*:.。.:*゜ぁいとーの日記 ゜*:.。.:*

ある時点での自分の記録たちとその他いろいろ

没個性に生きる

(明日から3日間が駒場祭ということで、正責任者としてなんとかがんばっていきたいという所存です。暇な人はお越しください。)

普段から、ポジティブな振舞いをするように心がけている。善い振舞いが、やがて善い想いを、立場を、自分を作っていくと思うから。かといって、今自己肯定感がMAXで、そこからポジティブがあふれ出しているとかではない。なんとなく、自分の価値はどこにあるんだと思う中で、それを見出すための手段としてポジティブな振舞いがある。

自己肯定感を得るために人ができることはいくつかある。その一つが、自分を特別な存在だと思うことである。「こんなことをしてる自分っておもしろいでしょ」とか「こんなに服に気をつかってカッコいいでしょ」とか、「もともと特別なオンリーワン」とかそういう類のやつである。とはいえ、ほとんどの人にとって、そのような価値は他者に評価されて初めて意味を持つ。バズったツイートの型に合わせてツイートして、自分のセンスで選んだ流行りの服を着て、人はオリジナルらしきものを身に纏って生きていく。皮肉な言い方をしているけれど、別にそういうのが悪いと思ってのことではなく、自己の内側から価値を見出せない人間という生き物のあり方に虚しさを感じているということだ。こういったことは、消費社会に対する分析の中でよく言われるらしい。人々は、オリジナリティを見出すために、流行とか人気ブランドとかを身につけて過ごしていく羽目になる。

自分だけが「価値がある」という判断をしている状態は、その時点では、実際どれだけそれが素晴らしいものだろうと単なる自己満足に過ぎず、多くの場合他者とのかかわりの中で幻想として打ち砕かれることになる。ここで幻想でもいいじゃないかと個性を貫ける人もいるだろう、ただ自分は全くそうではないのでこうして検討している。ついでに、ごく個人的な趣味も、こういう話にはあてはまらないだろう。さて、現代は特に、常に大量の情報が流れ込むなかで、大量の他者による価値判断もまた自分の中に入り込み、根拠となって自分の価値判断が形成される。以前に増してわかりやすくなった「流行り廃り」が、社会に生きる自分たちを規律する。SNSの登場は、価値の発信方法の確立であり、同じような価値判断をする人々が集いやすい場になっている。ほとんどの人は、常に誰かの価値判断を頼りにして自己を見出している。顧みられないものに価値を見出すことは簡単ではない。発表者が価値あると思って送り出した意見も、くだらないと思われたら、途端にその良さを見失ってしまう。仮に本当に素晴らしいものだったとしてもそうなのだ。ゴッホの絵は今でこそ称賛されるが、生前ろくすっぽ売れなかった時は、顧みられず、一般人が価値を見出すことも難しかっただろう(これに関してはゴッホの活動期間の短さなども本来考慮されるべきだが、所詮たとえ話なので今は置いておく)。

社会には、とても多くの人が住んでいる。たとえ共産主義に身を捧げても、他人との比較は避けられないほどに。その中で、時には強烈な個性を持って(顔、運動神経、etc.)、それをアイデンティティにできる人もいる。それが負の評価を下されるものだった場合、強制的にアイデンティティとして身に着けさせられ、苦労することになる。ところが、当然ほとんどの人はちょっとカッコいいとかカッコ悪いとかという程度で、軒並み「それなり」である。そうなると、何か他者との差別化を図りたいものだが、「それなり」の一般人ができることは、何かに打ち込むとか、カッコいい服を着るとか、整形するとか、ベクトルが限られている。打ち込む競技や仕事は、ほとんど今価値を認められて存在しているものだし、カッコいい服は今流行りの、あるいはブランドの服だし、整形して行きつくのはたいてい系統の似た「カッコいい」「キレイ」と言われるような顔である。オリジナルを目指して行う行為が、ほぼ全て、他人の評価により価値を与えられているために、没個性的になる。じゃあダサいのも一種個性なんだからそこを目指してもいいじゃないかとも思えるが、そうすると今度は評価が得られず価値が見いだせない場合が多いわけだ。およそ自分のプロフィールとして認識されるようなものに、評価されるオリジナリティを作り上げるには、他者評価に依存するか、あるいは自分がインフルエンサーになるしかない。そのインフルエンサーだって、先行する評価を参考にして新しいものを作る(アカデミックな世界でも、先行研究を参考にしつつ、新たな議論を巻き起こす)ので、いかなる生き方をしても他者評価の存在なしには立ち行かない。なんだかそれが歯がゆいのである。

じゃあ性格とかはオリジナリティ見出せますよね、となるかもしれないが、そう単純なものでもない。経験が性格に与える影響というのは少なからずあって、それは他者とのかかわりの中で得るものが多い。自分が「優しい」かを決めるのは、必ずしも自分自身ではなく、むしろ他者とのかかわりの中なのではないか。そうした事情から性格を見出すのはあくまで他者が最初であり、自分のことを知るのはそうした他者との交流におけるいわば逆輸入によってである。そしてその他者の判断は、結局世間一般の基準にある程度沿ったものになっている。「溺れている猫を助けることは/優しい(これが一般的基準)」→「Aくんは/溺れている猫を助けた(他者の判断の根拠)」→「Aくんは/優しい(他者の判断)」という具合である。そしてまた、人は外面においては、より生きやすい性格になるよう調整するもので、その際に参考にするのもまた一般的な基準なのである。外見などに比べれば、その後自分の中で他者評を再評価して修正することが容易だけれど(「意地が悪い」とよく言われるけれど、実際は周囲の人間はちょっとバカなので自分は「論理的」なのである、とか?これだとほんとにただのウザい奴になっていて、いい例ではなさそう。規範を立てるときには常にいい例を想起したいものだ。)、まあ他者の価値判断に少なからず依存すると言っていいだろう。

おそらく、恋人や親友に褒めてもらうとかいうことも、自分の性格を認めるのにうってつけの事由であろう。信頼している人が味方なのは、普通の他人がそうであるのに比べてはるかに自己のオリジナリティに価値を与えてくれる。信頼は自分の内側からやってくるところ、そういう人の言動はより自分にとって信じやすいものだからだろうか。外見でも性格でも、他人・とりわけ大切にしている人物に褒められているときは疑問なく自信を持てる。書いていて、空しくなってくる。どうすれば自分は自力で自分の価値を、素晴らしさを、認めることができるのだろう?

こうして空しくなってきたとき、このままでは収拾がつかないので、逃げ道として、「各要素は没個性的であることを免れないけれど、その組み合わせはまさにオリジナルじゃないか」ということにしている。でも、海外産の食材ばっかりでできた和食のことを思うと、いまいち納得できない。食料自給率が0%だなんて、あまりにも空しいだろう。もう一歩進めないと、どうにも立ち行かない。

となると、解決の方法としては、「自分は確かに他者の価値判断の寄せ集めかもしれないが、それでも誰か/社会にとって替えの利かない存在であることを評価させ、納得する」ということになるのではないか。それを初めに判断するのもまた、多くは他者なのであるが、他者評価によって自分を見出さざるを得ないという状況を、ポジティブに利用しようということだ。ちょっとカッコいいくらいでは、ちょっと頭いいくらいでは(東大生は1学年3000人もいる)、いくらでも代わりがいる。没個性の個性的な組み合わせである自分が、いかなる場所で、どのように貢献するのか、そこにオリジナリティを見出すことができれば、没個性の苦しみから逃れることができる。そのためにはきっと、自分が「やりたいこと」を見つける必要があるのだろう。その「やりたいこと」で、自己満足に終わらず、社会に貢献していくことが必要だろう。そしてそれこそが、東大に来た所以であり、目下の最大の悩みなのである。幸福への道程は、はるかに長いようだ。ちまちま自分の欲望を、没個性的な風に満たしていくことのみに拘泥しても、結局真に幸せにはなれないと思う。少なくとも自分にとってはそうらしい。

最後から2番目のことまでは時々思っていたことだが、これを整理したことで、最後の段落を見出すことができて、うまくいい方向につながった(追記:高山先生が話してらっしゃったらしいことと共通する部分があるので、そこも参考に加筆した)。根本的な問題の認識(正確には、二つだと思っていた問題が一つだったことに)に辿り着くことができた。こういう過程を大事にできたらいいと思う。そして、次に考えるべきは、いかにしてそれに向き合うかということだ。ただ、まあそろそろ次はクイズのことを書いてみようかなと思っている。ではまた。