*:.。.:*゜ぁいとーの日記 ゜*:.。.:*

ある時点での自分の記録たちとその他いろいろ

大体は頭が悪いから

こんばんは。タイトルからお察しの通り、闇のブックトークのおかげで再び時の本となった、姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』についての私見を述べるコーナーである。発売当初から一部東大生の間で批判が飛び交っているこの本だが、一体なにゆえこれほどまでに東大内部の人間を刺激するのだろうか。本来は土日にあげるつもりだったが、クイズにコミットしていたので、予定が遅れてしまい、旬が過ぎていて残念なのだが、考えてみることには意味があると思い、結局書き上げて公開する運びとなった。初めに言い訳をすると、頭が悪いのでさっぱりまとまった意見にはならなかったので、期待せずに読んでいただきたいものである。申し訳ございません。

文句を言う東大生の意見を(拾える限り)最大公約数的に勝手にまとめさせていただくと、「『東大』あるいは『東大生』に対するステレオタイプを助長する高度の危険性を孕んでいる」といった感じではないか。作中の東大、そして東大生に関する描写は、内部の人間が見れば看過できない程度に多くの誤りを含み、かつそれが東大生に共通する特徴かのようになされているため、本作品はこれを手に取った不特定多数の人々に、捻じ曲げられた「東大生」というステレオタイプを植え付け、納得させてしまうという危険があるとして、ステレオタイプの被害者となる東大生たちが次々に怒りを表明しているという現状のように思う。 さて、この意見に対する批判について検討する前に、まずはこの意見が説得的であるかを論じるべきだろう。個人としては、説得的であるという立場に立つ。以下に理由を示していく。 まず、この作品はフィクションであるということが前提にある。実際、主犯格らの出身高校、作中の会社名等多くの部分は現実の「もじり」になっている。ところが、その中で、東大は(お茶女もそうなのだがここでは本題と逸れるため言及を避ける)現実と同じ名前で登場する。あくまでフィクションであり、本来的には現実との齟齬がさしたる問題とならないはずの小説において、これほどまでにその齟齬に批判があるのは、その大きさのみに起因するのではなく、東大ばかりが現実と同様の名前で描かれるゆえに、その虚像がやけにリアル感を持って読者に届くためだろう。

{※本作品に批判を浴びせる東大生がどれほどこの点考えているのかは知らないし、関与することではない。これは単に自分なりに彼らの意見を補強する記述である。嘘をくまなく探して指摘するだけでは、後述の批判に対して、ちゃんと言い返すことができない。通常とは異なり、フィクションとして看過できない、という前提のもとで、初めて粗探しに根拠が与えられるのではなかろうか。}

その上でこの作品では、先述のように、このような多分に嘘を含んだ描写が、東大生に共通するかのように描かれている。本作の主人公であるつばさが、現在の学歴重視の風潮(作中では「足元に2枚の女性カードが並ぶ」などと言ったところに表れている)、東大に入る過程における歪み等々にさらされ、サイコパス的な性質を持つことになったとして、それは偶然も多分に含む主観的な事情に過ぎないはずである。ところが、この小説ではいちいち主語を大きくして、「東大生は~~」という表現を用いる(頭(=感受性)がつるつるしてなければ云々のところが、個人的にクソむかついたポイント)。ある人が、常人ならざる性格を形成したということの多岐にわたる要因の一つが、「東大の歪み」であるに過ぎないところ、本作品では極めて短絡的なことに、「東大生には性格の歪みがあり、それは東大という環境のせいである」⇒「つばさは東大生である」⇒「つばさの性格の歪みは東大という環境のせいである」という図式が出来上がっている。単にこれだけなら、「頭が悪いから」ということで済ませられよう。それに、つばさのような人間が一定数いて、そのタイプを生み出しやすい環境であることは実際否定できない。が、本作品では、諸悪の根源として描写される「東大という環境の歪み」が虚飾で彩られているために、本当にたちの悪い小説になってしまっているのだ。実際に東大にある問題点を、都合よく一つ切り取り脚色するだけで、ちゃんと指摘しない本小説、そして本題と逸れるが、指摘できない自分のジェンダーに関する感覚の欠如に呆れるばかりである。

以上まとめると、『彼女は頭が悪いから』は、①フィクションでありながら東大はあえて現実の名前のまま使用したこと、②そうしてリアリスティックに描かれる東大に対し、多分に誤りを含んだ過度な一般化を施し、その誤った認識を問題の根源として設定したこと、という2点において、「東大生」に対する誤解(人によっては東大のジェンダー問題に関する誤解)を生むステレオタイプを拡散することに貢献する危険性が相当高いと言うことができるだろう。姫野氏が、何の目的でこのような設定を施したかについては定かではない。商業主義的な面を想像しがちだが、事実ではないかもしれないので限定は避ける。しかし、故意にせよ過失にせよ、このような危険性があることを顧みることなくこれを出版した関係者は反省すべきではなかろうか。ついでにもう一つ個人的に問題だと思うのは、冒頭で「事件の背景にあるのは、単なる数か月のすれ違いではなく、加害者と被害者のこれまでの人生なのだ」といった趣旨のことを述べているのに、加害者側については、嘘によって単純化された「東大」の歪みに責任を帰着させている点である。対して被害者の人生と心理描写に分量を割き、東大生がよく言う「下心」を持たない純粋な存在として持ち上げたのは、当時不当に叩かれた被害者を擁護する意図があったのだろうが、お粗末としか言えない構成である。

さて、このような事情からして、「フィクションに対して現実との齟齬を指摘するのは無理筋だ。」という批判は、取るに足らないということはすぐに言える。原則として、その主張は正しいだろう。しかし、本作品は、嘘の中に「東大」という現に存在する名称を混ぜ込むことで、「東大」に関する様々な嘘(当てはまる人はいるが、一般化はできない特徴)にもリアリティを与え、それにより読者に東大への誤解を拡散しかねないという性質を強く持つ。ゆえに、例外的に、現実との齟齬を指摘することが許されると言うべきだろう。あらゆる齟齬が、東大に対する誤解の種となってしまうような構造になっている。

そして、「『東大』描写は作品のディテールに過ぎず、本題とは逸れており、そこに混ぜ込まれた様々な嘘については語る価値がほとんどない。本題から目を背けるための(マンスプレイニングの)論理だ。」という批判もある。先ほどよりは「へ~」と思うけれども、まず同様の理由で反論することもできるし、何よりこのような批判を加える人々には「被害者目線」が欠けていると言わざるを得ない。インタビューなどから、姫野氏が小説で表現したかったことは、「弱者を虐げることで自分を保とうとする人間一般の汚い性質」や「それを助長する学歴至上主義や男性中心主義に対する怒り」といったことなのではないかと推察される。もちろん、これらの課題は、日本社会がより成熟していくために立ち向かわなければならないものである。しかし、「それとこれとは関係ない」というべきだ。本題は重要なものとして確かに語られるべきだが、不当な偏見を助長する作品の問題点についても、またしっかりと追及がなされるべきであり、この点で姫野氏をはじめとする出版側に東大生からケチがつけられるのは必然のことである。なにせ、嘘八百によって、現実の程度をはるかに超えて、「学歴至上主義と歪んだ男性性の象徴」として自分の所属する共同体が描かれているのだから、何度も言うように怒りはごもっともなのである。ただ、実際、出版以後の東大生の内部での今回の件の語られ方、とりわけブックショーの件以後の語られ方については、いささか冷静さに欠ける態度で「東大」描写に対する批判がなされているという印象を受け取らざるを得ない(ブックショーにおける某氏の態度も、彼の「本題」はともかく、誤解を生むものとして批判されるべきだろう)。ブックショーの冒頭で述べられたような「東大という記号の根深い問題」が存在するのは確かなのだ。それにジェンダーの面でも、種々の問題が指摘されるような状況にある。作者が虚飾を施してまで伝えようとした意図を検討する姿勢を忘れててはいけない。当然、それはそれとして反省すべきだろう。しかし、やはりそれとは別に、レッテル張りの危険にさらされた東大生が、それに対して反感を示すのは、ごく自然な態度であるのだ。そのような危険性の根源である「東大」描写の嘘を「些末」と切り捨て、「この作品の本題は~~で…」と言うことこそを語るように求めてくる外野の人間は、神の目線で大局観を押し付けてくる、当事者意識に欠けた下らない奴だという印象を受ける。そんな彼らも大概、差別主義者の素質があると断言して差し支えないだろう。要は、「冷静に分けて考えてどちらにも言及できるといいね」というのが、この段落での私見である。

対して、少し難しいのは、「現実との齟齬の批判に終始するのではなく、そのような虚飾とは違った『東大生像』を示していくことこそが、東大生のすべきことではないか」という批判(意見と言った方が通りがいいかもしれないが)である。実際、ディテールの批判によって小説の瑕疵をあげつらうのは、あまり意味がない。作者の失態を責めようが、本が読まれるたびに誤解は生まれていく。そうやって生まれてしまったステレオタイプを、その被害者として自ら立ち上がり誤解を解こうというのは、一種の答えであり、一つなすべきことであることは間違いない。しかし、それが正しいからといって作者の帰責性を看過するのは適切ではない(それもまた大局的に過ぎる)し、作品のディテール批判も、これまで述べてきたように、誤解を解こうという点が根底にある点では、「新たな『東大生像』を示す」ことと同じ方向を向いていると言える。腹立たしい部分はあるけれど、やはり東大に存在する問題を考えるきっかけになるという面は否定できないだろう。

本小説による東大生のステレオタイプ、そしてそれ以前の報道やバラエティにおける東大生のステレオタイプは、しっかりと拭っていかねばならない。波紋を呼んだ本作品だが、一東大生としては、東大はその特殊性ゆえに、外部者からよくわからないステレオタイプを押し付けられがちだということを改めて認識するきっかけにはなった。東大という属性を背負ってしまった以上、その問題点につき、偏見の解消と属性の新定義という二種類のアプローチで以って解決を図るのが冷静だろう。

最後に、何度も同じことを言い直すことになる自分の文章の頭の悪さを詫びながらまとめさせてもらう。これ以上、ただただ東大描写の嘘をあげつらうことに実益はない。「姫野氏の表現方法の瑕疵ゆえに、フィクションであるにもかかわらず、本小説は東大への差別を助長する高度の蓋然性を有する。そして現に、〇〇といった違いがあり、××のような偏見が誘発されることが明らかである。」といった形の批判が正当だと考える。フィクションであることを理由とした言い訳は、このような形で抗弁がなされることでこそその効力を失う。その上で、この小説自体の読解も、腹が立つのを抑えながら、しっかり行い、その世界における問題(作者の意図)を取っ掛かりとして、現実の東大の問題について考えていく姿勢を見せることが、誰も頭が悪いことにならない最もマシな方法ではないか。まあこの件で東大生に絡んでくる人に論理が通用するかは怪しいけれども。知りたくないことに目を背けるから偏見が維持されるわけで、そういう人たちに東大の現状をちゃんと見せるのも簡単ではない。何より東大という記号が邪魔になるだろうし(苦労するマクロンのことを想像すればわかるだろう)。茨の道という感じもするけれど、それに関してはこの記事の射程の範囲外といった感じである。 以上です。