*:.。.:*゜ぁいとーの日記 ゜*:.。.:*

ある時点での自分の記録たちとその他いろいろ

師曰く、Truthとtruthの違いは…

数日前、ALESS中?にガラスを割った破天荒エピソードが話題になりました。僕も超常的パワーを発揮して触れただけでガラスを破壊した経験がありますので(灘、中1 覚えてる人は覚えてるだろう)、大変身につまされる思いであります。でもまあガラス割ったくらいで済んで良かったですよね。キャンプラ4階から飛び降りるとかじゃなくって。ストレスはやはりどっかで発散しないと頭がバグってきます。たいていの人はお外では理性くんが働いています。「発進した電車に触れたらどうなるんだろう?」とか「静かな図書館で叫んだらどうなるんだろう?」とか思っても踏みとどまることができます。ところがストレスが爆発すると止められません、いわば無意識の勝利という感じなんでしょうか?とにかく、生活にはストレスがつきもの(ストレスフリーなふりをするのは逆に危険だそうで、やめときましょう。助けを求めることをためらってはダメなようです。)なので、どっかで発散しないとだめだということです。僕は家のシャワーで大声で歌うのがストレス逓減法になってます。ダメなときに、友達に頼る方法と、自分で放出する方法どちらもあるのが理想的ですね。

というわけで今日はALESAをやってましたと。絶対に宿題は前日にならんとできないし、今日は遅刻するしとろくでもないですが、教授の言うことはしっかりしてらっしゃるなあと思います(まあ逆評定鬼だし宿題多いけど)。そこで話題にされたのが「Truthとtruthはどう違うの?academicな場ではどちらを目指すの?」という問いでした(注:調べた感じだと、彼女のオリジナルな説明であり、academic wrightingの目標をわかりやすく定めるための方便のようです)。曰く、「Truthは宗教的哲学的な意味合いの、絶対的な真理のこと。truthは文脈上、条件の下での正しいもので、私たちの目標。」とのこと。人というのはとかく絶対的な答えを求めがちなので、少しおさまりが悪いなあなんて思いながら聞いていました。

実際、絶対的な価値観は強いものでしょう。例えば、何のリサーチもしていないのでキリスト教徒の皆様には申し訳ないところですが、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出す」という行為は、キリスト教に縁もない人からすれば痛いし損なだけに思えます。しかし熱心な信者とすれば「痛いけれど、それでも自分は正義だから」と強くいられることでしょう。宗教に限らずとも、「~~だけど自分は正義だから」という気持ちさえあれば、大体のことはできます(死ぬことだって厭わない人もいるでしょう、一向宗みたいに)。ところがそれはあまりにも諸刃の剣的要素が大きいですよね。高潔な思想も肉体の死には耐えられません、結局その場しのぎスタンスの正義が生き残ることになります。かといって、社会生活を営む上であんまり自分に都合よくって考えも難しい。こういうことを考え出すと結局のところバランス取ろうね、という話になるわけです。クソつまらないけど、年間3000人もいる東大生の中流階級が考えられることなど高が知れてるということでご容赦ください。

結局、バランスのとり方にこそ、オリジナルな自分が現れると思います。考える自分というものを想定したとき、自分の存在は無数の評価軸の集合体だ、という言い方が今のところ個人的にしっくりきています。経験とか環境とか根っこの部分に裏打ちされた、ある問題に対する一つの答えを寄せ集めたのが自分であるということです(たぶん、行動と好き嫌いという風にフィールドがけっこう分かれているのだと思いますが、そこまで詳しく考察出来てはいません)。軸の多さは人間としての広さを表すもので、だからこそたくさんのことを知らなければならないと思います(もちろん、新たな軸を作るには、今ある軸を引っ張り出して比べてみることになりますが)。そして、軸が増えるほど根っこに伸びる手がかりが増えていくともいえ、それゆえにますます新たなことを知ることは大事だなあと思います。なんだかんだいっても教養が大事なんだなあと。

さて、「自分が本当にしたいこと」を考えようなんてよく言われます。これがもう全然わからないので漫然と過ごしがちなんですが、おそらくこれはtruthの方に入るということはわかります。これまでの経験等を条件として、そこで考え得る正しい解として現れる、それが「自分が本当にしたいこと」なのではないでしょうか。今も解が見つかっていないとすれば?それはきっと条件が、つまり経験が足りていないんだろうなあと思います。教養も、交友も、物語も、恋愛も、何もかもが足りないわけです。まあ19年ぽっち生きただけで(ここまで来れたのもきっと奇跡には違いないけれど)わかるのなら苦労しないよ、ってとこでしょう。エリクソンいわく、成年初期の人間を発達させるものは愛の能力ということで、結局そこに帰着するということでもあります。どの記事も近い着地点になるのは、やはりそれが今のtruthということなんでしょうね。

アルファベットが多く、今回はポエマー感が満載でした。しかし生きとし生けるものみなポエマーです。ただ口に出すか出さないか、文字に起こすか起こさないか、それだけの違いではないでしょうか。で、僕は文字に起こすタイプのポエマーだ、ということです。「師曰く…」ってのも今見たらチャイニーズポエムのオマージュなわけです。次に文字起こしするポエムを考えてみましたが、たまにはひよっこなりに法について考えようということで、ハロウィン規制と自由権とか、審査の型にはめつつ書いてみたいなあと思います。ではまた。