*:.。.:*゜ぁいとーの日記 ゜*:.。.:*

ある時点での自分の記録たちとその他いろいろ

陰キャ・イン・ザ・ハロウィン

こんばんは。何を書くべきかに迷ってました、あいとーです。

30日に渋谷を通りがかったとき、スクランブル交差点でおばあちゃんが「ハロウィンは悪魔を呼ぶ祭りです 今すぐやめてください😢」ってずっと言ってました。(でもこれはむしろ逆で、悪魔を追い払う(たぶんバンシーとか)ためにやってたケルトの祭りが元なわけですよね。うるさい若者を追い出そうとするその意気やよしというところですが、嘘は良くないですね。)そのおばあちゃんが本気で悪魔のことを信じているかはともかく、彼女にとってきっと、群がる若者たちは全く受け入れがたい存在なのでしょう。同様に、ハロウィンとは縁のない人にとってもなんだかわけのわからないことを言うそのおばあちゃんは、若者たちに拒絶されていました。

他人の気持ちを理解するというお題目がありますが、あくまで理想に過ぎません。同じ遺伝子で同じ経験を積んでない限り、理解というフェーズには至りません。そこで自分たちができるのは、受容と共感です。他人のあり方を受容して、そこから生まれる気持ちを推し量ることです。マイノリティに対するとき、このことは大事になってきます。例えば同性愛者の人の話を聞くのも多分こんな感じです。異性愛者だという壁(正確には、違う人間であるという壁を、恋愛対象の違いという成分が分厚くしているという感じでしょうか)を乗り越えることはできないけれど、壁に張り付いて向こう側の音に耳を傾けることはできます。そこで壁から遠ざかってしまうこと、それが拒絶です。自分の世界観が正しい世界で生きていけるのはなんと気持ち良いことでしょう。反面、壁の向こうに誰もいないと気付いた人はけっこう傷つきます。とりわけ自分がマイノリティであればそうでしょう。社会の中で生きていくのに、一人で戦えるはずもないのです。そうして、誰かに気持ちを届かせようという意志が折れてしまえば、もう何も生まれることはありません。壁が分厚いほど、向こうの音を聞こうとするのは骨が折れることで、そこから逃げ出したくなります。しかも他者の気持ちに思いを馳せようが馳せまいが、他者の行動は日々勝手に頭の中に入ってきて、理解され、心証が形成されます。なんだか絶望的な状況ですが、少しでも聞き取れる部分を探すという姿勢が大事になります。何を当たり前のことを、と思われるかもしれませんが、多くの人は行動の重さに気づくこともなく他人を拒絶してしまっていると思います。自分が拒絶されるという経験に欠けていて、共感してもらえるのが(壁の向こうにたくさん人がいるのが)当たり前だと思っているからです。共感しようとして、最終的に何もわからないということは別にどうしようもないことです。受容したとしないとでは大きな違いがあります。たくさんの共感を頼りに生きているからこそ、いろいろな人に共感でアシストすることができるような、そんな人間でありたいなあと思います。

で、本題の渋谷ハロウィンに関してそんなややこしいことが必要でしょうか。んなわけないですね。渋ハロに参加するのは誰でもできるし、ハロウィンに参加するだけでむちゃくちゃ壁が薄くなるし、あの大人数の不思議な一体感は他人だということを彼方に追いやってしまえるものなわけです。確かにこのイベントで、時に看過しがたい迷惑をかけているということは間違いありませんが、渋ハロに自分が参加することが他人に迷惑をかけることには決してつながりませんよね。

かくして非常に反省しているわけです。仮の装いを、ハロウィンを純粋に楽しもうという気持ちが欠片もなかった自分に対して。楽しそうに騒ぐ人々の気持ちを拒絶していた自分に対して。「どうだ、俺は学問に相応しい客観性を持って一歩引いてこの喧騒を分析するのだ!」という傲慢さ、なんと主観的なことか!とある先輩の言葉を借りれば「俯瞰オタク」という愚物になっていたのです。斜に構えてものを見たとき、大体見えているのは自分の偏見だけです。ゼミ後に「社会科見学」とか言って渋谷に行く浅ましさを感じて、一通り歩いた後人混みをかき分けて帰っていった時、空しい気持ちに溢れていました。互いに無言の拒絶を受け、何も生まれることはなく、一人歩く自分はよりしんどさを味わっていたわけです。

社会科見学だと思っていくとまあなんと肩身の狭いことか。拒絶云々以前に、別人でありたいという願望を滲ませている人々を、現実の目線でじろじろ見るのは失礼というものです。騒いでるのは田舎者ばっかみたいな話が嘘かホントかとか、アンケートとったろと思ってたのですが、どう考えてもそういう雰囲気ではありませんでした。確かにモラルとか知性とか、自分が寄る辺にしようとしているものとは縁遠かったけれど、楽しそうにしている人で溢れているのは羨ましいと思いました。そこに理屈があったとしても、理解する必要はないし、ただ流れに任せて楽しんでやればいいというものです。

ただ、無粋を承知であの場の何たるかについて考えてみるのも面白くはあります。あの晩渋谷にいた人々は、ルックスがよかろうが悪かろうが、大人しそうだろうが派手そうだろうが、誰もがいつもと違う自分であることを楽しんでいたように見えました。普段没個性に埋められている人たちが、自由に自分を表現して、それが許されるという現代に稀有な空間が、日本式のハロウィンなのかなあという思いです。毎日あんな格好してたら「変態」「変人」として拒絶を食らうところ、ハロウィンでは「仮装」という名目があるから受け入れられるわけです。高度な社会を形成している以上、思いのままに振舞えないことがたくさんある現代人にとって、こういう「ハレ」の日は必要だろうなあと思います。ニューヨークでは10月31日に公式にハロウィンパーティーをやって、プロのアーティストなんかも参加しているそうですが、日本でもいっそ公式のイベントにしてしまえばいいのになあと思います。

ところで、眼鏡を外して渋谷を歩いてみたとき、なんだかすごく力が湧いてきました。イベントの趣旨を没却しようとしていた自分を眺める他人の目が、一切気にならなくなったからだと思います。無思考で拒絶するのは楽なことだ、と長い前置きで書きましたが、視力を失って周りの目を拒絶し力を得た自分の姿は、そのことをよく表しているような気がしました。見えないことは、本当は大きな弱点になっているのに、自分の世界を守るという点においてだけは、とんでもなく役に立ってしまうことですね。その日のゼミで、世界の景気後退傾向についての記事が宿題となっており、自然と日本の話題に向かいました。そこで先生が「グローバル化が進んでいるのに日本の大企業はそれに合わせようとしていない(って奥さんが言ってた)」という話をされていましたが、それも少し共通するところがあるように思います。ハロウィンの日の教訓は、どうやら色々なところにつながっているようです。

次の記事にすりゃいいかと思ったことは序盤で書いてしまったので、次回の予定は未定って感じです。ただ、来年渋谷で楽しんでみようということは決まっています。ゴミ拾いまで参加して、今度こそちゃんとした記事にできればなというところです。