*:.。.:*゜ぁいとーの日記 ゜*:.。.:*

ある時点での自分の記録たちとその他いろいろ

死にかけの祖母に思うこと

―僕の2019年は、ラウンドワンのムーンライトストライクゲームとともにやってきた。9ピン倒して、「要領がいいだけで結局何者になることもなかったこれまでの生活を暗示しているのだなあ…」などと陰鬱な想いを抱くことはなく、高校同期とはしゃいで偏差値2の年明けを迎えたのである。—

あけまして5日目でとうございます、あいとーです。 「~~で……だから今年の抱負は○○」みたいな感じの文章をずーっと練っては投げ練っては投げしていたのですが、よく考えたらそんなもんブログにアップする必要ねえわということで、正月中の出来事に目を向け、久々になんとか記事を書きあげた次第です。なんだかんだと関西人の心を多少は持つ人間なので、オチのない記事は書けないなあと思っていたのも更新が遅れる原因でしたね。

昨日は北大に行った幼馴染くんと親子で会っていたのですが、その前に老人ホームにいる母方の祖母のところに久々に顔を出してきました。彼女は6年前に老人ホームに入り、ここ2年ほどはもう自力で外に出るのも無理になるほどに弱ってしまっています。脳梗塞認知症といったところでしょうか。多くの人が程度の差こそあれ感じることだと思いますが、元気だった人が、いつの間にか娘のことも孫のことも判らなくなり、自分で物を食べることさえもできなくなるという事実に、人間の脆さだとか、諸行無常の響きを受け取らざるを得ません。今日はわりかし元気な日だったようですが、それでも口に入れてもらった流動食を飲み込むのが精いっぱいという状況で、やはり物寂しい気持ちになりました。ほっといてもペラペラと話し続けるほどのおしゃべり好きだったのに、呼びかけても無反応だということも、それを加速させました。

元気な頃の彼女のイメージからすれば、「自分でなんもできんくなるくらいやったら死んだ方がマシや!!」とでも言ってそうなものですが、なんのかんのとしっかりと生きてらっしゃるというのが現実のところです。「尊厳死」「安楽死」という言葉もすっかりと耳馴染みになりましたが、そういう言葉を聞くたびに「生きる意味ってなんだろう」と考えてしまいます。それが何かということは各人にとって永遠ともいえる重い課題ですが、その中の一つに承認というものがあるとやはり自分は思うわけです。

承認が生きる意味を与える源泉になる、ということは、ある意味自分にとって最終的には生きる意味は死のあり方にかかってくると言えるのではないでしょうか。すなわち、どれだけの人に、どのように記憶されながら死ぬかが生きるうえで大事だということです。「おお主よ、各人に固有の死を与え給え」と詩人のリルケが述べているそうですが、死が簡単でなくなった、死が身近ではなくなった現代の日本において、印象に残る死というのはかなり難しいように思います。大体の人が、老いた末病床で亡くなる、という死に方になります。そのうえ、かつては「一億総中流」と言われ、今も「インスタ映え」という言葉が流行る、そういう国の中で「固有の死」という考え方そのものも、薄いように思います。だからこそ、「固有の死」というものは、逆張り人間の自分にとってすごく魅力的です(三島みたいに、あんだけ華々しくやろうとは思いませんが)。

しかし、ここで「固有」とはどういうことなのかと疑問が湧いてきます。誰かの記憶に残ること、誰かの思い出話の対象になること、といったことがまず思い浮かびます。「人の記憶に残り続ければいいのであれば、友人と家庭を持ったそれなりにまともな人は、現代でも範囲が狭かろうが『固有の死』を達成できるんじゃないの?」と思えてきます。確かに、範囲の狭いことは「固有」性において問題ではありません。しかし、誰かの思い出話の種になるということは、社会で生きさえすればほとんど誰にでも達成できることです。同級生のクソウザいやつの話でなんだかんだと盛り上がれることを考えてみてください。そういうことで、思い出話の種になることは、「固有」性を持つことではないわけです。じゃあどうすればいいか、と言えば、誰かの人生の送り方に変化を与えることが、「固有」性につながるのだと僕は思います。もちろん、ある程度プラスの変化でなければ意味がないですが。つまり、振られた相手の目の前で自殺すれば「変化」はもたせるし、「固有の死」にはなるかもしれませんが、それが「生きる意味」だとすればあまりにもヤバい人なわけです。「変化」は、自分の「生きる意味」につながる「固有の死」のために、他人にもたらさなければ、「固有」性の趣旨に反するのです。したがって、通常(少なくとも僕にとっては)ポジティブな変化を与えなければ「固有」とはいえないということです。

iPhoneを開発したとか、近所の子どもにちゃんとしたスイングを教えてヒットを打たせてやるとか、そんな感じで、規模の大きさには関係なく、少しでもいい「変化」をもたらすことが、自分のためになるわけです。何事も自分のカッコいい死のためにやっているのかもしれません。「嫌われたくないからって人に優しくするのは、優しさというよりは自己中心的な臆病さだ」とかなんとか、鬱陶しい言説も、「成熟した人は『固有の死』のために自己中心的に行動するのだ」と思えば、まあへっちゃらというものです。

今、「幸せな自分」を発信して承認を貰うことがスタンダードな世の中になっています。しかし、それは本当に自分の幸せになるのでしょうか。他者に何かをもたらすことにつながるのでしょうか。一体誰が承認を与えているのでしょうか。「固有の死」の「固有」性を高め、より強く「変化」を起こし、より多く「承認」をもらう、そうして幸せや生きる意味を得るために、勉強があるのだし、スポーツがあるのだし、その他色々な仕事がある、社会というのは本当はそういう構造なのではないかと思います。そこで僕には何ができるか、と言われればそれは、勉強して、それで得たものによって、何か「固有の死」を目指すということです。さて、こんな風に考えたとき、僕が生まれる前に亡くなった祖父が作った会社を継ぎ、盛り立ててきた祖母は、もう十分すぎるくらいに「固有の死」の条件を満たしているのだろうな、と思います。それはやっぱり尊敬すべき、誇らしいことなのだとも。

カッコつけてはみたものの、あまりにカッコを重視しすぎていて、この言葉通りに行動するのは難しいなと思います。でもまあ、恋人ができても匂わせ投稿とか絶対したくないですね。それではまた。