*:.。.:*゜ぁいとーの日記 ゜*:.。.:*

ある時点での自分の記録たちとその他いろいろ

「あなたにあるのは知識の山だけ」

また調子よく更新していきたいと思っています、あいとーです。予備論文が終わったので、空いた時間にまた映画を観るようになりました。まあ今日は選挙見ながら記事を書いているんですが。ということで今回はイングマール・ベルイマン監督『野いちご』について書いていきます。個人的には、映画から記事に発展させるのは意外と難しくて、『恋はデ・ジャヴ』を観て永劫回帰の話をしようと筆をとったときも、結局オチがつかずお蔵入りとなっていますが、今度はうまく書きたいものです。

(作品レビュー的なのを敬体でするのが案外難しいのでここから常体です。)

さて、内容に踏み込む前に、とりあえずクイズ的に『野いちご』がどんな映画かを記しておくこととする。これは、1957年公開、スウェーデンの巨匠イングマール・ベルイマン監督による白黒映画で、主演は同じくスウェーデン映画界のレジェンドであるヴィクトル・シェストレムである。彼が演じるのは、78歳の老医学教授イーサクで、この映画はルンド大学の名誉学位の授与式に向かうイーサクの一日を、悪夢や回想・空想を交えながら描いた作品となっている。死が近づく老人の心を良く描写し、死や老い、生き方、家族といった普遍的なテーマが込められている『野いちご』は、ベルイマンの代表作の一つとして知られている。

(ここから内容についての感想になるので、『野いちご』を観る予定がある人は読まない方がいいかもしれません。内容を知って途端につまらなくなるタイプの映画ではないとは思いますが。)

 

イーサクは、傍から見れば順調な、幸せそうな人生を送っている。生まれで苦労することもなく、医学に没頭しながら、普通に結婚し、生まれた息子(エヴァルド)もすでに結婚していて、ついには名誉学位を手にするに至った。ところが、その内実はというと、青年時代には婚約者を弟に奪われ、妻には不貞を働かれ、両親を見て育った息子は決して子供を産もうとしない、などと空虚な部分が多かったのである。映画冒頭のモノローグで、「学者肌で周りの人間に苦労をかけた」と述べているイーサクだが、その名誉とは裏腹にままならない人生を送った理由は、彼の周囲への無関心にある。共にルンドに向かうことになる息子の妻マリアンには、「一見穏やかな紳士。でもエゴイストよ。」と言われてしまっている。妻カーリンも、夫の無関心に耐えられず浮気をしたし、イーサクを優しいと評していた、いとこでかつての婚約者であるサーラも、情熱的な弟ジークフリッドに傾いてしまったのである。

そんなイーサクの人生の空虚さを突き付けるかのように、時々回想や悪夢のシーンが挿入される。この記事のタイトルとなったセリフは、二度目の悪夢において元婚約者のサーラが放ったものだ。

…『鏡を見て。私はあなたの弟と結婚する。愛し合ってるの』『苦しい』『なぜ苦しいか、教授のくせにわからないの?あなたにあるのは知識の山だけ』…

たまたまクイズをやっていたり、法律の勉強をしていたり、ということで、このセリフが胸に刺さったという面はもちろんある。ただ、やはり本質はそこではなく、世間的にはよく勉強して、いい中高・大学に入り(3年生で司法試験合格!かはともかくとして)、みたいな順調な人生を送っているのに、内実としては、根本的な他者への無関心から空虚なものになっていやしないかという不安を抱えているところが、このセリフに代表されるようなイーサクの人生とパラレルに見えた、という点が僕の心を揺り動かしたのだと思う。「優しい」というような趣旨のことを時々言われるところまで似ている。

「優しい」という言葉のイメージと、「冷淡」「エゴイスト」「無関心」といった言葉のイメージは、一見まるで正反対のように思える。しかし、実際のところ、両者が重なる場合もある。これについては、先ほどの悪夢の続き、カーリンが浮気をしたところを見せられるシーンのセリフがヒントになる。

『夫にこのこと(浮気をしたこと)を話すと、哀れなカーリンと言うでしょう。まるで神様みたいに。私はどうぞ許してと泣く。僕に許しなんか乞う必要はない、許すことなどない、と夫は答える。でもそれは口先だけ。冷たい優しさ。私は何様のつもりと怒鳴る。夫は優しく慰める。でも口先だけ。冷たい男。』

加えて、「無関心」と逆に、周りの人に関心を持つ、ということがどういうことかを考えてみる。関心とは、気に掛けるということであり、人を気に掛けるということは、その性格や行動、価値観に理解を示そう、あるいは歩み寄ろうという営みだろう。こうして考えてみれば、「優しい」ということは、必ずしも歩み寄りの要素を含むものではない。まるで神様みたいな、高い視点からでも、慰めの言葉を、慈悲をかけることはできる。

この映画のように、一見して優しい振舞いに歩み寄りの姿勢がないことがあっさりと露見し、孤独な生を送ることになるのが、よくあることなのかはわからない。ただ、できることなら歩み寄るのがよいし、実際たいていの人は歩み寄って欲しいものだと思う。歩み寄りなしには、優しさは自分のためのものにしかならない。自分の心の平穏を保つために、他人を敬して、しかし遠ざけることにしかならない。だからこそイーサクは「エゴイスト」と詰られたのだろう。

翻って自分のことをまた考えてみる。しかしこれが何より難しい。自分のことがわからないのでブログを始めたのだから、当たり前なのだが。そもそも中高の時から、優しさとか親切とかを完全に利他的なものにできないということに、遣る瀬無さを感じていた。頭ではそんなことは無理だとわかっていても、自分の中での優しさのイメージと現実が違うことに、何か冷たいものを感じて、いやな気分になることが時々あった。これについては、「歩み寄り」が本質であると結論すれば、自分のためという部分があること自体には問題がないことになる(なんだか防衛の意思と攻撃の意思の併存みたいである)。ただ結局は、自分の、客観的には優しいという枠で捉えられるであろう行為が、ちゃんと歩み寄りを含んでいるものなのか、さっぱり自信がないのである。自分はただ、周りの人に自分を好きでいて欲しいだけなんじゃないかとか、更にはそういう自分の性質は全て看破されているのではないかと思うことさえある。「あなたにあるのは知識の山だけ」とはまさに自分に向けられた言葉ではないかと、映画を観て心苦しくなるくらいには、「優しさ」に関することは常に自分を悩ませる問題なのである。悪夢を見せられた当のイーサクは、マリアンに「生きながら死んでいる」と言われていた。そこまでではないにしても、自分も案外と孤独に置かれているのかもしれない。

こういうなんかちょっと疲れて病んでるのかな?って感じの記事を書いておいてなんだが、「大丈夫、きみはちゃんと優しいよ」と言って欲しいわけではない。そもそも、ありがたいことではあるが、そういう言葉で解決するような問題ではない。結局のところ、自分自身で、本当は全然優しくないかもしれない自分を許すことができなければ、解決はしないものだ。この映画では、イーサクとマリアンの旅の道連れになる、元婚約者と同名の女の子、サーラと、その恋人と友人の男たちの三人組が、心からイーサクを慕い、これが主なきっかけとなって、重苦しかったイーサクの心が少しずつ晴れていった。そうして、授賞式の後には息子と話し合い、改めて三人組に感謝を述べられて、やっとイーサクは許しを得たのだろう、やっとのこといい夢を見て物語は終わる。

イーサクよりはずいぶんと老い先の長い自分だが、いつかは許しを得られるだろうか。どんな出来事が自分を許すことにつながるのかさえもわからないが、何らかの解決が得られる時を待つほかないのだろう。その時を待ちながら、少しでも、人に歩み寄るということを考えたいと、そう思う。負い目なく、死なずに生きるために。

しかしそろそろもっと明るい話をしたいのだが、単にハッピーな話題といのは書いてもあまり面白くない。ブログなので少しは面白くしたいのである。そのへんは匙加減が難しいところ。ではまた。