*:.。.:*゜ぁいとーの日記 ゜*:.。.:*

ある時点での自分の記録たちとその他いろいろ

友情のあれこれ

最近誰もいない家に帰って「ただいま!」って元気よく言うのが日課になりました。こんばんは、あいとーです。

情報過多ともいえる現代日本で、人々、特に若者はリアルの関係に加えて、スマホという小さくも広い窓を通じて他者と接しています(デジタルデトックス回もやりたいな)。その中で友情のあり方も多様化している気がします。今後この前置きはほとんど関係ないと思いますが、ともあれ今回のテーマは宣言通り友情です。これもまた独善的な理解にしかならないわけですが、あまり整理したこともなかったので頑張って考えていきたいと、そういう心づもりです。これからするのは、あくまで主観面での話ですのでその点ご留意を。

古典的な手法として、まずは辞書の定義を眺めてみます。

友達の間の情愛。友人としてのよしみ。』(デジタル大辞泉

お察しの通りこれじゃなんにもわかんねーよという感じですね。とりあえず、対人関係という広い枠組みで、友人がどのへんに位置するのか考えてみることにします。

ある人と別の人が何らかの機会を得て、会って言葉を交わしたとき(あるいはSNSで相互フォローになってリプを交わしたときも)、その二人はまず「知り合い」になるはずです。その次の段階を考えると、そのままあまり会う機会もないということになれば「知り合い」のままです(便宜上こちらを「知り合い2」と呼びます)。互いにもっと話をして仲良くなれば「友人」と称することになるでしょう。同じ共同体にいる「友人」については、「学友」「僚友」などとマークのついた単語が宛がわれることもあります。あるいは、一緒ににふざけて行動を共にする「友人」を「悪友」と呼んだりします。では、仲良くなるとは一体何をすることなのでしょうか?

これは、「互いの領域に踏み込んでいくこと」ではないかと思います。「自己に属するもの(自分の知識、趣味、思考など)」を相手に開示していくことで、互いのことを知るのが仲良くなるということではないでしょうか。そうして相手のことを知る中で、「好き」「嫌い」といった価値判断が登場します。相手に属するものが、自分に属するものと近い、あるいは近くはなくとも理解できるとき、人は安心し、そういった会話を楽しみに思います。逆に、遠いし理解できない、なんとなく気に入らない(例:「あいつはいいやつではあるんだけどどうも違うんだよな~」)というときは、その相手との関わりが億劫になります。「好きの対義語は無関心」とよく言いますが、互いの領域に踏み込んでいる/いないを軸にすれば「嫌いの対義語も無関心」だと言えそうです。相互理解によって育まれるのが友情なわけです。理解できる/できないということがより大きな影響を及ぼすのは、「自己に属するもの」の中でも自分の根本をなすものについてのことです。例えば、阪神ファン同士で、近い話題があるために話が弾み、仲良くなったとしても、そのうち自分の夢なんかを語ったりして、それが受け入れられなければ、とたんに相手のことを嫌いに思うはずです。逆に、そこに共感を得られれば非常に心強いでしょう。会話をするうちに、自分と相手の相互理解の度合いから、自己の情報をどれだけ開示するかという境界線を引くことになります(もちろん、可変のものです)。その境界線がより自分の根本を成すものに近い場合、そういった「友人」のことを「親友」と呼ぶことになるのだと思います。

(※上の段落の論は、友情のWikipediaの項目にあったジンメル(消費理論におけるトリクルダウンの提唱者としても有名)の考えを見て展開したものです。)

自己開示することは、相手に弱みを見せることにもなります。その程度は、やはり自分の根本に近い情報であるほど大きいわけです。例えば「阪神ファンである」という情報が意図しないところに流れても実害はほとんどないでしょうが、「実は最近○○さんのことが気になってる」という情報は、もし相手が無差別に広めまくったりしたら、痛手になる可能性が高いわけです。その点、「親友」になれるかどうかは、まさに相手への信頼の度合いにかかってきます。信頼するのは、口の堅さだけでなく、相手が自分が開示した情報がどれほど根本的か理解できるか、という部分もです。そうした信頼は、上記の通り、そこまでの相互理解の度合いから判断するものです。ただ、相互理解の度合いというのはかなり主観的で、自分も相手もかなり情報を出していると思っていても、相手からすればあまり信頼に至っていない場合があります。信頼はあくまで片務的なものなわけです。ただ、自分が情報を出すにあたり、相手も同様に自分に弱みを見せていると考えるのが普通であり、だからこそ「友人」には協力を求めることができるわけです。例によって情報開示の度合い(→仲の良さの度合い)によって求められる協力の程度も違います。ゆえに中途半端に仲良くなった人間の扱いには困るものです。また、相互理解の度合いが高い状態においては、協力を断ることも問題なくできます。それくらいでは信頼が傷つかない状況にあるためです。むしろなんでもかんでも協力してしまうというのは友情が深まっていない証拠と言えます。また、逆に相手への協力を友情の深化につなげようということもあります。漫画などで「仲良くもないヤンキーにパシられ続ける少年」がよく出てきますが、これは協力によってなんとか友情を生もうという気持ちの表れではないでしょうか。協力を友情の証拠にしようという試みだと言えるでしょう。

ところで、今年の東大英語第2問Aにおいて、シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』の一節が題材となっていました。第一幕第二場において、ブルータスが『目は反射によってしか、つまり他のものを通してしか、自分自身を見ることができないから。』と、キャシアスが『君の鏡である私が、君自身も知らない君の姿をあるがままに君に見せよう。』と述べている部分です。要は、自分のことを知るために友人が必要だというわけです。実際、自己の描く自己像は、あくまで自分本位の理想的なもので、決して真実とは言えないでしょう。ゆえに、客観的な眼差し、つまり友人の眼差しを通してこそ、自分が見えてくるということです。先ほどまでの論で、自分に属するものを開示する、ということを何度も言いましたが、これは「自分が思い描く自分に属するもの」でしかないわけです。仲良くなる、自己開示をするということは、ただ開示をして終わりということではありません。その後には、相手が、その開示されたものをどのように理解したか伝えてもらう機会があるはずです。そのコミュニケーションによって、単に思い描くだけだった自分の構成要素が、客観性を帯びたあるがままの自己の一部になるわけです。自分の意見を誰かに述べたとき、思わぬ視点で返ってきて逆に何か気付かされるという経験をしたことのある人も多いはずです。そして「親友」は、より自分の根本を成すものについての客観的視点を与えてくれるゆえに、ますます貴重な存在なのです。自分を知るということが、良き生を送るために大事だと常々思っています(このへんもまだあやふやですね)が、友情はまさにそのために欠かせないものだと言えるでしょう。

真に良い友情というのは、ここまでを総合すると、互いに自分の根本を成すものについて開示しあうことができて、なおかつそれを理解して相手に伝えてやることができるもの、といった感じだと思います。やはりというかなんというか、至極当たり前な結論に落ち着きました。また、ここまで書いて、「親友」というもののあまりの素晴らしさにびっくりしています。何人いるだろうか、親友。幸運なことに多い方だと思います、具体的な数には言及しませんが。「いっぱいいるのなんて本当は親友じゃないよ」という主張もありそうですが、ここまでの定義に照らせば複数いることはむしろ嬉しいことではないでしょうか。しかし、(ある程度成熟した人間の間の)友情というのは、なんだかかなり頭で考えた上に乗っかっている感じがします。多分、狭義の「恋愛」はもっと本能的なものではないかと思います。ということで、前座としての友情の話は終わり(クソ長い)で、次の記事は「友情」「親友」と「恋愛」「恋人」について考えていきます。