです。判決後出された弁護団声明では、パートナーシップ制度が、各自治体の住民の要望と支持に基づいて設けられていることを看過しているという旨が述べられており、これは頷けるところではありますが、名古屋地裁が用意した相当厳しい基準はどうしても満たせないのではないかと思います。この点をみても、やはり控訴審では、地裁における判断枠組みの不自然さを主な争点として戦っていくべきではないでしょうか。
同性間の共同生活関係に対する法的保護については、判例こそまだないものの、一応の先例となる裁判例が存在しています。今年の3月に出された、同性カップルにおける不貞行為についての東京高裁の判決(https://www.nikkei.com/article/DGXMZO56372320U0A300C2CR8000/)では、カップルが長年同居して米国で結婚証明書を取得していたことや、2人で子を育てることを計画しマンション購入を進めていた点を考慮し「法律上の婚姻の届け出はできないものの、社会観念上夫婦と同様と認められる関係を作ろうとしていた」ことを認定し、さらに、海外では同性婚を認める国が相当数あり、国内でも同性パートナーシップ制度を設ける自治体が出てきていることなどに言及し「同性同士であることだけを理由に、法的保護の対象になることを否定することはできない」とした上で、不法行為があれば損害賠償の対象になると判断されています。ここでいう損害賠償は、内縁関係にある二人の間の貞操義務の違反によるものであるので、公的な色彩も濃い遺族給付金の場合にそのまま上記のような判示が当てはまるわけではないとは思います。とはいえ、このようにして、同性カップルに対しても、様々な事実を斟酌して、「社会観念上夫婦と同様と認められる関係」を認定していけるということは、本件の原告が控訴審を争う上で大変励みになるのではないでしょうか。
・なぜこのような判決が出されるのか
ここまでは、名古屋地裁の判決を導く論理のおかしな点を挙げてきました。ここからの問題は、なぜ名古屋地裁は一介の法学部生からしても不自然に見える論理を採用してまで、原告に対する遺族給付金の支給を拒んだのか、そして、その理由には正当性があるのか、ということです。
日本においては、同性婚についての法的整備はなかなか進んできていません。そもそも、英米におけるシビル・ユニオンや、フランスにおけるPACSのような、パートナーシップ関係を法的に承認する制度もないので、名古屋地裁のいうように、「婚姻とは別の生活パートナーとしての登録あるいは共同生活のための契約の登録を認め、婚姻に近似した法律関係を保障する」という段階にも達していないものと評価する他ないでしょう。一部の方々の熱心な取り組みもあって、同性カップルという存在自体は、奇異でない、普通のものとして少しずつ日本社会に受け入れられてきており、複数の自治体でのパートナーシップ証明書制度の導入、様々な団体からの同性カップルへの差別解消への提言、本件処分の後の出来事ですが、先に挙げた東京高裁の判決など、同性カップルの受容を促すような動きも多々見られますが、やはり、法制化としては遅れているという評価は、上に述べたように覆るものではないと思います。
このような遅れの原因としては、日本における右派(ここでは、自民党議員、日本会議メンバー等を指すものと思ってください)の同性婚への否定的な態度があるということが大きなものとして挙げられるでしょう。また、現在は、人口の多い年配の方ほど、同性婚の導入に反対する人が多いようです。なぜこうした傾向があるのか、ということはここではあまり関係のないことで、大事なのは、与党は同性婚の導入に消極的だという事実です(一応、ここまで列挙したことは、調べれば調査結果などがすぐ出てくるものです)。これは東大の憲法学の某S教授のゼミに所属する友人からの又聞きですが、教授は、「(政権は)同性婚法制化の蟻の一穴を恐れまくっている」と分析しておられるようです。このことが、今回の名古屋地裁の無理筋な判決に繋がっているのかもしれません。まあ、憶測に過ぎないのですが。
行政による介入がないとしても、日本の司法制度は、下級審の裁判官が徐々に出世して上に上がっていき事務総局へと向かっていく(最高裁の裁判官になるのは特殊な人だという話を聞いたことがあります)ものであり、人事権もその事務総局が握っているため、下級審の裁判官として画期的な判決をすることは簡単ではない、とまことしやかに囁かれています(実際に、宮本判事補再任拒否事件のようなものもあります)。もちろん、単に同性間の共同生活関係の保護に消極的な裁判官の方もいらっしゃるでしょうが、自分の信条とキャリアの間で板挟みになっている方も、きっといらっしゃるのではないでしょうか。まあ、こういう言説も真偽のほどは不明です。なんせまだ直接自分で確かめられる立場にないので…
 
ここで考えたいのは、司法の役割は何か、ということです。裁判所は、争訟裁決機能と法的統制機能を有しているものですが、その帰結として、先に挙げたS教授の意見を参考にすれば、司法は、国民の権利の実現、市民生活の安全を下支えする、社会のガバナンスの根幹となるインフラとしての役割を果たすことになります。そして、司法権の独立が求められる理由の一つは、司法権が国民の権利を保護することを職責とするところ、政治的権力の干渉を排除し、とくに少数者の保護を図ることが必要である、という点に求められます(これはみんな大好き芦部憲法に書いてあることです)。
翻って、今回の名古屋地裁の判決を見てみれば、大まかにいうと「日本の同性カップル保護の動きは、ジェンダー観が遅れている証拠であり、ジェンダー観が遅れている今同性カップルを保護することはできない」ということが言われています。このような言明は、先ほど整理した司法の役割として、やはり不適切ではないか、と思わざるを得ません。もちろん、日本の司法の非民主的正統性から、司法の自己抑制が働く、というのは頷けないところではない、というか正しいことではあるし、実際にこれまでも、恵庭事件に代表されるように、裁判所はそうやってきたものです。今回の判決では、直接憲法が出てきているわけではないですが、結局のところ13条、14条、24条などが背景に関わってくる話なので、簡単に(日本社会にとって)先進的な判決を出すことはできない、というのも当然だとは思います。しかしそれでも、多数派の声を代表する国会が動かない、もしくは動けないとき、少数派の権利を作っていく役割は、司法にしか担えないものだということは、もっと重視すべきであり、裁判所はそのことにもっと自覚的にならなければならないでしょう。裁判所が現状の多数派が支配する社会を反映し、追認するようなことばかり言っていては、社会は決して変わることはないのです。
ドウォーキンは(調べが浅いですがおそらく)個人の権利を支える「原理」と、社会全体の福祉を支える「政策」とを区別すべきであり、裁判所の判決というものは、原理によって構成するもので、それゆえに正当化されると述べています。彼がかつて言ったように、原理とその重みを考えれば、法的問題の「正解」が必ず発見される、というわけではないでしょうが、ハード・ケースにぶち当たった時、様々な実定法や先例から原理を導き出し、これに則って不可欠な基本的人権を実現していくという姿勢は、裁判所にとって間違いなく必要であるはずです。今回のケースは特に、同性婚を認めるべきか、というようなかなり一般的、公益的な問題ではなく(念のために言うと、同性婚が公益に反するとは思っていませんが、婚姻法を思い切り変えるものであるのは確かでしょう)、同性間の共同生活関係にあった者に対して遺族給付金を支給するか、という個人的な問題に近いところがあるものです。こういった場合に、少数派の、個人の権利を守るような論理を立てず、「社会の多数派が遅れているからダメ」と堂々巡りの結論を導き出すというのは、司法権の行使として、あまりにもお粗末ではないかと言わざるを得ません。こういう判決になってしまう、という事情があるのは充分理解できるところで、全く間違っているとまでは言えませんが、それでももう少しやりようあるでしょう、とは思ってしまいます。
 
「良い社会」とはどんなものか、ということについては、個々人が十人十色の考え方を持っているものであり、誰かの「良い社会」を押し付けるということは、誰かを圧迫してしまうことにつながりかねないものです。しかしその中でも、多くの人が共有できる「良い」はきっと存在しているはずです。それに、誰かにとって良くない、苦しい社会がある時に、その負の要素を取り除いていくことは、別の誰かにとって「良い社会」を奪うことにつながるわけではないのではないでしょうか(「都合の良い社会」ではなくなるかもしれませんが)。誰かの人権が不当に毀損されている時に、それを他の人と同様のものに回復することに、何か絶対的な不都合があるわけではないはずです。このような救済さえも許されない社会は、およそ「良い社会」とは呼べないのではないかと自分は思います。もちろん、こういう考え方が普遍的かどうかはわかりませんが。
 
さて、今までの記事と比べると3倍にもわたる分量でここまで書き連ねてきました。自分でこれまで考えてきたことの中でも相当に難しい部類に入るので、これだけ書くのに相当時間がかかってしまいました。どう考えても、予備試験の勉強の方にもっと時間を割くべきだったのですが、なんだかんだで久々に何かを書いて、考えを整理するというのが面白かったので、ついつい執筆に注力してしまいました。難しいことばかり考えていたので、だいぶキチゲが溜まっている感じもします。今度はちゃんと息抜きになるような、軽い記事を書いてみたいところです。それでは次の記事でお会いしましょう。

幸福論?

(プライバシーの観点から一部脚色してたりしてなかったりします)

ご無沙汰しております。あいとーです。ニッチな人気さえもなさそうな本ブログは驚くべきことに、開設から1年を過ぎているようです。それと全く関係ないことですが、今日はいつもよりストレートな感情が爆発する記事になっています。

どうも最近は、ずっと心に重石を抱えて過ごしているように思います。しっかりと落第した予備試験のみならず、自分の不甲斐なさを感じることが多いこの頃なわけです。その不甲斐ない、と感じた一つの出来事が、今回の記事の起点になっています。

Tinderで知り合った彼女は美大の4年生です。彫金専攻で、指輪やアクセサリーをよく作っているようです。それゆえ、宝石なんかにもかなり詳しくて、国立新美術館でやっているカルティエ展を観に行った時にも、昔から金目の物が大好きだった自分と一緒に、アクセサリーを彩る石についてあーだこーだと話し合っていました。美術が、彫金が好きなんだろうな、という彼女の感性は、この時に限らず、いつも会話の端々に見え隠れしているように思います。

美大生の就職活動というものは、概ね一般大学生よりも遅く、また苦労しがちとされています。絵を専攻する人ほどではないようですが、彫金もまたその例に洩れません。基本的に新卒の採用人数は一桁止まりで、ミキモトなんかでは美大生の枠は年3人ほどとのことです。そういうわけで、最終的に彫金とは縁遠い一般職に落ち着くという人が相当数いるのが業界の実情であるのです。

そして、その苦労は、ふわふわとした自分に比べればずっと真っ直ぐに先を見据えているように思える彼女にも降りかかっていました。そんな中で、なかなかうまくいっていないんだ、うつじゃないとは思うけど、最近は時々薬をもらっているんだ、ということは、もちろん時々耳にしていましたが、生来の自分の人生への楽観からか、彼女の就職だってきっとなんとかなるだろう、そしたらストレスもなくなってうつだかなんだかわからないものも吹き飛んでいくだろう、とあまり深くは考えないでいました。

そうこうするうちに、予備試験を受け、夏休みを過ごし、あっという間に10月になりました。この時も自分は、何も言ってくれないってことはきっと就活の終わりはまだなんだろうな、と不安はありながら、とりたてて質問することもないままでいました。そんなような、なんとなく危うい安定は、珍しく向こうから唐突に電話がかかってきたときに脆くも崩れ去りました。

彼女の趣味、というかライフワークらしいのが、夜の散歩です。電話をするときも、彼女はいつも家の近くをぶらぶらと歩きながら話しています。論文の合格発表の2日前だったその夜も、スピーカーの向こうからは足音が聞こえてきていました。初めは何気ない話ばかりで、高クイの人とボルダリングをしてたらSASUKEの川口さんがいて写真を撮ってもらったんだ、なんて言って笑っていましたが、途中から雰囲気が変わってきました。

就活が全然うまくいかない。今までやってきたことに何の意味があったんだろう。つい薬を飲みすぎてしまう。…

彼女の歩みの確かさを少しは知っているがゆえに、ふらふらと涙ぐんで歩きながら話される苦しみの深さがわかり、返す言葉に詰まる時間も長くなりました。気立てがよくって、普段から何か自分の悩みなど見せずに強かに過ごしているように見えていた彼女が、その実相当に追い詰められていたということに気づき、隠しがちな弱さを汲めない自分の鈍い心をただ情けなく思いました。しかし悲しいかな、男性脳というやつのせいなのか、その時はまだ「実効的な解決策」というものを探そうと必死でいました。

ところが、「死」を匂わせるような言葉が彼女から出てきたとき、自分はやっと、そんなこと考えてる場合じゃないということに思い至りました。奇しくも、今年は母方の祖母の葬式があり、これは自分にとって初めてのよく知る親族の死への直面でした。誰かが二度と帰ってこない、という現実の生々しい感覚が、自分の中に強く残っていました。だからこそ自分は、その時は割と高いところにいたらしい彼女に、「そろそろお家に戻ろう。」と言いました。向こうも何かを察したようで、普段の落ち着いた風で了承してくれて、家に帰ったのを確認して、しばらくした後通話を終えました。

これまでの自分と彼女は、互いにわざわざ文句を言うことも、望みを言うこともかなり少ない関係だったように思います。それはもちろん二人ともが高い満足感を持っていたからなのでしょうが、その分相手に迷惑を掛けたくないという無意識下の抑圧があったのかもしれません。しかし、この段になってようやく、彼女はありったけの悩みを吐き出して、自分もそれに応えるように、ありったけの願望をぶつけられたのだと思います。

よく探してみれば、どこかに絶対味方がいる。周りを置いていかないで、助けを求めて欲しい。偶然高校の時に中学の同期と仲良くなれたように、不思議とTinderで出会ったように、思いがけない転機が待っているはずだから。…

こうして並べてみれば、なんとも場当たり的で、薄っぺらにも見えてしまいますが、これらの口にするのも恥ずかしいポエティックな言葉は全て心からの願望であると、それは自信を持って断言できます。あるいは、運命ほど大げさでパターナリスティックではないような、一種の巡り合わせというものを信じる自分の哲学なのかもしれません。

今年の論文式試験に落第したと分かったときは、我が目を疑い、法務省をも疑いましたが、もはやどうすることもできないことです。去年の5月から始めた予備試験の勉強で、講師の方々に多く期待をかけていただきながら、今までの試験勉強と違ってちゃんと自分でしっかりと勉強してきたと思っています。実際、論文式試験の手応えも、周りが話す感触からしても、決して悪くないものでした。ところが結果は動かし難い不合格です。

己の珠に非ざることはよく知っていたつもりですが、しかしどちらかと言えば綺麗な石であることは信じて過ごしていました。そんな臆病な自尊心ライクな心の持ちようもぶち壊されて、発表前に歩道橋から環八に突っ込んでおけばよかった、それとも今からでも間に合うだろうか、なんて暗い思考が頭を渦巻きました。ふらふらとした自分でも、生きていていいと思える最後の自己肯定をも失った気分でした。

そんな中でも、周りの人たちは思ってもいないくらい優しくいてくれました。各所の友人・先輩・後輩たちも、偉そうなのに励まされたばかりで沈んでいるはずの彼女も、一番期待をしていたであろう両親も、誰もが各々のありったけの励ましをくれました。なんでこんな情けない奴を助けてくれるんだろう、と親切に気怠くなることもありましたが、そのうちに自分が彼女に投げかけた願望のことを思い出しました。

意義深い理由なんてなくても、生きていていいんだ、ということにふと気付いたわけです。もちろん生きている以上高みを見据えなければいけないし、そうしなければ生き残れないと思っていますが、それとは別に、人間賛歌のような肯定が、自分を支えていてくれているのだということに、20を少し過ぎたこの頃、気付くことができたわけです。名誉の道は非常に狭く、二人並んで通るほどの余裕はないとしても、人間はこうも美しいと、そう思います。

そうすると、今年試験に落ちたことには、驕るなよ、もっと勉強しろよ、というのに留まらない、暖かい希望の存在に気付かせるという意味があったのかもしれません。客観的に本当のところは、単なる不合格ということですが、やはりそうではないように思いたいという心の内です。やはり何かの巡り合わせというものが、人生には付き物であるのに違いないと、今は思っています。

一昨日にも、アガルートで仲良くなった面々が、遅めの誕生祝いをしてくれました。そうか、こういう人たちがいてくれるから、こんくらいのことがあったくらいで塞ぎ込んでばかりいないで、生きていないとな、と改めて考えました。これもきっと一つ巡り合わせだと、そう思ったらなんだかエナジィが出てくるような気がします。

 

 こうやって1年何か気持ちを形にしてきた中で、今回、自己肯定という面については一定の解決を見たように思います。やはり何か書いてみるものだな、と、ここまで続けて良かったと感じます。こうなると映画か漫画の感想くらいしか書くことがない気がするのですが、細々とまた続けていけたらなと思います。それではまた。

♪Happy Rebirthday

夏休みなのにまたまたご無沙汰してしまいました!あいとーです!今回はいつにも増してまとまりのない文章になったと思いますが、低い文章力に失笑しながらも通読していただけると嬉しいです!

以前に教習期限の9ヶ月をぶち抜きそうでヤバいという記事を書いたのですが、案の定そのまま仮免さえも取得せず突っ走ってしまったので、現在猪名川という片田舎に幽閉され、免許合宿に参加している次第です(今後の人生で、車校に行くのが面倒だという理由で9ヶ月仮免取らなかったという人に会う気がしません)。ということでまずは簡単に教習所でのおもしろランキングを発表します。

7位:黒髪のルキアちゃん(本名)(残念ながらロング)

6位:泊まってる部屋のユニットバスのカーテンにカビ生えててシャワー浴びても雑菌だらけ

5位:猪名川町マスコットのいなぼうの友達の魚の名前が魚くん

4位:朝飯で、黒蜜塗ったパンかと思ったら塗ってあるのはお好みソースで、でも中身はなぜか砂糖入ってる

3位:来て10日目にしてようやく風呂場の鏡が開いて収納スペースになってることを知った

2位:焼きたてを謳う朝のパンが6時半に来るのでどう考えても前日の余り物

1位:部屋の他の4人とは10日間一緒にいるのに年齢や所属さえも知らない

てな感じでなかなか心がしんどいという現状です。あとご飯が少ないのが致命的ですね。いうてもあと3泊4日てなとこなので、うっかりひき逃げとかしないように頑張りたいと思います。住民票移しちゃったので免許取得自体は東京戻ってからになるんですけどね。しかし9ヶ月で取れなかった仮免許が1週間で取れるなんて、なんだか成長を感じられて素敵だって、そう思いませんか?そんな自己弁護はともかく、期間中運転技術においてはやはり凡百なのだと思い知らされると、改めて、傲慢になることなく、等身大の自分をしっかりと見つめて生きないとなあと感じました(これは割とマジめに思った)。

 

さて、こんな感じで2年生の夏休みはいよいよ閉幕に近づいているのですが、今回はこの夏の前半にあった高山ゼミの合宿での将来設計というイヴェントについて綴っていこうと思います。

将来設計というのは、読んで字の如くで、何かしら将来の目標を設定し、それについて知り、目標に対する自分の現状を顧みて、これからすべきことを考えるという非常に建設的な課題でありまして、これを教授とゼミ生と発表し、フィードバックをもらうという一連の流れが、ゼミ合宿における伝統行事になっています。最初の五月祭の後からアガルートで司法試験予備試験の勉強をしている自分は、先のことは分からないなりにも、法曹に関わりはするだろうと思い、1年生の時は最高裁長官、2年生の時は「強い弁護士」という目標を設定し、将来設計を行いました。色々と書くべきことがあるのですが、とりあえずこの1年での心境の変化について述べていきます。なぜ去年は裁判官にしたかといえば、最高裁の長官(長官でなくてもよいが)として、判例の蓄積を形作る一端を担い、公に貢献して歴史に名を刻みたい、と自分は思っているんじゃないか、と考えたからです(※もっとも、聞く話によれば最高裁裁判官というのはかなり特殊な人種が選ばれるものであって、普通の裁判官としての出世ルート(最高裁の事務局長など)とは異なるようですし、また法解釈という点では調査官といった道もあります。当時はあまり考えていませんでしたが。)。ところが、そこから1年経った夏、改めて等身大の自分と向き合ってみれば、公のために粉骨砕身して名誉を得たい、みたいな感情は、一種の四月病みたいなもので、実際のところあまり大きくないのだろうということに気がつきました。少なくとも今の自分は、もっと矮小で、しかし大切な、自分自身の幸福が何より大事なんだろう、と思い直したわけです。そして自身の幸福は、経験上、食事でちょっとした贅沢をして、また完全に独り善がりでは生きられないため、近くにいる誰かを幸せにして感謝をもらう、そんな感じで達成されるのだろうと考えました。結果的には公務員でしかない裁判官よりも、学歴と予備試験という経歴を活かせばかなり確実に高収入が見込める弁護士という道の方が合っていると結論付けた、ということです。

今年の将来設計の内容を詰めるにあたっては、まず自身の幸福を達成できる「強い弁護士」というざっくりとした目標を考えました。そしてその具体的な内容として、法律事務所ZeLo・メルカリの岡本杏莉さんのキャリアなんかを参考にして考え、学部3年で司法試験に通った上で、一定水準の英語を身につけ、リーガルテックにもある程度詳しくなった状態で、サマークラークに行った大きな事務所に所属して実務経験を積み、そして最低限の箔として、留学させてもらってニューヨーク州あたりでLL.Mをとっていれば(これで30歳くらい)、そこまでに築いた人脈を合わせてそこそこ稼げるだろうし、悪くとも食いっぱぐれることはないと結論しました。これは(試験の合格を前提とすれば)非常に手堅い内容であると思います。実際先生やゼミ生にもよくまとまっていると言っていただけて、その点は満足しています。以上が2年生夏の前半の自分の考えです。

 

ところが最近は、これでも「そこまでしなきゃいけないか、そこまでしたいか?自分」という気持ち(以下①)が時々湧き上がっています。実際、文に起こしても、「〜上で、〜して、…」みたいな部分がけっこう長いですよね(こういうわけで、読みづらくてすいません)。何か影響を受けるようなものがあったかといえば、ビッグイベントはないんですが。馬車馬のように働かずとも、しっかり家族と向き合って生きていけたなら、それ以上はオマケみたいなもので特に望んでいないんじゃないか、とふと考えることがあります。

一方で、「こんくらいならできるし、後悔しないようにやらないと」とも強く思います(以下②)。簡単に浮き沈みする僕の性格からすれば、直近の出来事によって①と②の割合は左右されると思いますが、この場で将来設計の再考をすべく、両方について真摯に向き合ってみることにします。

 

もっとも②については、2年夏の将来設計のところで書いた、自身の幸福の渇望が源泉だろうと思います。問題は①についてです。どんどん目標が縮小してるってことはそれって単に怠惰になっただけじゃない?とも考えられますが、たぶんそう単純な話ではありません。何回か書いたかもしれない話ですが、僕は原則として世界が狭い(考えることが少ない)方が幸せでいやすいと思っています。幸福度合いの値hを、ある目標の達成度合いx1,2,...nにそれぞれ重率(ある程度目標を達成できていなければマイナスに働くものとする)をかけ、組み合わせて算出するものとしましょう。Σ(xn)をXとおき、自分のキャパシティだということにします。最後に、hの値がh1以上の時に「充分幸せだ」と思うと仮定します。さて、中途半端に賢くなって考えることが増えた状態(イメージとしては、ダニング=クルーガー効果のグラフの、自信の値が一番小さいあたり)では、目標という関数が増え、しかしx1らの限界を定める自身の能力Xはさほど上がらず、かつ求めるh1が大きくなるので、相対的な幸福度合いを上げるのは案外と難しくなる、という要領です。まあ重率次第でなんとでも変わるものですが(これが前述の①と②の間での揺れ動きを生んでいると考えられます)。ということで、長くなりましたが、手近で大切な望みに絞っていけばいいんじゃないかっていう①の気持ちも同じく自身の幸福を求めてのものなのです。あくまで相対的な幸福度合いの最大化を図ろうとしているわけですが。

 

しかし、①の気持ちには、もう一つ大きな源泉があるように思います。それはたぶん、「何かを大きなことを成し遂げてもそれに見合う達成感が得られないんじゃないか」という疑問です。この20年弱でとりわけ嬉しかったことといえば、灘中合格、高クイ優勝の二つであると思います。それは、実力以上のものが発揮され、思いがけない成果を得た(まあ後者は訳アリかもしれませんが)という状況に起因するものです。しかし逆に言えば、もちろん大変恵まれているためにこういう感想になるわけですが、他の大きな成功というのは、なるべくしてなったという気持ちの方が強いと思います。これは別に、類まれな才能で生きているなんて偉ぶってるのでも、努力を惜しまなかったと信じているのでもなく、自分はそれなりには賢く、一人っ子で、親が教育熱心で、先輩や友人が的確なアドバイスがくれるといったような恵まれた環境に助けられながら、最低限の努力をしたのでこんくらいはクリアできるかな、みたいな、色々な要素が半端に絡まった感じです。そして、自分の成し遂げたことについて、多くの人はこのくらいのこと、環境さえあれば誰でもできるのだろうと冷めた気持ちになってしまうわけです。絶対的には高く評価されるだろうことにも、どうも素直に喜べないのが自分の現状です。それゆえに、これからの人生で、ハイレベルな何かをやれどもやれども、達成感や自己肯定感を掴めないくらいなら、もっと身近な幸せの方を大切にしてやった方がずいぶんいいんじゃないかと考えてしまうのだと思います。

 

さて、こうして後ろ向きな(善悪の価値判断ではないですが)気持ちについて整理してきたわけですが、やっぱり心の奥底では、もっと努力して、広い世界で、新たな、今までになく大きな達成感を、自己肯定感を手に入れたいと渇望していると思います。それが幸せの絶対量を増やすということに繋がる(と知っている/自分で信じている)からです。後ろ向きな気持ちは、この命題が自分の世界で偽になってしまうのを恐れているゆえに起こる気持ちと解釈することができます。もっとも高クイ優勝の時は素直に喜んでいたわけですから、単純に才能(=Xの大部分を占め、かつ不変な要素)が足りないことを突きつけられるのは怖いだけかもしれませんが(テニスプレイヤーのニック・キリオスはこんな感じらしいですね)。

 

こんな自分と通ずるところを感じたのが、the pillowsの『アナザーモーニング』の歌詞の一節です。

今もまだ同じよく似た不安がつきまとう
耐えきれないような出来事は確かにあるけれど

どんなに寂しくても誰も迎えに来ないよ
迷子の知らせアナウンスはかからない
扉の向こうには約束なんてない
でも行こう生まれ変わる朝が来た

自分はこんな不安をけっこう前から抱えているけれど、友達がいようが彼女ができようが何かに受かろうが、自己肯定感はやってこないという迷子みたいな立場にある、のかななんておセンチに考えてしまいます。全部聞くと、山中さわおがこんなよくわからない悩みを綴ったわけじゃないだろうとは思いますが、やっぱり刺さる部分は多い曲です。

 

東大では今朝進振りの第二段階の結果が発表されましたが、雲を掴むような状態で、頑張り続けることがいかに難しいかということは、自分の至らなさからよくよく学んできました。「扉の向こうには約束なんてない」というのは、誰もがおんなじ状況なのだろうなと思います。そんな不安を吹き飛ばすように、幸せを求める強さを持って生きていける人は決して多くないでしょう。今の自分はむしろ不安に押し潰されそうになっていますが、世界を広げて、少しずつでも生まれ変わっていきたいと思います。言うは易く行うは難し、の典型例ですが、少しでも前に進むにはとりあえず、運転免許くらいしっかり取らないとダメですね。ではまた。

「あなたにあるのは知識の山だけ」

また調子よく更新していきたいと思っています、あいとーです。予備論文が終わったので、空いた時間にまた映画を観るようになりました。まあ今日は選挙見ながら記事を書いているんですが。ということで今回はイングマール・ベルイマン監督『野いちご』について書いていきます。個人的には、映画から記事に発展させるのは意外と難しくて、『恋はデ・ジャヴ』を観て永劫回帰の話をしようと筆をとったときも、結局オチがつかずお蔵入りとなっていますが、今度はうまく書きたいものです。

(作品レビュー的なのを敬体でするのが案外難しいのでここから常体です。)

さて、内容に踏み込む前に、とりあえずクイズ的に『野いちご』がどんな映画かを記しておくこととする。これは、1957年公開、スウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマン監督による白黒映画で、主演は同じくスウェーデン映画界のレジェンドであるヴィクトル・シェストレムである。彼が演じるのは、78歳の老医学教授イーサクで、この映画はルンド大学の名誉学位の授与式に向かうイーサクの一日を、悪夢や回想・空想を交えながら描いた作品となっている。死が近づく老人の心を良く描写し、死や老い、生き方、家族といった普遍的なテーマが込められている『野いちご』は、ベルイマンの代表作の一つとして知られている。

(ここから内容についての感想になるので、『野いちご』を観る予定がある人は読まない方がいいかもしれません。内容を知って途端につまらなくなるタイプの映画ではないとは思いますが。)

 

イーサクは、傍から見れば順調な、幸せそうな人生を送っている。生まれで苦労することもなく、医学に没頭しながら、普通に結婚し、生まれた息子(エヴァルド)もすでに結婚していて、ついには名誉学位を手にするに至った。ところが、その内実はというと、青年時代には婚約者を弟に奪われ、妻には不貞を働かれ、両親を見て育った息子は決して子供を産もうとしない、などと空虚な部分が多かったのである。映画冒頭のモノローグで、「学者肌で周りの人間に苦労をかけた」と述べているイーサクだが、その名誉とは裏腹にままならない人生を送った理由は、彼の周囲への無関心にある。共にルンドに向かうことになる息子の妻マリアンには、「一見穏やかな紳士。でもエゴイストよ。」と言われてしまっている。妻カーリンも、夫の無関心に耐えられず浮気をしたし、イーサクを優しいと評していた、いとこでかつての婚約者であるサーラも、情熱的な弟ジークフリッドに傾いてしまったのである。

そんなイーサクの人生の空虚さを突き付けるかのように、時々回想や悪夢のシーンが挿入される。この記事のタイトルとなったセリフは、二度目の悪夢において元婚約者のサーラが放ったものだ。

…『鏡を見て。私はあなたの弟と結婚する。愛し合ってるの』『苦しい』『なぜ苦しいか、教授のくせにわからないの?あなたにあるのは知識の山だけ』…

たまたまクイズをやっていたり、法律の勉強をしていたり、ということで、このセリフが胸に刺さったという面はもちろんある。ただ、やはり本質はそこではなく、世間的にはよく勉強して、いい中高・大学に入り(3年生で司法試験合格!かはともかくとして)、みたいな順調な人生を送っているのに、内実としては、根本的な他者への無関心から空虚なものになっていやしないかという不安を抱えているところが、このセリフに代表されるようなイーサクの人生とパラレルに見えた、という点が僕の心を揺り動かしたのだと思う。「優しい」というような趣旨のことを時々言われるところまで似ている。

「優しい」という言葉のイメージと、「冷淡」「エゴイスト」「無関心」といった言葉のイメージは、一見まるで正反対のように思える。しかし、実際のところ、両者が重なる場合もある。これについては、先ほどの悪夢の続き、カーリンが浮気をしたところを見せられるシーンのセリフがヒントになる。

『夫にこのこと(浮気をしたこと)を話すと、哀れなカーリンと言うでしょう。まるで神様みたいに。私はどうぞ許してと泣く。僕に許しなんか乞う必要はない、許すことなどない、と夫は答える。でもそれは口先だけ。冷たい優しさ。私は何様のつもりと怒鳴る。夫は優しく慰める。でも口先だけ。冷たい男。』

加えて、「無関心」と逆に、周りの人に関心を持つ、ということがどういうことかを考えてみる。関心とは、気に掛けるということであり、人を気に掛けるということは、その性格や行動、価値観に理解を示そう、あるいは歩み寄ろうという営みだろう。こうして考えてみれば、「優しい」ということは、必ずしも歩み寄りの要素を含むものではない。まるで神様みたいな、高い視点からでも、慰めの言葉を、慈悲をかけることはできる。

この映画のように、一見して優しい振舞いに歩み寄りの姿勢がないことがあっさりと露見し、孤独な生を送ることになるのが、よくあることなのかはわからない。ただ、できることなら歩み寄るのがよいし、実際たいていの人は歩み寄って欲しいものだと思う。歩み寄りなしには、優しさは自分のためのものにしかならない。自分の心の平穏を保つために、他人を敬して、しかし遠ざけることにしかならない。だからこそイーサクは「エゴイスト」と詰られたのだろう。

翻って自分のことをまた考えてみる。しかしこれが何より難しい。自分のことがわからないのでブログを始めたのだから、当たり前なのだが。そもそも中高の時から、優しさとか親切とかを完全に利他的なものにできないということに、遣る瀬無さを感じていた。頭ではそんなことは無理だとわかっていても、自分の中での優しさのイメージと現実が違うことに、何か冷たいものを感じて、いやな気分になることが時々あった。これについては、「歩み寄り」が本質であると結論すれば、自分のためという部分があること自体には問題がないことになる(なんだか防衛の意思と攻撃の意思の併存みたいである)。ただ結局は、自分の、客観的には優しいという枠で捉えられるであろう行為が、ちゃんと歩み寄りを含んでいるものなのか、さっぱり自信がないのである。自分はただ、周りの人に自分を好きでいて欲しいだけなんじゃないかとか、更にはそういう自分の性質は全て看破されているのではないかと思うことさえある。「あなたにあるのは知識の山だけ」とはまさに自分に向けられた言葉ではないかと、映画を観て心苦しくなるくらいには、「優しさ」に関することは常に自分を悩ませる問題なのである。悪夢を見せられた当のイーサクは、マリアンに「生きながら死んでいる」と言われていた。そこまでではないにしても、自分も案外と孤独に置かれているのかもしれない。

こういうなんかちょっと疲れて病んでるのかな?って感じの記事を書いておいてなんだが、「大丈夫、きみはちゃんと優しいよ」と言って欲しいわけではない。そもそも、ありがたいことではあるが、そういう言葉で解決するような問題ではない。結局のところ、自分自身で、本当は全然優しくないかもしれない自分を許すことができなければ、解決はしないものだ。この映画では、イーサクとマリアンの旅の道連れになる、元婚約者と同名の女の子、サーラと、その恋人と友人の男たちの三人組が、心からイーサクを慕い、これが主なきっかけとなって、重苦しかったイーサクの心が少しずつ晴れていった。そうして、授賞式の後には息子と話し合い、改めて三人組に感謝を述べられて、やっとイーサクは許しを得たのだろう、やっとのこといい夢を見て物語は終わる。

イーサクよりはずいぶんと老い先の長い自分だが、いつかは許しを得られるだろうか。どんな出来事が自分を許すことにつながるのかさえもわからないが、何らかの解決が得られる時を待つほかないのだろう。その時を待ちながら、少しでも、人に歩み寄るということを考えたいと、そう思う。負い目なく、死なずに生きるために。

しかしそろそろもっと明るい話をしたいのだが、単にハッピーな話題といのは書いてもあまり面白くない。ブログなので少しは面白くしたいのである。そのへんは匙加減が難しいところ。ではまた。

さようなら性犯罪者のキャンタマたち①

お久し久し久し久しぶりです。あいとーです。

4か月放置していた本ブログですが、黒歴史として闇に葬ろうというつもりは毛頭ありません。更新できなかった理由は主に二つで、一つにはシンプルに予備試験のお勉強で忙しかったため、そしてもう一つは彼女がいない時のようなハングリー精神とリビドーが失われ、従来のような衝動的な記事を一本書きあげるパワーをなくしていたためです。Tinderで付き合い始めたカップルが、平穏公然と半年近く続いているということは、自分にとっても意外だし、皆さんにとっても意外なことかと思いますが、本当にとりあえずうまくいっているという現状です。ただ、冷静になって考えると、サンキューTinderは間違いないですが、フォーエバーTinderっていうほどTinderがよいものかと言われると多分そうではないんですよね。特に恋人を探すにあたってはマジで効率が悪いと思われます。ついでに言うと、これはまた書こうと思っていることですが、なんでかよくわからないままうまく行き続けているので、恋人ができたのに人としてのヤバさは何ら改善されていないというような気がして時々不安になります。とはいえ彼女とマッチしたのは本当に運のいいことで、まさに「探し出してくれてありがとう」てな気持ちです。

さて、今回はちょっと毛色の違う記事(マジで堅苦しい感じ)なので、前置きはこれくらいにして本題に入りましょう。朝Twitterを眺めていると、ある先輩がこんなツイートを共有され、疑義を呈していらっしゃいました。

ウクライナ、性犯罪者の睾丸を機能不全にする法律を可決。未成年者への性犯罪やレイプで有罪となった男性に抗アンドロゲン剤を強制投与することになる。この制度、全世界で導入してほしい。』

www.mirror.co.ukこれを見て、僕は「憲法の問題にできそうだな…」と思いました。考えてみれば予備試験の憲法は地獄のような出来だったし(その上時間を置くと憲法に限らずどの教科もゴミだったのではないかという気がしてきて非常に憂鬱)、いっそのこと勝手に問題作っておもくそ時間かけて勝手に答えを出して、いい気になってやろうじゃないか、ということで、やってみることにしました。

憲 法

次の文章を読んで、設問に答えなさい。

20XX年、わが国では、明るみに出た性犯罪の数が増え、被害者らの怒りの声も大きくなる中で、性犯罪者を減らしていくための新たな立法措置が必要であるとの機運が熟していた。このような時勢で、A衆議院議員が次のような議案(以下「A案」)を提出した。

「①刑法における刑の種類(9条)に、『薬剤による宮刑(注:去勢のこと)』を加え、『強制性交等罪』(177条)『準強制性交等罪』(178条2項)『監護者性交等罪』(179条2項)『強制性交等致死傷罪』(181条2項)の量刑について、懲役刑に加え、薬剤による宮刑を確実に行えるように改正を行うこととする。

②上記の罪を犯し有罪となった者につき、釈放後も性犯罪者としてウェブサイトに名前と顔が登録し、生涯警察による監視をする新法を作る。」

このようなA案について、A議員は次のように演説をしている。

「私がヒアリングした性犯罪の被害者らは多く、加害者が刑を終えて平然と社会復帰していることに対して不満を持っていた。性犯罪が増える中、被害者、国民の不安感、不満を解消することが必要である。また、性犯罪は再犯の割合も多いと言われ、更正が充分に機能しているとは言えない。したがって、上記の罪について、懲役は妥当ではなく、より実効的で適切な刑として、海外のいくつかの国で既に行われている薬剤による宮刑を導入すべきであり、加えて、既に導入の例がある性犯罪者に対する監視制度を取り入れるべきと考えた。私の案が可決されれば、性犯罪者の数が減り、国民にとって重要な性的自由が一層守られるようになる。」

その過激に見える内容から、A案はメディアに大きく取りざたされ、性犯罪を防ぐべきとの潮流があったものの、国民の意見は賛否両論噴出した。しかし、最終的にはわずかな差で両議院で可決され、影響の大きさを鑑み3年後から適用されることとなった。

〔設問〕

かつて強制性交等罪で5年の懲役を経て釈放され、現在は改心し平穏に暮らしているBは、A案は①②ともに違憲であり、廃止されるべきであると考えている。この場合におけるA案に含まれる憲法上の問題点について論ぜよ。なお、薬剤による宮刑の科学的な安全性には何らの問題もないとする。

(参考)20XX年まで5年間の再犯についてのデータ

受刑者における再入者の割合 全体:59.3% 強制性交等罪:14.9% 強制わいせつ罪:29.8%

再入者における同一罪名再入者の割合 全体:65.2% 強制性交等罪:7.7% 強制わいせつ罪:29.2% 窃盗罪:75.1% 覚せい剤取締法違反罪:79.5%

(※上は平成26年まで20年間のデータ、下は平成28年まで5年間のデータを見て作成)

丁寧になった旧司の問題みたいな感じですね。まともな出来なのかはよくわからないところですが、とりあえず考えてみることにしましょう。なお、ほぼ素人な自分が知ってる範囲の判例を参照しているだけで、理解として正しいことは保証できませんのでご注意を。

第1 A案①について

量刑、憲法とワードを見ると、やはり尊属殺重罰規定違憲判決が思い出されます。もっとも、この判例が、同じ「殺人」という類型の中で、尊属に対するもののみが量刑が著しく重いという点、つまり憲法(以下法令名省略)14条1項の「法の下の平等」に関するもの(正確には、刑罰が重きに失するという区別の相当性の問題)であるのに対し、①は性交を伴う犯罪全般について量刑を重くするというもので、区別が生じていません。なので、この判例は使えず、おそらく14条1項の問題が生ずることもないでしょう。

そうすると、何条との関係で問題にできるのでしょうか。メインとしては、憲法36条に「残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる」とあるので、この規定との関係が問題になりそうです。

昭和23年の死刑制度合憲判決においても、この条文、加えて適正手続を述べた31条、個人・生命の尊重について述べる13条が触れられています。

同判決においては、まず前提として、13条後段にいう公共の福祉による制約、31条の文理(「生命」)からすれば、死刑を科すこと自体予定されていることである旨述べています。そして、死刑と36条について、「死刑といえども、他の刑罰の場合におけると同様に、その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には、勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬから、将来若し死刑について火あぶり、はりつけ、さらし首、釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば、その法律こそは、まさに憲法第三十六条に違反するものというべきである。」と述べています。この判決を踏まえると、「薬剤による宮刑」が36条に反するかは時代と環境における人道的な観点から一般的に残虐性を判断することになるのでしょう。補足意見においては、国民感情についても触れられています。

「…国民感情は、時代とともに変遷することを免かれないのであるから、ある時代に残虐な刑罰でないとされたものが、後の時代に反対に判断されることも在りうることである。したがつて、国家の文化が高度に発達して正義と秩序を基調とする平和的社会が実現し、公共の福祉のために死刑の威嚇による犯罪の防止を必要と感じない時代に達したならば、死刑もまた残虐な刑罰として国民感情により否定されるにちがいない。」

この判決は、約70年が経過した今もなお、死刑制度の合憲性の根拠となっています。反対の根強い死刑制度ですが、判決で述べている内容自体はもっともだと僕は思います。残虐性を考える上で、法益侵害の程度という客観面のみを問題にするよりは、時代の要請をも取り入れるべきだとは思います。ただ、残虐性というのは人道上の問題に留まらず、罪刑の均衡の点も意識されるべきです。例えば、死刑制度反対の論拠として、死刑が不可逆的な法益侵害であることが挙げられています。また、尊属殺違憲判決の田中意見においても、区別の目的を正当とするならば、殺人と尊属殺人の法定刑の差は正当化されるため、問題は14条1項ではなく立法政策としての罪刑の均衡にあり、36条の「残虐な刑罰」にあたるかが争点であるとの指摘がされています。自分としても、仮に時代が残虐な刑罰を許しても、法の基本原理たる憲法がそれを許さないという構造が存在しなければならないと思います。結局のところ、36条を起点に刑法の基本的な原理を引っ張り込んで合憲性を判断することになる、という感じなんでしょうか。

以上を総合すると、X罪を犯した者にY刑を課すことについては、時代の要請・社会の在り方という可変部分、罪刑の均衡(法益侵害の衡量)という不変部分の二つの物差しで、それが36条に反しないか検討する、というのが(自分なりの)回答の基本原理になります。おそらく他の人権であれば、この物差し(詳しく述べれば、目的手段審査のあてはめにおける必要性・関連性・相当性に相当する概念と思われる)をどれほど厳しく見るべきかが、権利の重要性と制約の態様によって決まっていくということになるでしょうが、36条との関係ではこれらは罪刑の均衡の判断要素に吸収されてしまいそうです。ということで、まずは刑を科すことが許される前提たる罪刑の均衡について検討し、それがクリアできれば時代の要請・社会の在り方について見るという流れで考えることにします。

 では、性交を伴う性犯罪者に薬剤による宮刑を科すというA案①は、正当化されるでしょうか。罪刑の均衡の検討にあたっては、刑罰の役割というものを意識する必要があると思われます。これについては、詳しくないので相対的応報刑論で考えることとします。つまり、刑罰の役割は、法益侵害を引き起こしたことに対する、犯罪の防止に必要な範囲での応報にあるという考え方です。これを前提に、まずは法益侵害の程度について検討します。強制わいせつ罪、強制性交等罪は、性的自由という個人的法益に対する罪です。素直に考えても、性的な行為という特に意思が重要なものの自由を侵害している以上、法益侵害の程度が大きいと言えます。そして、性交等罪については、わいせつ罪のみならず、逮捕監禁罪や傷害致死罪(傷害の限度の故意で結果的に人を死亡させる罪)よりも法定刑が重くなっています(五年以上の有期懲役)。一概に法定刑の重さが法益侵害の大きさを決めるわけではありませんが、性交を強いられることによって失われる性的自由については、重視すべきものであると考えられていることがここからもわかります。これに対して、去勢(ここでは生物学上の性別を問わず、生殖機能を奪うことだと解釈してください)というのはどう捉えられるでしょうか。身体に対する加害ではありますが、ある意味では性的自由の侵害と見ることができそうです。性交等罪の加害者は性的自由に対する重大な侵害をしていること、生命に対する国民の権利といえども公共の福祉による制約を免れない(13条後段)ことからすれば、去勢が法益の均衡を考えたときに全く許されないとまでは言えなさそうです。ただ、去勢というものが、死刑と同様に不可逆的な法益侵害であることも考慮が必要です。実際のところそれほど再犯者が多くないというデータもあり、全ての性交等罪の有罪判決を受けた者から、生涯にわたって性的な機能を奪うということは厳しきに失していると言って差し支えないと思います(個人的には死刑は執行されれば終わりなのに対し、去勢は執行されたうえで生き続けねばならず、より厳しいと思うほどです)。常習犯なら問題なく去勢できるかというとなんとも言えないところですが。常習強制性交等罪の定義をして条文を作れば「応報」という観点からはギリギリ許されそうな気はします。まあいずれにせよ両論ありえるところですね。そして、再犯可能性が0になるわけで、更なる性犯罪の予防として去勢が有効であることは間違いないです。

予防の観点でより問題なのは、死刑と同様実は一般人に対する威嚇的効果はあまりないのではないかという点、そして去勢によってでなくとも、十分な予防が可能なのではないかという点だと思われます。最初の点については死刑についても議論が錯綜しているところで、何とも言い難いですが、二つ目の点についてはまさにそうではないかと思います。A議員の演説にも表れているように、世間一般では性犯罪といえば倫理観のタガの外れた人がするもので、再犯が多いものだという認識がありますが、データを見ると必ずしもそうではないということがわかります(統計学的に蓄積が十分なのかはわかりませんが)。そうだとすれば、去勢よりも必要なのは更正と、性犯罪者予備群たり得る全ての人たちへの教育やケアではないでしょうか。威嚇的効果がないとすれば、ますますそう言えると思います。去勢という手段の法益侵害の大きさを考えると、より侵害的でない他の手段がないか考えてみるべきです(LRAの原則)。そして、明らかにより侵害的でない他の手段があると考えられるように思います。

結論としては、罪刑の均衡の観点から、少なくともA案①のような方法は36条に反し違憲であるといってよいと思います。薬剤による宮刑が選択的な量刑であれば、限定的な場合に科すという慣例ができれば許容されないとは言えませんが。

仮に罪刑の均衡が守られていると判断しても、この問題においては世間が賛否両論揺れている状況としているので、社会的に認められるとは思えません。実際の世間もそういう風なのではないでしょうか。というよりはそうであってほしいと思います。死刑制度合憲判決における井上意見では次のように述べられています。

「島裁判官の書いた補充意見には其の背後に『何と云つても死刑はいやなものに相違ない、一日も早くこんなものを必要としない時代が来ればいい』と云つた様な思想乃至感情が多分に支配して居ると私は推察する、この感情に於て私も決して人後に落ちるとは思はない、しかし憲法は絶対に死刑を許さぬ趣旨ではないと云う丈けで固より死刑の存置を命じて居るものでないことは勿論だから若し死刑を必要としない、若しくは国民全体の感情が死刑を忍び得ないと云う様な時が来れば国会は進んで死刑の条文を廃止するであろうし又条文は残つて居ても事実上裁判官が死刑を選択しないであろう、今でも誰れも好んで死刑を言渡すものはないのが実状だから。」

今回のニュースで、(この制度は先進的で妥当だから)全世界で導入してほしいなどという人は、自分が人権感覚、平等感覚に優れた人間だとでも思ってそう言っているのでしょうが、はっきり言ってそれは法と客観的事実への無知ゆえの感想である、と断じてよいと僕個人としては思います。最も望ましいことは、去勢までするのは不当だという意見が多くを占める上で、性犯罪を犯す人が少しでも減るような社会が作られていくことだと感じます。もっとも現状の日本だと、「去勢しろとかフェミ女さんやべーわw」みたいな逆のタイプの頭空っぽな人が多いゆえに、批判が多く出るような気がしますが。去勢が不当だとしても、今の社会が性犯罪への対応について変わるべき点を持っているのは確かなわけです。

地獄のように堅苦しい記事になってしまいました。無駄に疲れた気しかしないので、A案②について書くかどうかは未定です。とりあえず次はもっとゆるいものを書きたいと、心からそう思います。ではまた。