*:.。.:*゜ぁいとーの日記 ゜*:.。.:*

ある時点での自分の記録たちとその他いろいろ

♪愛情ってゆう形のないもの~

こんなに間が空くとは思っていなかった。これまでがハイペースすぎたという見方もできる、というか実際そうだったと思う。どうしようもないので重い腰?を上げてTinderをネタに記事を書くことにした。

山崎賢人の写真を採用してから明らかにマッチが増えたという事実(なぜ山崎賢人か、わかる人にはわかる)に、世の中の悲哀を感じるこの頃である。始めてから大分経ったもので、業者とか救いようのないメンヘラとか雰囲気ですぐわかるようになった。一言目の出し方にも大分慣れてきたように思う。女性だと思って話していた人が実はバイセクシャルの男性だったという、相手の気持ちやらなにやら考えると怒るに怒れないけれども、ヘテロの僕からすれば大変痛ましいような出来事もあった。話の小ネタが増えるのもTinderならではというところで、理Ⅲを知らないJK、子持ちの20そこそこのシングルマザー(マッチしたことはない)、etc.と自分が生きてきた世界とは隔世の感もあるたくさんの人々が同じ日本にいるということも自然と頭に入ってきたのだった。

そういうこまごまとしたことはさておき、少し考えさせられる出来事があった。本題は少し先になるのだが、ぜひ最後まで付き合っていただきたい。なお、一部薄めに脚色しているのでそこのところはご理解のほど(少し短絡的じゃない?と思ったところがあれば、きっとそこが脚色されている)。

こないだマッチした人がプロフィールに「一人暮らしの男の家に行きたいです。大きいといい」というようなことを書いていた。「とうとう僕にもお鉢が回ってきたらしい」なんて虫のいいことを考えながら、適当に雑談もしつつ、「一人暮らしですよ」「隣町のラーメン屋の近くに"HAPPY FAMILY LIFE"って書いてあるコンドームの自販機があるんですよ」などと自己アピールを行い、向こうの人もけっこう行為に乗り気に見えた。見えたというか、これは間違いなく"HAPPY FAMILY LIFE"案件だという感じだった。

ところがどっこい話が進むと突然、「童貞でしょ?」なんてことを聞いてきた。羞恥心を噛み締めながら、「話してるだけでわかるもんですね~ まあ男子校6年なんで」などと模範的童貞の返しをすることになった。くそお。しかし次の彼女のセリフでその羞恥心は吹き飛ぶことになる。「私童貞とはしないようにしてるんだよね。(笑)」と彼女は言ったのだ。

なんということだろう!これまでの雑談から彼女に彼氏がいるということ、その間も他の男性とセックスをしているということを聞いていた僕は相当驚いた。最初この彼女の「主義」を聞いた時のがっかり感もまた驚きに流されていくくらいに。明らかにクズっぽい奴とはセックスしないというなら(自分の既存の価値観に合って)納得もできようが、いわゆる「ヤリマン」などと呼ばれておかしくない彼女があえて童貞を拒んだ理由が僕にはわからなかった。まさに「イメージの裏切り」とでも言えよう。こんなことでキレてると勘違いされぬよう、慎重に「なんで童貞とはしないことにしてるんですか?」という旨のことを聞いた。僕にとっては意外なことに、彼女は「私も初めては好きな人とで幸せだったから、君もそうして欲しいな」なんてことを言った。

今彼女がしていることと、彼女の言葉とは、矛盾、というか大きな変化が明らかに見て取れる。その理由を推測することもできない自分の経験の無さに呆れながらも、新たに湧いてくる疑問を彼女に投げかけた。「なんでそんなに変わってしまったんですか?」と。(今思えばずいぶんとデリカシーもなく次々と聞いていたもので、よく答えてくれたなあと感じるところ。)そしてまた彼女は衝撃的なことを告げてくれた。「すごく好きだった元カレが、自分と付き合ってる間に他の女の子とガッツリ付き合ってたってことを知って、結局愛されてなかったんだと思うと何だかどうでもよくなっちゃって、って感じかな」

まさかこんな深刻な話になると、最初は誰も思っていなかっただろう。僕もそうだった。彼女はこうも言った。「穴埋めがしたいだけなのかもしれない。」と。言葉で語る「真実の愛」の薄っぺらさに疲れ切った、という様子だった。残酷に奪われた「真実の愛」という題目の代わりとして、一時的な性愛を使わざるを得ないほど苦しんだようだった。それでもなお、その尊さゆえに「真実の愛」を求めてしまう人間らしさにも溢れていた。いくら僕に恋愛の経験がなくても、すごく共感できる部分だった。

「本気で好き」だとか、「真実の愛」だとか、今のところ自分は感じたことがないような気がする。恐ろしいほど鈍いか怖がりか、どっちかかもしれないけれど、主観で言えば同じことだ。母親はよく「あんたは幼稚園の○○先生のことが絶対好きだったよ」ってことを言うのだが、あんまり昔なので何も覚えておらず、役に立たない。世の中の恋人たちはどんな気持ちで、付き合い、別れ、また付き合って、と繰り返しているのだろうか。自分も相手も嫌な思いをしないように、「ちょっと気になってるのかな」という程度ではほとんど告白に出ることはしてこなかった。純粋なものを求めすぎているのかもしれない。この年代の恋愛にはそぐわないんだろうなと自分でも思う。あるいは、決まりきった定義を求めすぎているのかもしれない。親友に近いのか、セフレとは近いのか、恋人というのはどんな人間関係であるべきなのか、そういう堅苦しいことに囚われているようにも思える(このレベルに拗らせてると、男子校が悪いとかそういう話ではない気がする。)。とにかくそういった諸々の問題に思いを馳せながら、「初めては好きな人とした方がいい」という彼女に、「本気で人を好きになったことは今までない気がするんです」と心の内を打ち明けた。

彼女もまた同じような悩みを心の内では持っているようだった。「いろいろ言ってきたけど、私も自分から人を好きになったことはなくて、相手に言われて自分も好きになるみたいな感じかな」と彼女は教えてくれた。それじゃ自分の問題が解決しないのは明らかだけれど、「誰かに好きと言われたら、なんとなく自分もそんな気がしてきそうだ」ということにはとても共感した。相手が自分のことを好きだと言ってくれるなら、こっちから好きと言っても傷つかないだろう、と思う。相手が何か大事なものを預けてくれたということに、心を動かされるだろう。やっぱり僕は単に臆病なのかなと思ったけれど、本当のところはまだわからない。

そんな彼女も、「今の彼氏といる時間は幸せだし、離れたくない」、なんてことを思うらしい。きっかけが完全に相手主導でも恋愛はちゃんと成立しているようだ。ついでに言うと、「大きさよりも、好きな人とするのが一番気持ちいい」そうである。そうした感情が「好意」という規範的要件の評価根拠事実なんだろうか、と考えながら、傷ついてもなお恋愛に身を焦がす彼女を羨ましく思った。彼女の彼氏のことを考えるとさすがに気の毒だなあと感じるけど。そろそろちゃんと恋愛しなきゃまともにも幸せにもなれない気がするし、それこそまたTinderを活用しなきゃなあと思う。予備試験の勉強も時期で言えば後半戦、本気の本気で取り組むべき時期に入っている中、何につけても時間を有効活用したいものだ。

満足の天井

こんばんは。ふと見返した逆評定に「×女好き」と書いてあったのを見て、「これじゃ下クラの女子に警戒されてしまうじゃないか」なんて思い、その発想がすぐ出るのが「×女好き」たる所以か~なんて勝手に納得しています。あいとーです。

さて、3日間に渡る駒場祭を責任者として乗り切り、まだまだ疲れの残るこの頃です。コマーバックスという安直炎上ワンチャンネーミング店舗でしたが、なんだかんだ美味しいホットチョコレートを提供し、たくさんの売り上げを出せました。オシャレな店舗に見合わぬ男スタッフばかりの時間帯も長かったですがよく売れたなあと思います。改めて協力してくれたみんなに感謝しなければならないところです。

ところで、売り上げというのはいくら増えても困ることはありません。まあ配分には難航するかもしれませんが。10万円利益が出れば、15万あったらなあと思うし、15万円利益が出れば、20万欲しかったなあと思うものです。「コーヒーも一緒に売っていたらもっともっと儲かったかも」とか思うこともあります。金への欲望は際限なく高まっていくものです。

とはいえ売り上げに関しては、15万の利益だったとしてもけっこう満足のいくものです。駒場祭の来場者数、製品の値段、等々を考えれば、満足のラインは軽々超えています。実際の世の中はこれほどわかりやすいものばかりではありません。一段高いところに進んでは、まだ遥かに聳え立つ山を目にし、グロッキーな気分になります。クイズだって、けっこう強くなれましたが、自分より強いプレイヤーがいくらでもいるわけです。トップに立つには相当な努力がいるけれど、あまり好みでないこともしないといけないし、コスパもかなり悪い。トップに立てないものに全力を注げるほど、競技としてのクイズは好きではなかったようで、フェードアウト気味になってしまいました。「逃げてるだけでクソだせぇ」という意見をもらってもいいような理由だけど、何かをやめる人ってきっと多くはそんな気持ちなんだと思います。無力感と戦い続けて成長して、ある程度のレベルで満足して見切りをつけて、そしてまた別のことを始める。一つのことをずっと続けられるのは、才能がある人と、それを心から愛している人だけでしょう(これだとまるでクイズなんか嫌いだと言っているようですが、わいわい仲間内でやる分には一生続けたいと思うくらいには好きです)。

こうしてまあほとんどのことは満足と無力感の折り合いをつけてやめられるものですが、人生というのはそう簡単にやめることはできません。なんせ、死なないとやめられません。しかも人生の満足度とか、自分の能力への満足度とか、他のほとんどのことよりも曖昧で抽象的で測りにくいもので、ややこしいったらありゃしないという感じです。愛とか友情とか知能とか人間性とか、評価の要素一つ一つがまた掴みにくいもので、「人生はクソゲー」なんて叫ばれるのも無理はない話だと思います(その点容姿とか運動神経とか学歴とか、わかりやすくていいですよね。こういう要素は、わかりやすいがゆえに、重視されるのだろうなあと思います)。

大人になるにつれて、自分が成長しているなあという実感は時々得ることがあります。他人との関わり方や遠ざけ方、頭の使い方、自分の人間性の見方とか、少しずつわかってきて、満足感を得ることもあります。ところが、それを客観視する場面はそう多くないし、当然自分より友達付き合いがうまい人もいれば断然頭のいい人もいて、ぐうの音も出ないくらいにいい奴もいるわけです。そのたび自分の人生の価値の脆さを突き付けられます。ああ、所詮自分は今誰かにとって代わられる程度の存在なんだ、と。それでも、そういうすごい友人との付き合いが、自分の人生に、たくさんの面白味も与えてくれるから、切って捨てるわけには絶対にいかないのです。無力感で殴られながらも、そこで芽生える向上心こそが自分を駆り立てるわけで、全く絶望的な状態だなあと思います。先ほど「人生は簡単にやめられない」ということを言いましたが、そういう自分を駆り立てる無力感をシャットアウトしてしまえば、人生をやめたも同然の状態に陥ることはできると思います。そこに堕したっていいじゃないか、ほとんどの人はきっとそうじゃないかとも思いますが、やはりなんとなく気づいてしまった以上もはや引き返せないという、このブログで何度も言っている、「知ってしまったゆえの不幸」があるのかなというところです。

(とある先輩がよく言う、「王」とか「GOD」とか「Fake」とか、気に入って使ってしまうのはこういう考えによく合うからなんだろうなと思います(もっと俗っぽい使い方もよくしますが)。王になるまで、無力感に打ちのめされ続けるような世界に生きているわけです。ナンバーワンも含め、何かしらの形でオンリーワンとして社会に爪痕残さないと、Fakeに終わってしまうなあと思っています。)

そしてそうやって気づいても、なお努力を怠ってしまう自分に嫌気が差すわけです。一体何なら本気で努力できるのか、それを見つけるのもまた喫緊の課題の一つでしょう。無力感と戦い続けていられるような面白い場を見つけたい、そしてそのためには結局色々な形で勉強を続けていくしかないんだろうなと思います。

毎度似たような結論になるのは、今自分がしていることの意味を考えているからだと思います。こんくらい色々理屈をつけないとすぐに逃げ出してしまいそうなので。もっとうまいこと生きていければ贅沢に悩むこともないのになあと思いますが、どうしようもないので飽きるまで書き続けることになります。次回はとある人よりテーマをいただいたので、「日本人のアイデンティティ」というものを考えてみます。本とか読まないと見るに堪えないゴミを生産しそうですが、頑張っていきたいと思います。それではまた。

 

没個性に生きる

(明日から3日間が駒場祭ということで、正責任者としてなんとかがんばっていきたいという所存です。暇な人はお越しください。)

普段から、ポジティブな振舞いをするように心がけている。善い振舞いが、やがて善い想いを、立場を、自分を作っていくと思うから。かといって、今自己肯定感がMAXで、そこからポジティブがあふれ出しているとかではない。なんとなく、自分の価値はどこにあるんだと思う中で、それを見出すための手段としてポジティブな振舞いがある。

自己肯定感を得るために人ができることはいくつかある。その一つが、自分を特別な存在だと思うことである。「こんなことをしてる自分っておもしろいでしょ」とか「こんなに服に気をつかってカッコいいでしょ」とか、「もともと特別なオンリーワン」とかそういう類のやつである。とはいえ、ほとんどの人にとって、そのような価値は他者に評価されて初めて意味を持つ。バズったツイートの型に合わせてツイートして、自分のセンスで選んだ流行りの服を着て、人はオリジナルらしきものを身に纏って生きていく。皮肉な言い方をしているけれど、別にそういうのが悪いと思ってのことではなく、自己の内側から価値を見出せない人間という生き物のあり方に虚しさを感じているということだ。こういったことは、消費社会に対する分析の中でよく言われるらしい。人々は、オリジナリティを見出すために、流行とか人気ブランドとかを身につけて過ごしていく羽目になる。

自分だけが「価値がある」という判断をしている状態は、その時点では、実際どれだけそれが素晴らしいものだろうと単なる自己満足に過ぎず、多くの場合他者とのかかわりの中で幻想として打ち砕かれることになる。ここで幻想でもいいじゃないかと個性を貫ける人もいるだろう、ただ自分は全くそうではないのでこうして検討している。ついでに、ごく個人的な趣味も、こういう話にはあてはまらないだろう。さて、現代は特に、常に大量の情報が流れ込むなかで、大量の他者による価値判断もまた自分の中に入り込み、根拠となって自分の価値判断が形成される。以前に増してわかりやすくなった「流行り廃り」が、社会に生きる自分たちを規律する。SNSの登場は、価値の発信方法の確立であり、同じような価値判断をする人々が集いやすい場になっている。ほとんどの人は、常に誰かの価値判断を頼りにして自己を見出している。顧みられないものに価値を見出すことは簡単ではない。発表者が価値あると思って送り出した意見も、くだらないと思われたら、途端にその良さを見失ってしまう。仮に本当に素晴らしいものだったとしてもそうなのだ。ゴッホの絵は今でこそ称賛されるが、生前ろくすっぽ売れなかった時は、顧みられず、一般人が価値を見出すことも難しかっただろう(これに関してはゴッホの活動期間の短さなども本来考慮されるべきだが、所詮たとえ話なので今は置いておく)。

社会には、とても多くの人が住んでいる。たとえ共産主義に身を捧げても、他人との比較は避けられないほどに。その中で、時には強烈な個性を持って(顔、運動神経、etc.)、それをアイデンティティにできる人もいる。それが負の評価を下されるものだった場合、強制的にアイデンティティとして身に着けさせられ、苦労することになる。ところが、当然ほとんどの人はちょっとカッコいいとかカッコ悪いとかという程度で、軒並み「それなり」である。そうなると、何か他者との差別化を図りたいものだが、「それなり」の一般人ができることは、何かに打ち込むとか、カッコいい服を着るとか、整形するとか、ベクトルが限られている。打ち込む競技や仕事は、ほとんど今価値を認められて存在しているものだし、カッコいい服は今流行りの、あるいはブランドの服だし、整形して行きつくのはたいてい系統の似た「カッコいい」「キレイ」と言われるような顔である。オリジナルを目指して行う行為が、ほぼ全て、他人の評価により価値を与えられているために、没個性的になる。じゃあダサいのも一種個性なんだからそこを目指してもいいじゃないかとも思えるが、そうすると今度は評価が得られず価値が見いだせない場合が多いわけだ。およそ自分のプロフィールとして認識されるようなものに、評価されるオリジナリティを作り上げるには、他者評価に依存するか、あるいは自分がインフルエンサーになるしかない。そのインフルエンサーだって、先行する評価を参考にして新しいものを作る(アカデミックな世界でも、先行研究を参考にしつつ、新たな議論を巻き起こす)ので、いかなる生き方をしても他者評価の存在なしには立ち行かない。なんだかそれが歯がゆいのである。

じゃあ性格とかはオリジナリティ見出せますよね、となるかもしれないが、そう単純なものでもない。経験が性格に与える影響というのは少なからずあって、それは他者とのかかわりの中で得るものが多い。自分が「優しい」かを決めるのは、必ずしも自分自身ではなく、むしろ他者とのかかわりの中なのではないか。そうした事情から性格を見出すのはあくまで他者が最初であり、自分のことを知るのはそうした他者との交流におけるいわば逆輸入によってである。そしてその他者の判断は、結局世間一般の基準にある程度沿ったものになっている。「溺れている猫を助けることは/優しい(これが一般的基準)」→「Aくんは/溺れている猫を助けた(他者の判断の根拠)」→「Aくんは/優しい(他者の判断)」という具合である。そしてまた、人は外面においては、より生きやすい性格になるよう調整するもので、その際に参考にするのもまた一般的な基準なのである。外見などに比べれば、その後自分の中で他者評を再評価して修正することが容易だけれど(「意地が悪い」とよく言われるけれど、実際は周囲の人間はちょっとバカなので自分は「論理的」なのである、とか?これだとほんとにただのウザい奴になっていて、いい例ではなさそう。規範を立てるときには常にいい例を想起したいものだ。)、まあ他者の価値判断に少なからず依存すると言っていいだろう。

おそらく、恋人や親友に褒めてもらうとかいうことも、自分の性格を認めるのにうってつけの事由であろう。信頼している人が味方なのは、普通の他人がそうであるのに比べてはるかに自己のオリジナリティに価値を与えてくれる。信頼は自分の内側からやってくるところ、そういう人の言動はより自分にとって信じやすいものだからだろうか。外見でも性格でも、他人・とりわけ大切にしている人物に褒められているときは疑問なく自信を持てる。書いていて、空しくなってくる。どうすれば自分は自力で自分の価値を、素晴らしさを、認めることができるのだろう?

こうして空しくなってきたとき、このままでは収拾がつかないので、逃げ道として、「各要素は没個性的であることを免れないけれど、その組み合わせはまさにオリジナルじゃないか」ということにしている。でも、海外産の食材ばっかりでできた和食のことを思うと、いまいち納得できない。食料自給率が0%だなんて、あまりにも空しいだろう。もう一歩進めないと、どうにも立ち行かない。

となると、解決の方法としては、「自分は確かに他者の価値判断の寄せ集めかもしれないが、それでも誰か/社会にとって替えの利かない存在であることを評価させ、納得する」ということになるのではないか。それを初めに判断するのもまた、多くは他者なのであるが、他者評価によって自分を見出さざるを得ないという状況を、ポジティブに利用しようということだ。ちょっとカッコいいくらいでは、ちょっと頭いいくらいでは(東大生は1学年3000人もいる)、いくらでも代わりがいる。没個性の個性的な組み合わせである自分が、いかなる場所で、どのように貢献するのか、そこにオリジナリティを見出すことができれば、没個性の苦しみから逃れることができる。そのためにはきっと、自分が「やりたいこと」を見つける必要があるのだろう。その「やりたいこと」で、自己満足に終わらず、社会に貢献していくことが必要だろう。そしてそれこそが、東大に来た所以であり、目下の最大の悩みなのである。幸福への道程は、はるかに長いようだ。ちまちま自分の欲望を、没個性的な風に満たしていくことのみに拘泥しても、結局真に幸せにはなれないと思う。少なくとも自分にとってはそうらしい。

最後から2番目のことまでは時々思っていたことだが、これを整理したことで、最後の段落を見出すことができて、うまくいい方向につながった(追記:高山先生が話してらっしゃったらしいことと共通する部分があるので、そこも参考に加筆した)。根本的な問題の認識(正確には、二つだと思っていた問題が一つだったことに)に辿り着くことができた。こういう過程を大事にできたらいいと思う。そして、次に考えるべきは、いかにしてそれに向き合うかということだ。ただ、まあそろそろ次はクイズのことを書いてみようかなと思っている。ではまた。

何も言ってないに等しい記事(3000字)

こないだ一人で映画『ボヘミアン・ラプソディ』を観てきた。控えめに言って最高って感じだった。一人でどこかへ行くことは割と好きな方だと思う。一人でフィンランドに行ったのも、いい思い出である。仲良きことは美しき哉、確かに友達との時間はテンションは上がるけれど、いくらか余計なものもついてくる。それゆえ一人の方が幾分楽だと思うこともよくある。もっとも、友人との付き合い無しにずっと過ごしていくことは自分にはできないから、その余計なものについてちゃんと向き合わないといけなくなる。

これまでの人生流れに任せ過ごしてきた中で、自分がどれくらい思想的にこだわり持ってる人間なのかはあまりわからない。ただ、一つだけ明確に意識してきたことは、「敵を作らない」ということである。

「敵を作らないがマイテーゼです」なんてここで自分で言ってしまってはずいぶんと敵も増えそうなものだがそれは置いておいて、外面の良さはまあそこそこだと自分では思っている。Tinderでもわりとそこ褒められるし(まるで恋愛に至る気配がない原因でもあるのかもしれないけど)。外面だけは良いよね、なんて言ったらたいてい蔑みを込めた言葉だけれど、どうせ内面がぐちゃぐちゃなら外面だけでも整ってる方が幾分マシというものだろう。性格悪いやつにどう思われようがどうでもよくない?って思う人はけっこういると思うが、自分はそうではなく、どんなに僕が嫌いなタイプの奴でも、自分のことを嫌うことはないように振舞いたい。誰とでも仲良くできる自分ってすごくステキに見えるから。あんまり仲良くなりたくないやつには、掴みどころないなあと思わせておくくらいでよくて、そうすれば勝手に向こうも「こいつとは適当に付き合っておけばいいか」となってお互い得なのである(これは、こっちから色々開示したうえで掴みどころないなあと思われるのとは別)。そして逆に、すごくいいやつそうだからすごく仲良くしようと思えば、こちらからどんどん何でも話して、信頼してるんだぞ感を出す。犬が飼い主にお腹を向けるようなものである。しかしここで蹴っ飛ばされたりしたらダメージがでかいので、相手は慎重に選ばないといけない。向こうも一緒に仰向けに転がってくれるという確信がなければいけない。

今回はずいぶんとメンヘラチックな記事になっている。当然と言えば当然で、本当に中身もキレイなやつはいちいちこんなくだらないことは考えないわけで、このメンヘラ目線は外面整えてるタイプにしかできないことなのである。いちいち「自分の本心はなんだろう?」とか考えているうち、「なんで自分は親切をしてるんだろう?」とか考えるようになって、そして自分が偽善に塗れているのかそうでないのか、だからといって自分の性根は悪いのかそうでないのか、余計なことが頭を渦巻くようになった。まさに、問題の存在に気づいてしまったがゆえの不幸というやつだ。だからやっぱり時々、もっと不自由な方がよかったかもしれない、世界が狭かった方がよかったかもしれないと思ってしまう。ひたすら継母と姉たちの手伝いをするシンデレラは、自分が親切だ偽善だとかそんな観点はなくって、ただ命令されたから手伝いをしてるだけだろう。シンデレラの話とは違うが、誰かの言葉を全部建前じゃなく本音だと思って生きられるならずいぶんと楽だろうと思う。また、適度に素の自分を見せたり隠したりしてうまく生きてる人を見るたび、すごいなあと思うけれど、他の人もみんなこんな感じなのかと、自分も結局誰かの外面しか見せてもらってないのかと思う。

さっきから、散々外面内面と言葉を使ってきたけれど、どこまでが外にあたるのか、それもまたわからない部分だ。誰だって、相手に合わせて、何をどこまで語るかを決めるものである(自分が割とそういう風にしているだけしれないけれど)。振舞いの違いの態様と程度に応じて内外を分けるとかいうことになるかもしれないが、あまりにも複雑でやってられないだろう。結局のところ、人の振舞いが、そのままの内面の一番外の部分か、内面を守る殻としての外面なのか、結論付ける術はないような気がする。永遠に納得できないなら、考えないのが一番いい。

とはいえ、自分について何でも話せて、相手も相手自身のことを自分に何でも明かせるような関係を理想だとすれば、やっぱり相手の内面というべきものについて探ろうとしないと無理なのである。他者からの信頼を求める中で、まず自分から相手を信頼して、見返りをもらおうという気持ちの表れなのだろうか。ところが本音と呼ばれるようなものは、ダダ洩れになっては、人間関係は成り立たない。『サトラレ』なんてまだ生易しいかもしれないってくらい、ぐちゃぐちゃになるに違いない。結局建前を張り替えながら生きていく今のスタイルが一番マシなんだと思う。形だけでも他者を尊重できるから、人類はここまで社会性を持って生きてこられたんだろう。別に全部嘘だって、結果として誰も傷つかないように振舞えるのならその方がいいし、責める謂れもない。本音と正論を振り回して他人を傷つけて生きるよりは遥かにまともな生き方だ。

人はとかく陰口を叩く生き物だと自分は思っているが、これも本音を求める習性と関わるのかもしれない。人の嫌なところは、とりわけ一見いい感じの人のものほど、目立って感じられるものである。ただ、そこで直接誰かに悪口を言うことは、素直な点は評価できようが、共同体をぶち壊してしまうという巨大な損失をもたらすため、簡単にできることではない。つまり、外面には表れにくい、どちらかというと本音に近いものだろう。そこで、その人がいない(その人の影響を受けない)場所で、陰口が飛び交う。陰口を言うことは、なんだかお互いの本音を素直に出しているように思えて、仲間意識を生むものである。よっぽどいいやつに対してでない限り、誰かの性格を褒めることで連帯意識が生まれるなんてことはない。スキルを褒めることはよくあるだろうけど。それに、仲良くなった人にはとかく愚痴を言いがちである気がする。この映画が面白かったとかいうことは、あまり仲良くない人にも臆面なく言える(もちろん仲良い人に話す方が楽しいのだけど)。こうした傾向に寂しさを感じつつ、自分もそうして生きてきたことを思い返し、複雑な気分になる。負の感情の共有から信頼が生まれるのは皮肉なことだ。自分は結局何を友達に期待しているのだろうかと疑問に思う。

ここまで散々言葉をこね回してきたけれど、別に実際友達と話している時こんなことは頭から吹き飛んでいる。適当に話し、楽しんで、終わり。一人の時間がやってきたときに、こうしたことが思い出されてくるのである。こんなことは種々の行動から適切な後付けの理由を見出しているだけに過ぎないだろう。それでも少しでも他人に心地よく会話してもらうために、つまり自分が傷つけられないために、体系づけてやりたいと思ってしまう。そういう自分の弱さが、まさに偽善という感じがして、やはりあまり好きではない。ただ、直観を言葉にするのは、苦しいけれど嫌いではなく、続けてしまう。こうして、普通は仲良い人にもあまり言わないようなことを共有することで、他人を繋ぎ留めたいのかもしれない。

今回と共通する部分があるので、次は自己肯定感の話題にするつもりだ。

ダイレクトマーケティングです

ハロウィンと憲法の記事はちょっとまだ荷が重い、というか先生に聞きそびれたのでゴミを生産しそうなのでやめときました。あいとーです。

Twitterでも言ったんですが、『圕(としょかん)の大魔術師』という漫画の第2巻が先日発売されたのでさっそく買って読みました。やっぱアツいなあと思いながら、登場人物の生き方というのが自分が考えていることと似てる部分があるなあなどと考えていました。ハロウィンの記事と、一個前の記事と似てしまうと思いますがご了承ください。

往々にして、「知らないもの」や「違うもの」は怖いものです。全然知らない言葉で話している人は敬遠したくなるし、明らかに日本人じゃない人が騒いでいるところには少しビビッてしまいます。そういう時、一番楽に自分を守る手段は、その存在を認めず、拒絶することです。自分にとっての「普通」がみんなにとっても普通であるという立場を揺るがされないように。ただ、きっとそれは最良のやり方ではないはずです。知らないのなら、知ろうとすればいいはずだからです。本当に知ることができるか、それは別次元の話で、自分の価値観に閉じこもらない姿勢をまずとっていくことが必要なことだと思います。これは別に相対主義を礼賛しているわけではありません。自分の中で、「正しい」と思えることは、ちゃんと整理すべきだと思っています。大事なのは、色々なことを知って、その「正しい」を更新していく姿勢を持つことだということです。自分の中で「正しい」にはあたらないことを、「間違っている」とすぐ決めつけるのではなく、相手にとっての『正しい』を認識し、どんな背景が違いを生んでいるのか考えて、自分の中に消化していくことです。

さっきの例のように、明白に違いが「ある」ということは、いいことでもあります。少なくとも、知らないということは知っています。違いというものに限らず、あらゆる問題は、それが「ある」ことを知ってから向き合うことになります。少し迂遠ですが、司法試験の問題のことに置き換えれば、とある論点が「ある」ということを知っていなければ、問題の事案からそれを見出す段階には至りません。何を当たり前のことを、と思われるでしょうが、そう思われた人はまず自分がどれだけのことを知っているのだろう、と問い直してみるべきだろうと思います(もちろん、自戒でもあります)。経験や環境から知っていることに対する評価とその理由の集積が自分だとしたら(注1)、いったい自分はどれだけの広さを持てているのだろうか、と考えてみるべきだと思います。経験や環境はわりと運に左右されがちで、偏ってしまいがちな中、こと識字率の高い日本においては、本は自分を広げるための素晴らしい道具であるはずです。勉強をするのもそういうことなんだと思います。理系学問の応用の仕方は残念ながら僕にはわからないですが… そうやって世の中にあまたの問題が「ある」ということをまず知るのがキッカケになって成長していけるはずです。

注1:「優しい性格」だということは、さまざまな場合に自分がどう行動するか、どう行動すると思われているか、ということを総合的に考慮したものだと言えるはずです。そして、その性格とかの集積が自分というべきものにあたるのではないか、ということです。

「ある」とわかった問題は、次は「向き合う/向き合わない」という段階に辿り着きます。自分が全然何も知らない、という問題を知って、それに向き合って戦っていくか、あるいは拒絶するか。最初に、違いの問題について書いていたのはこの部分の話なわけです。「向き合う」と定めたうえで、最後に「理解できる/できない」の段階がやってきます。これも当たり前ながら大事なことです。「向き合わない」ことは「理解できない」ことではないということです。問題というとちょっと違う感じもしますが、「これ以上努力できない」というのは、自分の限界に向き合ってないだけという場合が大半だと思います。今の自分もきっとそうです。今までなんとなく「向き合う」の過程をすっ飛ばして「できる/できない」の枠組みだけを見てきたために、見逃していることがいっぱいあるんだろうなあと思います。なんでもかんでも向き合ってたらキリがないのもまた確かではありますが、規範として「ある」「向き合う」「できる」の3段階の審査を持っておくのは必要だなあと思います。

こういう風に何かを整理することも、知っていることを増やすための営みです。自分を知り、広げるための営みです。なんとなく最近の論の立て方は、勉強している法律のやり方に近い部分があって、勉強が自分を広げる手段だという先ほどの自説にピッタリだなあと思います。

自分が常に「正しく」いられる、あるいは「正しい」とかいう枠組みがどうでもいい(ないに等しい)くらい狭い世界にいる方が、概して幸せだなあと時々考えます。こんな風にいちいち悩んでしまうのも、自分にこうした問題が付きまとっていることを知るだけの基盤が作られてしまったためです。東京オリンピックのボランティアだって、妙に世間ずれしていなければ、きっと喜び勇んで登録してあくせく働いたはずで、それは実はけっこう幸せだと思います(一方薄給だとかそんな話を知ってしまった自分は、ずっとボランティア応募するか悩んでいるわけです)。ただ、もはやたくさんのことを知るようになった自分の人生は、自分を広げていく先に見えるはずの幸せを追っていく方向にしか進みません(クスリをキメたら別かもしれませんが)。だからこそ、これからも色々な問題があることに向き合って、少しでも理解できることを増やしていく姿勢を持っていきたいと思います。

ここまで、というかこれまでの記事は、大体綺麗事しか書いていません。何をいい子になってんだと、もはや腹を立てる人もいるかもしれません。実際、普段過ごしていても、こんな机上の空論を軽く吹き飛ばしてしまうような、自分の心の動きに出会うことばかりです。ただ、それでも、意味はないのかもしれないけれど、自分にこんな問題があって、それに向き合わないといけないということを、頭の片隅の隅にでも置いておければ、少しはいい人生になるに違いないという希望を抱いて、こうしてブログに綺麗事ばっかり綴っている次第です。

そろそろ恋愛のことを、また書いていきたいという思いです。とはいえ恋愛のことはあまりにも空論すぎて無風の机の上に立てることも難しいので、なかなか書きにくいところです。とにかく、この記事で一番大事なのは、こんだけ考えさせてくる『圕の大魔術師』、マジで面白いのでみんな読むべきだよってことです。以上、ダイレクトマーケティングでした。また次回。

師曰く、Truthとtruthの違いは…

数日前、ALESS中?にガラスを割った破天荒エピソードが話題になりました。僕も超常的パワーを発揮して触れただけでガラスを破壊した経験がありますので(灘、中1 覚えてる人は覚えてるだろう)、大変身につまされる思いであります。でもまあガラス割ったくらいで済んで良かったですよね。キャンプラ4階から飛び降りるとかじゃなくって。ストレスはやはりどっかで発散しないと頭がバグってきます。たいていの人はお外では理性くんが働いています。「発進した電車に触れたらどうなるんだろう?」とか「静かな図書館で叫んだらどうなるんだろう?」とか思っても踏みとどまることができます。ところがストレスが爆発すると止められません、いわば無意識の勝利という感じなんでしょうか?とにかく、生活にはストレスがつきもの(ストレスフリーなふりをするのは逆に危険だそうで、やめときましょう。助けを求めることをためらってはダメなようです。)なので、どっかで発散しないとだめだということです。僕は家のシャワーで大声で歌うのがストレス逓減法になってます。ダメなときに、友達に頼る方法と、自分で放出する方法どちらもあるのが理想的ですね。

というわけで今日はALESAをやってましたと。絶対に宿題は前日にならんとできないし、今日は遅刻するしとろくでもないですが、教授の言うことはしっかりしてらっしゃるなあと思います(まあ逆評定鬼だし宿題多いけど)。そこで話題にされたのが「Truthとtruthはどう違うの?academicな場ではどちらを目指すの?」という問いでした(注:調べた感じだと、彼女のオリジナルな説明であり、academic wrightingの目標をわかりやすく定めるための方便のようです)。曰く、「Truthは宗教的哲学的な意味合いの、絶対的な真理のこと。truthは文脈上、条件の下での正しいもので、私たちの目標。」とのこと。人というのはとかく絶対的な答えを求めがちなので、少しおさまりが悪いなあなんて思いながら聞いていました。

実際、絶対的な価値観は強いものでしょう。例えば、何のリサーチもしていないのでキリスト教徒の皆様には申し訳ないところですが、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出す」という行為は、キリスト教に縁もない人からすれば痛いし損なだけに思えます。しかし熱心な信者とすれば「痛いけれど、それでも自分は正義だから」と強くいられることでしょう。宗教に限らずとも、「~~だけど自分は正義だから」という気持ちさえあれば、大体のことはできます(死ぬことだって厭わない人もいるでしょう、一向宗みたいに)。ところがそれはあまりにも諸刃の剣的要素が大きいですよね。高潔な思想も肉体の死には耐えられません、結局その場しのぎスタンスの正義が生き残ることになります。かといって、社会生活を営む上であんまり自分に都合よくって考えも難しい。こういうことを考え出すと結局のところバランス取ろうね、という話になるわけです。クソつまらないけど、年間3000人もいる東大生の中流階級が考えられることなど高が知れてるということでご容赦ください。

結局、バランスのとり方にこそ、オリジナルな自分が現れると思います。考える自分というものを想定したとき、自分の存在は無数の評価軸の集合体だ、という言い方が今のところ個人的にしっくりきています。経験とか環境とか根っこの部分に裏打ちされた、ある問題に対する一つの答えを寄せ集めたのが自分であるということです(たぶん、行動と好き嫌いという風にフィールドがけっこう分かれているのだと思いますが、そこまで詳しく考察出来てはいません)。軸の多さは人間としての広さを表すもので、だからこそたくさんのことを知らなければならないと思います(もちろん、新たな軸を作るには、今ある軸を引っ張り出して比べてみることになりますが)。そして、軸が増えるほど根っこに伸びる手がかりが増えていくともいえ、それゆえにますます新たなことを知ることは大事だなあと思います。なんだかんだいっても教養が大事なんだなあと。

さて、「自分が本当にしたいこと」を考えようなんてよく言われます。これがもう全然わからないので漫然と過ごしがちなんですが、おそらくこれはtruthの方に入るということはわかります。これまでの経験等を条件として、そこで考え得る正しい解として現れる、それが「自分が本当にしたいこと」なのではないでしょうか。今も解が見つかっていないとすれば?それはきっと条件が、つまり経験が足りていないんだろうなあと思います。教養も、交友も、物語も、恋愛も、何もかもが足りないわけです。まあ19年ぽっち生きただけで(ここまで来れたのもきっと奇跡には違いないけれど)わかるのなら苦労しないよ、ってとこでしょう。エリクソンいわく、成年初期の人間を発達させるものは愛の能力ということで、結局そこに帰着するということでもあります。どの記事も近い着地点になるのは、やはりそれが今のtruthということなんでしょうね。

アルファベットが多く、今回はポエマー感が満載でした。しかし生きとし生けるものみなポエマーです。ただ口に出すか出さないか、文字に起こすか起こさないか、それだけの違いではないでしょうか。で、僕は文字に起こすタイプのポエマーだ、ということです。「師曰く…」ってのも今見たらチャイニーズポエムのオマージュなわけです。次に文字起こしするポエムを考えてみましたが、たまにはひよっこなりに法について考えようということで、ハロウィン規制と自由権とか、審査の型にはめつつ書いてみたいなあと思います。ではまた。

陰キャ・イン・ザ・ハロウィン

こんばんは。何を書くべきかに迷ってました、あいとーです。

30日に渋谷を通りがかったとき、スクランブル交差点でおばあちゃんが「ハロウィンは悪魔を呼ぶ祭りです 今すぐやめてください😢」ってずっと言ってました。(でもこれはむしろ逆で、悪魔を追い払う(たぶんバンシーとか)ためにやってたケルトの祭りが元なわけですよね。うるさい若者を追い出そうとするその意気やよしというところですが、嘘は良くないですね。)そのおばあちゃんが本気で悪魔のことを信じているかはともかく、彼女にとってきっと、群がる若者たちは全く受け入れがたい存在なのでしょう。同様に、ハロウィンとは縁のない人にとってもなんだかわけのわからないことを言うそのおばあちゃんは、若者たちに拒絶されていました。

他人の気持ちを理解するというお題目がありますが、あくまで理想に過ぎません。同じ遺伝子で同じ経験を積んでない限り、理解というフェーズには至りません。そこで自分たちができるのは、受容と共感です。他人のあり方を受容して、そこから生まれる気持ちを推し量ることです。マイノリティに対するとき、このことは大事になってきます。例えば同性愛者の人の話を聞くのも多分こんな感じです。異性愛者だという壁(正確には、違う人間であるという壁を、恋愛対象の違いという成分が分厚くしているという感じでしょうか)を乗り越えることはできないけれど、壁に張り付いて向こう側の音に耳を傾けることはできます。そこで壁から遠ざかってしまうこと、それが拒絶です。自分の世界観が正しい世界で生きていけるのはなんと気持ち良いことでしょう。反面、壁の向こうに誰もいないと気付いた人はけっこう傷つきます。とりわけ自分がマイノリティであればそうでしょう。社会の中で生きていくのに、一人で戦えるはずもないのです。そうして、誰かに気持ちを届かせようという意志が折れてしまえば、もう何も生まれることはありません。壁が分厚いほど、向こうの音を聞こうとするのは骨が折れることで、そこから逃げ出したくなります。しかも他者の気持ちに思いを馳せようが馳せまいが、他者の行動は日々勝手に頭の中に入ってきて、理解され、心証が形成されます。なんだか絶望的な状況ですが、少しでも聞き取れる部分を探すという姿勢が大事になります。何を当たり前のことを、と思われるかもしれませんが、多くの人は行動の重さに気づくこともなく他人を拒絶してしまっていると思います。自分が拒絶されるという経験に欠けていて、共感してもらえるのが(壁の向こうにたくさん人がいるのが)当たり前だと思っているからです。共感しようとして、最終的に何もわからないということは別にどうしようもないことです。受容したとしないとでは大きな違いがあります。たくさんの共感を頼りに生きているからこそ、いろいろな人に共感でアシストすることができるような、そんな人間でありたいなあと思います。

で、本題の渋谷ハロウィンに関してそんなややこしいことが必要でしょうか。んなわけないですね。渋ハロに参加するのは誰でもできるし、ハロウィンに参加するだけでむちゃくちゃ壁が薄くなるし、あの大人数の不思議な一体感は他人だということを彼方に追いやってしまえるものなわけです。確かにこのイベントで、時に看過しがたい迷惑をかけているということは間違いありませんが、渋ハロに自分が参加することが他人に迷惑をかけることには決してつながりませんよね。

かくして非常に反省しているわけです。仮の装いを、ハロウィンを純粋に楽しもうという気持ちが欠片もなかった自分に対して。楽しそうに騒ぐ人々の気持ちを拒絶していた自分に対して。「どうだ、俺は学問に相応しい客観性を持って一歩引いてこの喧騒を分析するのだ!」という傲慢さ、なんと主観的なことか!とある先輩の言葉を借りれば「俯瞰オタク」という愚物になっていたのです。斜に構えてものを見たとき、大体見えているのは自分の偏見だけです。ゼミ後に「社会科見学」とか言って渋谷に行く浅ましさを感じて、一通り歩いた後人混みをかき分けて帰っていった時、空しい気持ちに溢れていました。互いに無言の拒絶を受け、何も生まれることはなく、一人歩く自分はよりしんどさを味わっていたわけです。

社会科見学だと思っていくとまあなんと肩身の狭いことか。拒絶云々以前に、別人でありたいという願望を滲ませている人々を、現実の目線でじろじろ見るのは失礼というものです。騒いでるのは田舎者ばっかみたいな話が嘘かホントかとか、アンケートとったろと思ってたのですが、どう考えてもそういう雰囲気ではありませんでした。確かにモラルとか知性とか、自分が寄る辺にしようとしているものとは縁遠かったけれど、楽しそうにしている人で溢れているのは羨ましいと思いました。そこに理屈があったとしても、理解する必要はないし、ただ流れに任せて楽しんでやればいいというものです。

ただ、無粋を承知であの場の何たるかについて考えてみるのも面白くはあります。あの晩渋谷にいた人々は、ルックスがよかろうが悪かろうが、大人しそうだろうが派手そうだろうが、誰もがいつもと違う自分であることを楽しんでいたように見えました。普段没個性に埋められている人たちが、自由に自分を表現して、それが許されるという現代に稀有な空間が、日本式のハロウィンなのかなあという思いです。毎日あんな格好してたら「変態」「変人」として拒絶を食らうところ、ハロウィンでは「仮装」という名目があるから受け入れられるわけです。高度な社会を形成している以上、思いのままに振舞えないことがたくさんある現代人にとって、こういう「ハレ」の日は必要だろうなあと思います。ニューヨークでは10月31日に公式にハロウィンパーティーをやって、プロのアーティストなんかも参加しているそうですが、日本でもいっそ公式のイベントにしてしまえばいいのになあと思います。

ところで、眼鏡を外して渋谷を歩いてみたとき、なんだかすごく力が湧いてきました。イベントの趣旨を没却しようとしていた自分を眺める他人の目が、一切気にならなくなったからだと思います。無思考で拒絶するのは楽なことだ、と長い前置きで書きましたが、視力を失って周りの目を拒絶し力を得た自分の姿は、そのことをよく表しているような気がしました。見えないことは、本当は大きな弱点になっているのに、自分の世界を守るという点においてだけは、とんでもなく役に立ってしまうことですね。その日のゼミで、世界の景気後退傾向についての記事が宿題となっており、自然と日本の話題に向かいました。そこで先生が「グローバル化が進んでいるのに日本の大企業はそれに合わせようとしていない(って奥さんが言ってた)」という話をされていましたが、それも少し共通するところがあるように思います。ハロウィンの日の教訓は、どうやら色々なところにつながっているようです。

次の記事にすりゃいいかと思ったことは序盤で書いてしまったので、次回の予定は未定って感じです。ただ、来年渋谷で楽しんでみようということは決まっています。ゴミ拾いまで参加して、今度こそちゃんとした記事にできればなというところです。