*:.。.:*゜ぁいとーの日記 ゜*:.。.:*

ある時点での自分の記録たちとその他いろいろ

語り得ぬ?

(文体は試行錯誤中です、今回は常体)

高2の冬くらいだったか、「哲学について、クイズで名前だけは覚えてるけど無知すぎん??」と急に思い立って、ウィトゲンシュタイン唯一の生前出版された哲学書であるところの『論理哲学論考』を独力で読もうとした。誰にでも背伸びしたい時はあると思うが、これもその一種である。さて、わかる人にはわかると思うのだが、まあ当然のようにちんぷんかんぷんで、みみっちいプライドのためにとりあえず何も見ずに最後まで読んだあと、本やネットの解説を見る羽目になったことは、割と印象深い。

そんな『論理哲学論考』の最後を飾る第7命題が、「語りえないものについては、沈黙せねばならない」というものだ。別にこれは「素人は黙っとれ」とかいうことを言いたいわけではない。

言語は「名(語)」の集合である「要素命題(単文)」の集合である「命題」の集合である。言語を(有意味に)「語る」ことは、世界を写像することである。「単純(=分けられない)」な「対象(⇐《意味するところ》語)」の可能な結びつきが「事態(⇐要素命題)」であり、成り立つ(真である)諸「事態」が「事実(⇐命題)」である。「命題」の総体が言語であるのと同様、「事実」の総体が世界である。倫理・価値判断(善い/悪い)は真偽で分ける「命題」の体をとらず、世界の内側にはない。したがって、そのようなものは言語によって写像できない。そして、個人について考えると、自分の言語の限界によって思考の限界がなされ、思考されている世界が個人の世界の限界であり、世界全体の内側にしかない。したがって、誰かが倫理や宗教について「語る」ことは、ナンセンスでしかありえない、そういうことを「語る」のは記号に何の意味も与えない疑似的な命題を語っているにすぎない。これが「語りえないものについては、沈黙せねばならない」ということだ(たぶんそうだと思っているだけで、ウィトゲンシュタインの思考が僕の思考の限界を超えているがために嘘っぱちかもしれない)。

この命題は「形而上学の終焉」などとよく言われるが、かといって、そういった世界の外側にある価値について自分なりの言明を与えることを否定するものではない。哲学のやり方としては不適切だと言いたいのであって、神秘や価値は世界の外側になければならないとして、その存在をむしろ強調している。

自分がブログで何か倫理とか価値とか恋愛とかについて書くことをようやく決意した昨日、「語りえぬ~」のことがふと頭に浮かんだので、自分なりに調べなおしてみた。結果とんでもない堅苦しい文章が誕生したけれども、ようやく難解な命題が腑に落ちた感がある。これからの何割かの記事は、彼の言葉により前時代に葬られた哲学的やり方でもって書かれることになる。世界の外側にある神秘は、確かに示されるに過ぎず、存在を信じるしかないシロモノだと納得させられた。神を信じるということも、彼によれば、世界の外側にある生の意義を信じるということだ。生という「事実」は内側でも、その意義はあくまで外側にある。興味も定まらず目標に欠けるがために、まだ世界の内側にある目標に対応しているであろう外側の価値を見出せていない僕は、そういった世界の外側にしかありえない価値の中でもとりわけ普遍的な、理念的なもの(たぶん親子愛とか友愛とか恋愛とか生の意義とか、そこから導かれるだろう自分の価値とかそういったもの)を頼りに生きようとしている(ただ、別に学問に明け暮れられれば友達も恋人もいらないというわけではない。いずれにせよ必要にしている。)。ところが僕は神を信じているわけではない。だから、神以外の何かによってそのような価値を信じないことには、全く生きる手がかりを失ってしまう。それこそ、漫画や映画(内側)の面白さ(外側)くらいしか頼れるものがない。

今のところ、親子愛と友情には素晴らしい価値を信じられているはずだ。ひとえに周囲の人に恵まれたためである。大変ありがたい話だ。ところがどっこい、お豆腐メンタルだからなのか、恵まれたそれらでも、ハッピーに生きていくには足りないように思えることが時々ある。そうなると、恋愛と、副作用として生まれる自己承認が価値として必要だろうということになる。ところがちゃんと恋愛したことがないために、その価値を手に入れられず、時々嘆かわしい思いをすることになる。その価値をうまいこと手に入れたいという希望のために、やはり恋愛に関する話題は自分なりに書かなければならないと思う次第である。こんだけ長々と書いてきて、結果ジ・イカ東人生終了非リア芸に着地してしまったわけだが、実際これは実に自分のことをよく考えてみたものだと思う。自分の存在の意義という世界の外側にあるものを信じるのに、恋愛をとっかかりにするほどやりやすいことはないだろう。たぶん失った時のダメージも計り知れないが、そんなことを気にしていてはいつまでたっても価値不足に悩まされることになる。そして、世界の外側にある価値をたくさん信じる方法なども、おそらく世界の外側(特に恋愛についてみれば、恋愛工学とか何もわからないので、自分の世界の内側とはますます隔絶されている)にあるもので、これだけ長々と「語っ」てもナンセンスでしかありえない。しかし、独善的に、疑似的にでも、必要としている世界の外側のことについて言明しようと試みることで、自分が自分の世界の内側をクリアにし、そこでどんな振る舞いをすべきかのヒントを得られるはずである。

ぐるぐるぐるぐると長ったらしく文章を並べたけれど、結局何が言いたいかというと、やっぱり何か書かなきゃ、残さなきゃ自分はダメだということだ。少しでもよく生きるために、ナンセンス承知で自分を見つけようとしなければならないということだ。簡単な、今までと何も変わらない結論に落ち着いたけれども、この記事でまず一つ、「ふわふわした自分」をハッキリさせることに成功したのではないか。本ブログの実質的な第一弾記事としては好スタートと言ってもいいだろう。というわけで、これからもちまちま書いていくつもりである。といっても重い記事は疲れたので、Web漫画についてでも書こうかと思っている。みなさんよろしくお願いします。