*:.。.:*゜ぁいとーの日記 ゜*:.。.:*

ある時点での自分の記録たちとその他いろいろ

♪Happy Rebirthday

夏休みなのにまたまたご無沙汰してしまいました!あいとーです!今回はいつにも増してまとまりのない文章になったと思いますが、低い文章力に失笑しながらも通読していただけると嬉しいです!

以前に教習期限の9ヶ月をぶち抜きそうでヤバいという記事を書いたのですが、案の定そのまま仮免さえも取得せず突っ走ってしまったので、現在猪名川という片田舎に幽閉され、免許合宿に参加している次第です(今後の人生で、車校に行くのが面倒だという理由で9ヶ月仮免取らなかったという人に会う気がしません)。ということでまずは簡単に教習所でのおもしろランキングを発表します。

7位:黒髪のルキアちゃん(本名)(残念ながらロング)

6位:泊まってる部屋のユニットバスのカーテンにカビ生えててシャワー浴びても雑菌だらけ

5位:猪名川町マスコットのいなぼうの友達の魚の名前が魚くん

4位:朝飯で、黒蜜塗ったパンかと思ったら塗ってあるのはお好みソースで、でも中身はなぜか砂糖入ってる

3位:来て10日目にしてようやく風呂場の鏡が開いて収納スペースになってることを知った

2位:焼きたてを謳う朝のパンが6時半に来るのでどう考えても前日の余り物

1位:部屋の他の4人とは10日間一緒にいるのに年齢や所属さえも知らない

てな感じでなかなか心がしんどいという現状です。あとご飯が少ないのが致命的ですね。いうてもあと3泊4日てなとこなので、うっかりひき逃げとかしないように頑張りたいと思います。住民票移しちゃったので免許取得自体は東京戻ってからになるんですけどね。しかし9ヶ月で取れなかった仮免許が1週間で取れるなんて、なんだか成長を感じられて素敵だって、そう思いませんか?そんな自己弁護はともかく、期間中運転技術においてはやはり凡百なのだと思い知らされると、改めて、傲慢になることなく、等身大の自分をしっかりと見つめて生きないとなあと感じました(これは割とマジめに思った)。

 

さて、こんな感じで2年生の夏休みはいよいよ閉幕に近づいているのですが、今回はこの夏の前半にあった高山ゼミの合宿での将来設計というイヴェントについて綴っていこうと思います。

将来設計というのは、読んで字の如くで、何かしら将来の目標を設定し、それについて知り、目標に対する自分の現状を顧みて、これからすべきことを考えるという非常に建設的な課題でありまして、これを教授とゼミ生と発表し、フィードバックをもらうという一連の流れが、ゼミ合宿における伝統行事になっています。最初の五月祭の後からアガルートで司法試験予備試験の勉強をしている自分は、先のことは分からないなりにも、法曹に関わりはするだろうと思い、1年生の時は最高裁長官、2年生の時は「強い弁護士」という目標を設定し、将来設計を行いました。色々と書くべきことがあるのですが、とりあえずこの1年での心境の変化について述べていきます。なぜ去年は裁判官にしたかといえば、最高裁の長官(長官でなくてもよいが)として、判例の蓄積を形作る一端を担い、公に貢献して歴史に名を刻みたい、と自分は思っているんじゃないか、と考えたからです(※もっとも、聞く話によれば最高裁裁判官というのはかなり特殊な人種が選ばれるものであって、普通の裁判官としての出世ルート(最高裁の事務局長など)とは異なるようですし、また法解釈という点では調査官といった道もあります。当時はあまり考えていませんでしたが。)。ところが、そこから1年経った夏、改めて等身大の自分と向き合ってみれば、公のために粉骨砕身して名誉を得たい、みたいな感情は、一種の四月病みたいなもので、実際のところあまり大きくないのだろうということに気がつきました。少なくとも今の自分は、もっと矮小で、しかし大切な、自分自身の幸福が何より大事なんだろう、と思い直したわけです。そして自身の幸福は、経験上、食事でちょっとした贅沢をして、また完全に独り善がりでは生きられないため、近くにいる誰かを幸せにして感謝をもらう、そんな感じで達成されるのだろうと考えました。結果的には公務員でしかない裁判官よりも、学歴と予備試験という経歴を活かせばかなり確実に高収入が見込める弁護士という道の方が合っていると結論付けた、ということです。

今年の将来設計の内容を詰めるにあたっては、まず自身の幸福を達成できる「強い弁護士」というざっくりとした目標を考えました。そしてその具体的な内容として、法律事務所ZeLo・メルカリの岡本杏莉さんのキャリアなんかを参考にして考え、学部3年で司法試験に通った上で、一定水準の英語を身につけ、リーガルテックにもある程度詳しくなった状態で、サマークラークに行った大きな事務所に所属して実務経験を積み、そして最低限の箔として、留学させてもらってニューヨーク州あたりでLL.Mをとっていれば(これで30歳くらい)、そこまでに築いた人脈を合わせてそこそこ稼げるだろうし、悪くとも食いっぱぐれることはないと結論しました。これは(試験の合格を前提とすれば)非常に手堅い内容であると思います。実際先生やゼミ生にもよくまとまっていると言っていただけて、その点は満足しています。以上が2年生夏の前半の自分の考えです。

 

ところが最近は、これでも「そこまでしなきゃいけないか、そこまでしたいか?自分」という気持ち(以下①)が時々湧き上がっています。実際、文に起こしても、「〜上で、〜して、…」みたいな部分がけっこう長いですよね(こういうわけで、読みづらくてすいません)。何か影響を受けるようなものがあったかといえば、ビッグイベントはないんですが。馬車馬のように働かずとも、しっかり家族と向き合って生きていけたなら、それ以上はオマケみたいなもので特に望んでいないんじゃないか、とふと考えることがあります。

一方で、「こんくらいならできるし、後悔しないようにやらないと」とも強く思います(以下②)。簡単に浮き沈みする僕の性格からすれば、直近の出来事によって①と②の割合は左右されると思いますが、この場で将来設計の再考をすべく、両方について真摯に向き合ってみることにします。

 

もっとも②については、2年夏の将来設計のところで書いた、自身の幸福の渇望が源泉だろうと思います。問題は①についてです。どんどん目標が縮小してるってことはそれって単に怠惰になっただけじゃない?とも考えられますが、たぶんそう単純な話ではありません。何回か書いたかもしれない話ですが、僕は原則として世界が狭い(考えることが少ない)方が幸せでいやすいと思っています。幸福度合いの値hを、ある目標の達成度合いx1,2,...nにそれぞれ重率(ある程度目標を達成できていなければマイナスに働くものとする)をかけ、組み合わせて算出するものとしましょう。Σ(xn)をXとおき、自分のキャパシティだということにします。最後に、hの値がh1以上の時に「充分幸せだ」と思うと仮定します。さて、中途半端に賢くなって考えることが増えた状態(イメージとしては、ダニング=クルーガー効果のグラフの、自信の値が一番小さいあたり)では、目標という関数が増え、しかしx1らの限界を定める自身の能力Xはさほど上がらず、かつ求めるh1が大きくなるので、相対的な幸福度合いを上げるのは案外と難しくなる、という要領です。まあ重率次第でなんとでも変わるものですが(これが前述の①と②の間での揺れ動きを生んでいると考えられます)。ということで、長くなりましたが、手近で大切な望みに絞っていけばいいんじゃないかっていう①の気持ちも同じく自身の幸福を求めてのものなのです。あくまで相対的な幸福度合いの最大化を図ろうとしているわけですが。

 

しかし、①の気持ちには、もう一つ大きな源泉があるように思います。それはたぶん、「何かを大きなことを成し遂げてもそれに見合う達成感が得られないんじゃないか」という疑問です。この20年弱でとりわけ嬉しかったことといえば、灘中合格、高クイ優勝の二つであると思います。それは、実力以上のものが発揮され、思いがけない成果を得た(まあ後者は訳アリかもしれませんが)という状況に起因するものです。しかし逆に言えば、もちろん大変恵まれているためにこういう感想になるわけですが、他の大きな成功というのは、なるべくしてなったという気持ちの方が強いと思います。これは別に、類まれな才能で生きているなんて偉ぶってるのでも、努力を惜しまなかったと信じているのでもなく、自分はそれなりには賢く、一人っ子で、親が教育熱心で、先輩や友人が的確なアドバイスがくれるといったような恵まれた環境に助けられながら、最低限の努力をしたのでこんくらいはクリアできるかな、みたいな、色々な要素が半端に絡まった感じです。そして、自分の成し遂げたことについて、多くの人はこのくらいのこと、環境さえあれば誰でもできるのだろうと冷めた気持ちになってしまうわけです。絶対的には高く評価されるだろうことにも、どうも素直に喜べないのが自分の現状です。それゆえに、これからの人生で、ハイレベルな何かをやれどもやれども、達成感や自己肯定感を掴めないくらいなら、もっと身近な幸せの方を大切にしてやった方がずいぶんいいんじゃないかと考えてしまうのだと思います。

 

さて、こうして後ろ向きな(善悪の価値判断ではないですが)気持ちについて整理してきたわけですが、やっぱり心の奥底では、もっと努力して、広い世界で、新たな、今までになく大きな達成感を、自己肯定感を手に入れたいと渇望していると思います。それが幸せの絶対量を増やすということに繋がる(と知っている/自分で信じている)からです。後ろ向きな気持ちは、この命題が自分の世界で偽になってしまうのを恐れているゆえに起こる気持ちと解釈することができます。もっとも高クイ優勝の時は素直に喜んでいたわけですから、単純に才能(=Xの大部分を占め、かつ不変な要素)が足りないことを突きつけられるのは怖いだけかもしれませんが(テニスプレイヤーのニック・キリオスはこんな感じらしいですね)。

 

こんな自分と通ずるところを感じたのが、the pillowsの『アナザーモーニング』の歌詞の一節です。

今もまだ同じよく似た不安がつきまとう
耐えきれないような出来事は確かにあるけれど

どんなに寂しくても誰も迎えに来ないよ
迷子の知らせアナウンスはかからない
扉の向こうには約束なんてない
でも行こう生まれ変わる朝が来た

自分はこんな不安をけっこう前から抱えているけれど、友達がいようが彼女ができようが何かに受かろうが、自己肯定感はやってこないという迷子みたいな立場にある、のかななんておセンチに考えてしまいます。全部聞くと、山中さわおがこんなよくわからない悩みを綴ったわけじゃないだろうとは思いますが、やっぱり刺さる部分は多い曲です。

 

東大では今朝進振りの第二段階の結果が発表されましたが、雲を掴むような状態で、頑張り続けることがいかに難しいかということは、自分の至らなさからよくよく学んできました。「扉の向こうには約束なんてない」というのは、誰もがおんなじ状況なのだろうなと思います。そんな不安を吹き飛ばすように、幸せを求める強さを持って生きていける人は決して多くないでしょう。今の自分はむしろ不安に押し潰されそうになっていますが、世界を広げて、少しずつでも生まれ変わっていきたいと思います。言うは易く行うは難し、の典型例ですが、少しでも前に進むにはとりあえず、運転免許くらいしっかり取らないとダメですね。ではまた。