*:.。.:*゜ぁいとーの日記 ゜*:.。.:*

ある時点での自分の記録たちとその他いろいろ

サンキューTinder フォーエバーTinder

またしてもお久しぶりのあいとーです。まあ花粉がよく飛ぶ季節になりまして、薬も相まって春眠暁を覚えずてな感じのライフサイクルでやってますけども、今回は5か月ほどお世話になったTinderの帰結というものをしっかりと記していきたいと思います。

端的に言えばTinderを通して異性の恋人ができたということになります。いろいろありました(Ex.

konnichihaitou.hatenablog.com)がなんとか丸く収まったというところです。彼女出来たという話をするたびに「本当にTinderで彼女作るやついたんだ」的な反応をもらうのは暇な女子大生のおかげなんでしょうかね。このことについて、とある先輩は「食洗器に食器突っ込んで綺麗になって出てきて驚いてるのと同じことでしょ笑」とおっしゃってましたがまさにそうだと僕は思います。

さて、 恋愛そのものの話題に入る前に、Tinderの運用法その他を遺しておこうと思います。といってもTinderでヤリまくりみたいな内容のものは、すでに巷に溢れているでしょうし、だいいち僕には書けないので、彼女あるいは長続きする友人を見つけるという趣旨で書いていきます(ついでにもう一つ言うと、性欲ど真ん中みたいなメッセージでも1割は返ってくるとか誰かが言っていたので、そういう目的の人は数撃ちゃ当たる戦法の方がいいと思われるので)。

まず大前提としてあるのは、いかなる目的であろうが、マッチしなければ無意味であるというテーゼです。「俺はトークもうまいし聡明で紳士だ!」という自負があっても、相手に何らかの形でそれを伝えなければコミュニケーションの舞台に立つことすら許されないのがTinderです(多分他のマッチング/婚活アプリもそうでしょうが、Tinderはお手軽ゆえにこの傾向が強いと推察されます)。Tinderをやって初めに目に付くのは、名前・写真・年齢・学歴/職業・相手の距離という5つの要素です。自己紹介文的なものはその次に見ることになります(プロフィールの二段階構造)。したがって、かなりのイケメン(人混みを歩いても目に付く程度を指す)であれば、その長所は写真から伝わりますし、高学歴・高収入なんかも容易に伝わる長所になりますが、それ以外の人となりについては、そもそも短い文ではあまり伝わらない上に、それを見てもらえる確率もさして高くありません。さて、ここで自分を「かなりのイケメン」には属さないとしたとき(そして実際にそう)、マッチを勝ち取るためにとるべき行動は主に二つになります。つまり、人となりをなるべく端的に面白く見せる努力をすることと、人となりを見てもらうべくインパクトのある写真を選定することです(写真に限定したのは、年齢・学歴・職業は変わらないし捏造はしないという観点からです)。Tinderうまくいかないなあっていう場合、必ず二段階のどちらかで振り落とされているのですから、両方とも改善するのが筋というものでしょう。

以上の事柄は自分が経験により身に着けたことになります。僕もしばらくは漫然と「なんかTinderうまくいかないなあ…」と思っていましたが、今思えばそれは当然のことで、東大文Ⅰというカードしか使えていない状態だったことが原因です。まあしかし当時はそこまで深く考えてはいないので、まず「もっとプロフィールを面白くしよう」と工夫しましたが、大してマッチは増えませんでした(恥を捨てて高Q36とかまで書いたのに!)。どうしようもなくなって、写真を変えるしかないと思い至り、前掲の記事でも書いたように、山崎賢人の写真を採用したところ、露骨にマッチが増えました。体感的には「本人の顔じゃないとか無理」みたいな層はけっこうマイノリティで、そこを切り捨てることで第一段階でのインパクトを爆上げし、多分そのへんのヤリチンよりは興味深いに違いない第二段階の人となりを見てもらい、結果マッチが増えたものと思われます。ここから語ることはあまりなく、マッチしたときには相手のプロフィールからどんどんと返しやすい話題を振っていって、LINE感覚で会話が進むようになったら、LINEの方に移ってまたいろいろ話していけば、いずれ会おうみたいな話になります。よく言われることですが、マッチして「こんにちは!」「よろしくお願いします。」とか送っても返しにくいし返す気も起こらないので、ちゃんと話題を作りましょう。現実でも同じことですが、はじめからいくらかプロフィールが開示されている分もっと簡単なのではないかと思います。

「Tinderにこんなに真剣に取り組むなんて頭おかしいのでは?」と思われる方もいらっしゃるでしょうが、ウェイウェイできるサークルに全くコミットしていないしする時間もとれない僕にとって、Tinderを有効活用しようという発想に至るのは至極合理的な結論です。サークルの年会費とTinder Goldの年会費/半年会費×2、たぶん後者のが安いですしね。「全然わかってない!そういうとこがキモいんだけど!」と思う人も間違いなくいるし正直自分でもそう思いますが、理論に基づいた行動によってよい結果が出たのでそこは勘弁してほしいというところです。彼女だけじゃなく友人もできたし(カナダ在住のOLも!)、受験生のJK(なんでTinderやってんだって話だけど)に勉強法やらメンタルの持ち方をいろいろ教えてあげたらいつか手紙くれるらしいし、ここ最近はずっと社会のいわゆる「上澄み」みたいな部分でだけ過ごしている自分にとっては新しいものが色々と見られたということもあって、総括すると金と時間を使った甲斐はあるというものです。もう一つ得られたものとしては、今こうして書いて思ったことですが、社会の構造を把握することの重要性ですね。Tinder一つとっても、無策に立ち向かうより、論理的に構造を見抜くことで、より効率的なアプローチができるわけです。社会のあらゆる部分に対して、同様に考察を深めることで、もっとよき生を送れるのではないかという風に感じました。予備試験の対策も同じことですね(ブログに時間を割いた分、自分で危機感を煽るためにしばしば記事内で言及することになる)。

気持ち悪い話をどうにか綺麗にまとめることができました。次の話は恋愛そのものについてです。これもひどいことになりそうですが。

「どんなに醜悪であろうと、自分の真実の姿を告白して、それによって真実の姿をみとめてもらい、あわよくば真実の姿のままで愛してもらおうなどと考えるのは、甘い考えで、人生をなめてかかった考えです。というのは、どんな人間でも、その真実の姿などというものは、不気味で、愛することの決してできないものだからです。これにはおそらく、ほとんど一つの例外もありません。」(三島由紀夫『不道徳教育講座』)

この前半をとある先輩が引用してツイートしていたところ、ちょうど自分の恋愛に関する思索はまさに「醜悪」の類なのではないかと思い、ここで使ってみることにしました。「彼女ができたってことは、きみの拗らせた恋愛観がすっかり正常になったということなんだろ?」と言われれば、ずばり答えはNOです。恋愛感情ってどう定義するんだ、どう特別なんだ、それもわからないなんて自分は恋愛に向いていないんじゃないか、という思考は、高1くらいからでしょうか、付き合い始める直前も、付き合ってからも常に付きまとっています。こういった思考は、ただ自分の中で悩ましいだけではなく、世の中の様子を見ても、明らかに普通とは離れています。自分からすれば、「なんでそんなに悩まず生きてるんだ?」というところですが、結局はそんな主観など取るに足りず、世間一般の感覚からの著しいズレが自分の「醜悪」さとでもいうべきものを突き付けてくるわけです。Tinderを始めた動機は、ノリによる部分が大きいですが、あえて不安の種に飛び込むような、劇薬を服するような行為で、結果としてそうした不安感を解消することができるのではないかという期待もありました。そして、思惑通りなのか、前掲の記事のような出来事もあって、何より彼女と出会って付き合うことになったわけです。

さて、僕の場合は彼女の方から告白してくれて、そのこと自体は非常に嬉しかったしOKしたから今に至っているわけですが、前述の不安感は恋愛関係を続ける上でもしっかりと心に圧し掛かってきました。さらに、彼女が見せてくれる恋愛感情というのはけっこうはっきりとわかるがゆえに、自分の恋愛感情についてまとまっていないということは一層罪悪感を覚えるものでした。「醜悪」は心にしまっておかねばならぬという、さっきの三島の言葉から出てくる結論を胸に、このことは彼女には伝えていなかったのですが、いつかこうした感情のために(例えば向こうにそれを看破されるとか)二人の関係は破綻をきたして、僕も彼女も傷つくのではないかということが容易に想像され、ナーバスな気持ちになることもありました(デートの時なんかはすごく楽しいので考えずに済むんですが、別れた後とかによく思いました)。

ここで、「醜悪」を隠しながら恋愛するうしろめたさと「醜悪」を告白することで拒絶されることへの惧れの間で、自分は板挟み状態となっていました。ブログなので別に幸せ部分を書くことはないわけですが、けっこう幸せにやっているのをぶち壊しにするリスクを負ってまで板挟みを脱すべきかということも悩まれました。しかし、まあこうして記事にしたということでお察しの通りでしょうが、やはりうしろめたさを解消し、より納得できる交際につなげるべきだという結論に至り、山中湖で買った写真付きのハガキに長文を書きつけ、彼女に読んでもらうことにしました。こっち側の結論に舵を切ったのは、きっと彼女と会うたび話すたびに少しずつ、うしろめたさが増す一方で、ふわっと恋愛感情の外形みたいなのがわかってきて、かつ仲良くもなってきて、不安が小さくなったからなのかなと思います。相手を想っているようでずいぶん自分勝手な気もしますが、人間ってたいていそんなもんなんでしょうね。

ということで前に彼女に会ったとき、「バレンタインに手紙をくれたおかえしのメッセージ」という体(体とはいうもののそれも一面の真実ではある!)でハガキを渡しました。「これで終わりになったら救いないなあ」なんて祈りながら読み終えるまで目を閉じて待っていましたが、彼女は一言「もっと好きにならせるからいいよ!」と言ってくれました。拍子抜けって感じもしますが、いや~なんとかいい話になりましたね。肩の荷が下りたことで、オープンに惚気まくる世の人々の気持ちが少しわかってしまったのが原因なので、まあたまにはそういうこともあるよと許してください(でも多分これ以外では惚気ないけど)。その後LINEで「なんとなく察してたけど、自己満足で愛を伝えてた」ってな感じのことを言っていて、二人ともずいぶん自分勝手なんだなと、なんだか安心しました。

惚気で気持ちが楽になったのはいいものの、別に疑問が晴れたわけではありません。ちゃんと言葉にできたらどれだけいいかと今でも思ってはいます。ただ、これについてはもうなんとなく諦めのような気持ちもあります。もっと具体的に言えば、自分の中には、言葉で説明できる部分と、フィーリングとしか言えない部分があって、恋愛感情のなんたるかとかいうことは、大部分が後者に属するものなんだろうなという悟りを得たということです。「大部分が」としたように、純粋にこの二分論で切り分けられるものなどほとんどないんでしょうが、あまり根を詰めずに後者の存在をしっかりと認めて、そこも大切にしていくのがより良い生き方なんだろうなあと思います。どうもこれまでは、これまでのブログの記事の性質が表しているように、前者を重視しすぎているきらいがあるような気がするので。

久々に書いたのでずいぶん気合が入った記事になってしまいました(5000字。今後短答までに書くとすれば予備試験を受けることの自分なりの意義みたいなのを問い直す格好の記事になるでしょうか。よっぽど面白いことがなければあまり他の題材が出てこない気がします。ではまた。

 

教習期限9の叫び

なんかこう真面目な記事をまとめきれず萎え萎えなあいとーです。最近は「まあ3000字は書くよね」みたいな感じになっており、きれいにオチつけて終わらせられないということが続いてまして、春休みだというのに文筆活動もままならない状態で、とりあえずこれを脱却しようということで一筆啓上火の用心、頭悪そうな記事を書いてみた次第です。

さて、大体タイトルの通りな記事であるのですがしっかりと詳細を説明していきたいと思います。

去る夏休み。アガルートで法律の勉強を始めてからは2か月ほど経った頃で、ショッボい民法の論文を書いていた時期でしょうか。恋人もいないし、大学の友達とも今ほど仲良くないし、食っちゃ寝食っちゃ寝勉強しちゃ寝みたいな絵に描いたようなコピペ祭りライフを送ることが予定されていた(沽券に関わるので弁解しておくと参加したイベントはいくらかある)我がナインティーンの夏休みなのですが、とあるミッションが舞い込んできたことにより一気に風向きが変わることになります。

―「暇やったら車の免許取りなさい。」 それはまさに鶴の一声、大地を揺るがす和太鼓の律動、いつの時代も母は強く、世界の一般原則に従って、生協で書類を手に入れコヤマドライビングスクール二子玉川校(以下「KDS」と称する)で修業を積むことになりました。彼女は基本的にいい親だと思っているし尊敬もしている(予防線あるいは留保)のですが、どうもやはり因習(実のところこれがこっちの偏見かもしれないが)に囚われた部分があることは間違いなく、「男の癖にMTも乗れないなんて恥ずかしい!私でさえ取れたんだからMTにしなさい!…(以下略」ということで日本ではほとんど使われていないMT免許を取ることになりました。そもそも東京で車乗るかも怪しいのに。まあとにかく、思えばこれが地獄の始まりということになるのでしょう。

念のため申し上げておきますと、KDSは基本的にはごくまともな教習所であります。建物は綺麗だし、二子玉川駅から歩いても10分強(※男子大学生の足)ですし、色々とスクールバスも出ており、特に文句をつけることはありません。従って読者の皆様におかれましては、こんなクズがいるなら私も生きる希望湧いてくるわ、みたいなメンタリティでこの記事を眺めていただければよいのです。これは余事記載になりますが、親も子も子がクズであることは教習申し込み時点では既に知るところであったにもかかわらず免許合宿を選択しなかったのはなぜか、という疑問にお答えすると、合宿ではクソ田舎を走るだけで免許を取れてしまうのですが、それでは東京での車の使用という本来的な目的を達成することができないのではないか、という親の意見により通いになった、という理由です。なんというか、筋は通ってるし軽過失という感じですね。とにかく僕が悪いので、まあ今更掘り返すようなことではありません。

そもそも自動車学校というのは、第1段階の教習で仮免許を取って、第2段階の教習で卒検に通って各人が学科の試験を受け晴れて免許取得、という仕組みであり、入学してすぐにとりあえずオリエンテーションも込みで学科の1番(第1段階では学科が10ある)を受講します。いくら僕がどうしようもない人間だと言ってもさすがにそれくらいはやり遂げました。50分トイレも行けず、私語も0、内職・携帯の操作なんてもってのほかという絶望システムにはすでに辟易していましたが。さて、次は実車模擬の後、校内技能教習の1回目を行うという、今後の技能教習の礎となる時間がやってきます。ところがもう僕はこれにさえ1か月行かないという狂気のサボりをかましてしまいました。途中1度予定を組みなおしたもののこれを放棄、のんびり暮らしていたところ再び母の雷が落ちてきます。「今行かなくていつ行くの!あんたはほんまに昔から(以下略」と林修のパチモンのようなワードも使っての熱意のこもった大演説が繰り広げられ、全く感動ないし反省はしなかったものの、これが功を奏し重い腰をあげて二度目の予定組みなおしに赴き、教習開始からおよそ1か月が経った日、ついに初めて車の運転をすることになるのです。なんて壮大なんだ。

それは確か8月の暮れの暑い日だったでしょうか。とうとう俺も一流のカードライヴァーかと、胸にこみ上げる感慨を噛み締めながら、しょーもない模擬運転を終えた僕は教官に連れられ意気揚々とMT車に乗り込んだことは今でも印象深い出来事です。「楽器できる人は運転うまいっていうしピアノやってたあんたならいけるでしょ」という母の言葉を大切にしてきた僕としては、まさに絶望を叩きつけられる形となりました。都合5回ほどエンストし、40㎞出してもビビらなかったことしか褒められず、ニュートラルギア・ハンドブレーキのかかりを確認してエンジンをかけましょうみたいな当たり前のことを何度もやらされ、自分では持っていないと思っていたちっぽけな「東大生のプライド」が粉々になったということは別にないですがまあ普通にショックでした。そこから次行くのだるいなあという気持ちをもったまま、そこそこ忙しい9月を終え、大学が始まり、ネットで予約をとっては全ブッチということを繰り返していきます。年末に帰省した際には、高校同期に「それお前もう無理やろw」と散々にバカにされ、「まだそんなことないやろ(その通りですごめんなさい)」と返し、惨めな気持ちになりました。相変わらず母親にどやされながらも、他にやることがあるとついつい休み多めの日を作りたくなるもので、断固として家を出ないということが続きました。そんなこんなでとうとう1Aの授業までも終わってしまうことになります。いや、時の流れははやいですね。

そんな昨月末のこと、「教習期限は9か月ですが、まあこれは普通に通われる方なら関係ないので気にする必要はありません笑」というオリエンテーションでのスタッフの言葉がふと頭を過ぎりました。―「もしかして、このままだと普通に間に合わなくて放校なのでは?」

これまで抜かりなく「試験」というものを乗り切り、これから予備試験という難関をも圧巻で突破しようと志す者が、仮にも日本のその辺のバカでも取れるような自動車の免許が取れないとあっては切腹ものです。それは冗談として、さすがに親の金約30万円をドブに投げ捨てることは許されることではない、ということで焦りも生じたところ、目の前に一筋の光明が差しました。―「今からATにすればギリギリいけるのでは?」

自動車学校においては、ATからMTへの転科はできないのですが、その逆は可能なのです。AT限定解除というメニューが存在していること、MTの方が教習時間も多くかかるお金が多いことからも納得いく結論です。KDSにおいては、5000円プラス税の手数料の支払いによって、MT→ATの転科が可能でした。さて、つい3日ほど前にこの手続きを完了し(半年行かなかった挙句最初に言うことが転科の申し込みなのがあまりにも情けなさ過ぎて2回くらい何もせず帰っている)、新たな予定表、今後変更される蓋然性が低い予定表を手に、明日も僕はKDSに向かうことになります。

とはいえ残り2か月、春休みの予約の埋まりっぷりからすれば実質1か月ちょいでみきわめ合格まで辿り着かねばならないという状況は、予定表があるからといっても予断を許さないものであることに変わりはなく、路上教習において1回のハンコ拒否でもあれば危機に陥るものです。そこで僕は悪魔的方法を思いつきました。「最近KDSに通いだした高校同期の予定を謝礼を払うことでキャンセルしてもらい、間髪入れずそこに教習を入れることで少しでも予定を前倒しする」というものです。いや迷惑すぎるだろと自分でも思うのですが、単なるキャンセル待ちはあまりにも空しすぎて時々しかやりたくないのです。「キャンセル待ちだけで第1段階とったわw」という、「あんま勉強してないけどそこそこ成績いいわw」と同レベルのイキり発言をKDSで耳にしたので、毎日(おそらく毎午前でいいだろう)キャンセル待ちさえすればなんとか少し余裕をもって卒業できそうだということにはなると思いますが。

さて、ギリギリメンキョミクス三本の矢というものを観念するとして、うち二本はこれまで紹介した「AT転科」「(悪魔的)キャンセル待ち」でしょうが、一番大事なのは最後の「やる気向上」です。しかしこれについては我らがヒーロー、母親が射ってくれました。―「このままだったら仕送りを止める、仮免に受かれば仕送りを止めない、免許取れたら多めに仕送りをする」 やはり金の力こそが正義なのでしょう。全ての要素が揃った今僕に死角はありません。残り2か月での免許取得など猛虎の牙にムシャムシャと食いちぎられるだけのことなのです。予備試験もいよいよ一番きつい時期、一段とギアを上げる時期に差し掛かっている今、もう一つの目標に向かって邁進する僕を皆さん暖かい眼差しで応援してください。ではまた。

クラスとはなんだったか

春休みなのでイキイキとブログを更新していきたいあいとーです。必修のテストが終わったことで僕が所属する2018年度入学文科Ⅰ・Ⅱ類27組は解散となりました。ちょっと寂しいことではありますが、今生の別れではないのでそれぞれの道へと進んでいきましょう。

27組についての感想を述べる前に、クラス制度について何かしら述べておこうかと思います。他の大学にもクラスという制度は存在しますが、東大ほど活用している所はないのではないでしょうか。語学選択が同じ人が集められ、オリ合宿、必修の授業の共同参加、五月祭や駒場祭の出店、クラス旅行、シケタイ制度など様々な部分で協力しあう(ことになっている)ものです。めちゃくちゃ仲良くなるところもあれば、あっさりと崩壊するところもあり、その辺はすごく色が出て面白いなあと思います。祭で赤字出して雰囲気悪くなるとかの場合そこそこの絶望感がありますね(他人事)。右も左もわからない東大の新入生にとっては、頼れる友人を増やすいい機会になりますし、ありがたく思う人は多いでしょう(とりわけ入学者の少ない高校から来た人にとっては)。実際僕も、サークルコミット勢ではなく高校同期・高校までのクイズの知り合い・高山ゼミくらいしか他のコミュニティがないもので、割とありがたいと思っています。大教室での授業がほとんどな法学部が「砂漠」と揶揄されていることからしてもそのありがたみはわかるでしょう。シケタイ・シケプリがなければ詰んでいた人もいっぱいいるでしょうし、何かと便利な制度だなあとも思います。

では、どういうクラスが望ましいのでしょうか。自分の個人的な意見をまとめるのさえ難しく感じますが、つらつらと書いていきます。とりあえず評価軸になりそうなものを挙げてみましょう。構成員の人間性、仲の良さ、打ち上げの質、祭の出来、試験対策といったところでしょうか。順に検討してみます。構成員の人間性等については「良い方が良い」としか言えませんが、最低限話せて面倒事起こさないのであればそれでいい気もします。あとは、一人は「こいつとは仲良くしたい」って思わせてくれるようなすげー奴がいるのがいいんでしょうね。あと個人的には、自力で服を選べないマンなのでオシャレな奴がいると助かります。仲の良さについては、さっき言ったようにとにかく一人は親友が欲しい、というのが個人的には大事です。30人の薄っぺらい友人より1人の親友全体については、個人主義タイプ、複数グループタイプ、団結タイプという感じに分類できるでしょう。前二つはその中で「仲良い度」がけっこう違いそうですね。僕としては仲の良い個人主義タイプが好きですが、まあ人によるでしょう。仲悪いとシケタイ制度崩壊とかもあるそうなので、とりあえずそういうのだけ避けてほしいですね。打ち上げの質はこれが意外と大事で、リーズナブルに美味しい店でやれると「仲良くできるかな」度が上がりますし、ショボいと下がります、如実に。オリ長とかパ長って大変ですね。某先輩は五月祭の打ち上げがバーガーキングで最悪だったという話をしてくださったんですが、こういうことがあるとクラス内の関係が悪くなると思います。次は祭の出来です。これに関しては簡単で、「なるべく多くの人が、出来る範囲で働いたうえで、なるべく黒字を多く出す」ということに限ります。クラス全員で出資して、売り上げをクラスでタダ飯として還元するというシステムからすれば、まあそうなるかなという感じです。黒字に関しては品目選択のセンスと場所の運、出品回転の良さが大事なのかなと思います。五月祭の準備とかはクラスコミットの具合をしっかりと表していて面白いなと感じますね。最後は試験対策ですが、これに関しては結局強い高校の出身者が強いシケプリを持ってくることで解決されます。もっとも、クラスに出来のいいシケプリを作れる人が多くいるに越したことはないのですが。能力あるいはシケタイの試験へのやる気・サークル等の忙しさの問題があるので自給自足だけというのも難しそうです。

評価の要素は大体出そろったので、独断と偏見によってこのクラスについて考えることとしましょう。まずは構成員の人間性について。まず、極端にヤバい、協調性のない人はいなかったのでよかったと思います。僕の見る目がないあるいは灘でバイアスかかってるだけかもしれませんが、個性強い!!って人もそんなにはいなかったですね。まあ何よりよかったのは、これからも仲良くできそうという人が何人かいることで、これに関しては運に恵まれたと思います。実は東大がすごいのかもしれませんね。次は仲の良さです。分類するならば仲は普通の複数グループタイプというめちゃくちゃありがちなクラスだと思います。表立って険悪な雰囲気ではない、というか雰囲気は全然悪くないけれど、仲良し!って感じではなく、まあ陰口が発生することもあるような、よくあるコミュニティでした(今更うちのクラスに陰口なんかないです!って人もいないと思うので書いてます)。あんまりベタベタなのも面倒だったかな、と思うので、こんくらいでよかったのかもしれません。僕はとりあえず目に見えて敵を作らないことが大事だと思ってる(別に心の内ではめっちゃ無差別にディスってるとかではないですよ、マジで)ので、グループとかはあんまり考えないようにしてましたが、後半にさしかかるほど結局同じ人としゃべっちゃったなあと思います。「誰とでもとりあえず仲良くしつつ親友を探すドクトリン」が一応うまくいったので個人的には満足です。女子も6人なので女子で固まっている場合も多かったように見え(これも本質をとらえていないかも?)、このおかげでぎくしゃくすることなく1年終わったのかなというとこもあります。打ち上げの質に関して、ご飯はそこそこおいしかったので良かったと思います(パの人ありがとう)。文句を言うなら席の固定化が激しすぎたところですが、グループタイプなのでしゃーないですね(わりとグループ同士無干渉っていうのもあった)。次は祭について。自分も駒場祭の時は責任者でしたが、まあどちらもしっかり黒字が出て、1回ずつタダ飯いけるし非常に助かりました(@クラスの人:余りの配分については近いうちにお知らせします)。ほとんどの人がちゃんとできる範囲で仕事してくれたのも良かったと思います。スモアにホットチョコレートとオサレ路線で突っ走り、なんだかんだとうまくいったのは思い出深いですね。どっちも1000個は捌けてめでたい。サークルの仕事ないがためにめちゃくちゃ祭コミットしていたのでやはり印象に残る出来事です。最後試験対策ですが、それなりに良く機能してたと思います。集まったシケプリの量も、自家製の質もしっかりしていました(シケプリ作らない前提でシケタイなった奴もいるけど)。おかげでコスパ良く点取れたので非常に助かりました。

こうして振り返ると自分にとっては悪いクラスじゃなかったですね。各人考えるところはあると思うんですが、過小評価はしないでほしいなと思うくらいにはいいクラスでした。とはいえ、全体の仲とか考えてみると、これ以上はない、とかは思わないですけど。自分としては過ごしやすいクラスでした。結局親友ができればいいかなってところが振り返ったとき判断基準としてでかくなるんですよね。

それにしても、基本的に周りに恵まれて生き延びるタイプなの、いいんだけど甘えすぎてダメだなあと思っているんですが、結局クラスにしっかり仲良くできる友人ができたし、そのうえ自分にはゼミまであるので全く変わりそうにないです。関わっているコミュニティが少ないため増えた知り合いの量は多くないですが、今後も付き合いのある人がちゃんと増えたと思うので、安心して学部に進めそうです。皆さんもこの機に1年生の生活を振り返ってみると面白いかもしれませんね。

死にかけの祖母に思うこと

―僕の2019年は、ラウンドワンのムーンライトストライクゲームとともにやってきた。9ピン倒して、「要領がいいだけで結局何者になることもなかったこれまでの生活を暗示しているのだなあ…」などと陰鬱な想いを抱くことはなく、高校同期とはしゃいで偏差値2の年明けを迎えたのである。—

あけまして5日目でとうございます、あいとーです。 「~~で……だから今年の抱負は○○」みたいな感じの文章をずーっと練っては投げ練っては投げしていたのですが、よく考えたらそんなもんブログにアップする必要ねえわということで、正月中の出来事に目を向け、久々になんとか記事を書きあげた次第です。なんだかんだと関西人の心を多少は持つ人間なので、オチのない記事は書けないなあと思っていたのも更新が遅れる原因でしたね。

昨日は北大に行った幼馴染くんと親子で会っていたのですが、その前に老人ホームにいる母方の祖母のところに久々に顔を出してきました。彼女は6年前に老人ホームに入り、ここ2年ほどはもう自力で外に出るのも無理になるほどに弱ってしまっています。脳梗塞認知症といったところでしょうか。多くの人が程度の差こそあれ感じることだと思いますが、元気だった人が、いつの間にか娘のことも孫のことも判らなくなり、自分で物を食べることさえもできなくなるという事実に、人間の脆さだとか、諸行無常の響きを受け取らざるを得ません。今日はわりかし元気な日だったようですが、それでも口に入れてもらった流動食を飲み込むのが精いっぱいという状況で、やはり物寂しい気持ちになりました。ほっといてもペラペラと話し続けるほどのおしゃべり好きだったのに、呼びかけても無反応だということも、それを加速させました。

元気な頃の彼女のイメージからすれば、「自分でなんもできんくなるくらいやったら死んだ方がマシや!!」とでも言ってそうなものですが、なんのかんのとしっかりと生きてらっしゃるというのが現実のところです。「尊厳死」「安楽死」という言葉もすっかりと耳馴染みになりましたが、そういう言葉を聞くたびに「生きる意味ってなんだろう」と考えてしまいます。それが何かということは各人にとって永遠ともいえる重い課題ですが、その中の一つに承認というものがあるとやはり自分は思うわけです。

承認が生きる意味を与える源泉になる、ということは、ある意味自分にとって最終的には生きる意味は死のあり方にかかってくると言えるのではないでしょうか。すなわち、どれだけの人に、どのように記憶されながら死ぬかが生きるうえで大事だということです。「おお主よ、各人に固有の死を与え給え」と詩人のリルケが述べているそうですが、死が簡単でなくなった、死が身近ではなくなった現代の日本において、印象に残る死というのはかなり難しいように思います。大体の人が、老いた末病床で亡くなる、という死に方になります。そのうえ、かつては「一億総中流」と言われ、今も「インスタ映え」という言葉が流行る、そういう国の中で「固有の死」という考え方そのものも、薄いように思います。だからこそ、「固有の死」というものは、逆張り人間の自分にとってすごく魅力的です(三島みたいに、あんだけ華々しくやろうとは思いませんが)。

しかし、ここで「固有」とはどういうことなのかと疑問が湧いてきます。誰かの記憶に残ること、誰かの思い出話の対象になること、といったことがまず思い浮かびます。「人の記憶に残り続ければいいのであれば、友人と家庭を持ったそれなりにまともな人は、現代でも範囲が狭かろうが『固有の死』を達成できるんじゃないの?」と思えてきます。確かに、範囲の狭いことは「固有」性において問題ではありません。しかし、誰かの思い出話の種になるということは、社会で生きさえすればほとんど誰にでも達成できることです。同級生のクソウザいやつの話でなんだかんだと盛り上がれることを考えてみてください。そういうことで、思い出話の種になることは、「固有」性を持つことではないわけです。じゃあどうすればいいか、と言えば、誰かの人生の送り方に変化を与えることが、「固有」性につながるのだと僕は思います。もちろん、ある程度プラスの変化でなければ意味がないですが。つまり、振られた相手の目の前で自殺すれば「変化」はもたせるし、「固有の死」にはなるかもしれませんが、それが「生きる意味」だとすればあまりにもヤバい人なわけです。「変化」は、自分の「生きる意味」につながる「固有の死」のために、他人にもたらさなければ、「固有」性の趣旨に反するのです。したがって、通常(少なくとも僕にとっては)ポジティブな変化を与えなければ「固有」とはいえないということです。

iPhoneを開発したとか、近所の子どもにちゃんとしたスイングを教えてヒットを打たせてやるとか、そんな感じで、規模の大きさには関係なく、少しでもいい「変化」をもたらすことが、自分のためになるわけです。何事も自分のカッコいい死のためにやっているのかもしれません。「嫌われたくないからって人に優しくするのは、優しさというよりは自己中心的な臆病さだ」とかなんとか、鬱陶しい言説も、「成熟した人は『固有の死』のために自己中心的に行動するのだ」と思えば、まあへっちゃらというものです。

今、「幸せな自分」を発信して承認を貰うことがスタンダードな世の中になっています。しかし、それは本当に自分の幸せになるのでしょうか。他者に何かをもたらすことにつながるのでしょうか。一体誰が承認を与えているのでしょうか。「固有の死」の「固有」性を高め、より強く「変化」を起こし、より多く「承認」をもらう、そうして幸せや生きる意味を得るために、勉強があるのだし、スポーツがあるのだし、その他色々な仕事がある、社会というのは本当はそういう構造なのではないかと思います。そこで僕には何ができるか、と言われればそれは、勉強して、それで得たものによって、何か「固有の死」を目指すということです。さて、こんな風に考えたとき、僕が生まれる前に亡くなった祖父が作った会社を継ぎ、盛り立ててきた祖母は、もう十分すぎるくらいに「固有の死」の条件を満たしているのだろうな、と思います。それはやっぱり尊敬すべき、誇らしいことなのだとも。

カッコつけてはみたものの、あまりにカッコを重視しすぎていて、この言葉通りに行動するのは難しいなと思います。でもまあ、恋人ができても匂わせ投稿とか絶対したくないですね。それではまた。

大体は頭が悪いから

こんばんは。タイトルからお察しの通り、闇のブックトークのおかげで再び時の本となった、姫野カオルコ『彼女は頭が悪いから』についての私見を述べるコーナーである。発売当初から一部東大生の間で批判が飛び交っているこの本だが、一体なにゆえこれほどまでに東大内部の人間を刺激するのだろうか。本来は土日にあげるつもりだったが、クイズにコミットしていたので、予定が遅れてしまい、旬が過ぎていて残念なのだが、考えてみることには意味があると思い、結局書き上げて公開する運びとなった。初めに言い訳をすると、頭が悪いのでさっぱりまとまった意見にはならなかったので、期待せずに読んでいただきたいものである。申し訳ございません。

文句を言う東大生の意見を(拾える限り)最大公約数的に勝手にまとめさせていただくと、「『東大』あるいは『東大生』に対するステレオタイプを助長する高度の危険性を孕んでいる」といった感じではないか。作中の東大、そして東大生に関する描写は、内部の人間が見れば看過できない程度に多くの誤りを含み、かつそれが東大生に共通する特徴かのようになされているため、本作品はこれを手に取った不特定多数の人々に、捻じ曲げられた「東大生」というステレオタイプを植え付け、納得させてしまうという危険があるとして、ステレオタイプの被害者となる東大生たちが次々に怒りを表明しているという現状のように思う。 さて、この意見に対する批判について検討する前に、まずはこの意見が説得的であるかを論じるべきだろう。個人としては、説得的であるという立場に立つ。以下に理由を示していく。 まず、この作品はフィクションであるということが前提にある。実際、主犯格らの出身高校、作中の会社名等多くの部分は現実の「もじり」になっている。ところが、その中で、東大は(お茶女もそうなのだがここでは本題と逸れるため言及を避ける)現実と同じ名前で登場する。あくまでフィクションであり、本来的には現実との齟齬がさしたる問題とならないはずの小説において、これほどまでにその齟齬に批判があるのは、その大きさのみに起因するのではなく、東大ばかりが現実と同様の名前で描かれるゆえに、その虚像がやけにリアル感を持って読者に届くためだろう。

{※本作品に批判を浴びせる東大生がどれほどこの点考えているのかは知らないし、関与することではない。これは単に自分なりに彼らの意見を補強する記述である。嘘をくまなく探して指摘するだけでは、後述の批判に対して、ちゃんと言い返すことができない。通常とは異なり、フィクションとして看過できない、という前提のもとで、初めて粗探しに根拠が与えられるのではなかろうか。}

その上でこの作品では、先述のように、このような多分に嘘を含んだ描写が、東大生に共通するかのように描かれている。本作の主人公であるつばさが、現在の学歴重視の風潮(作中では「足元に2枚の女性カードが並ぶ」などと言ったところに表れている)、東大に入る過程における歪み等々にさらされ、サイコパス的な性質を持つことになったとして、それは偶然も多分に含む主観的な事情に過ぎないはずである。ところが、この小説ではいちいち主語を大きくして、「東大生は~~」という表現を用いる(頭(=感受性)がつるつるしてなければ云々のところが、個人的にクソむかついたポイント)。ある人が、常人ならざる性格を形成したということの多岐にわたる要因の一つが、「東大の歪み」であるに過ぎないところ、本作品では極めて短絡的なことに、「東大生には性格の歪みがあり、それは東大という環境のせいである」⇒「つばさは東大生である」⇒「つばさの性格の歪みは東大という環境のせいである」という図式が出来上がっている。単にこれだけなら、「頭が悪いから」ということで済ませられよう。それに、つばさのような人間が一定数いて、そのタイプを生み出しやすい環境であることは実際否定できない。が、本作品では、諸悪の根源として描写される「東大という環境の歪み」が虚飾で彩られているために、本当にたちの悪い小説になってしまっているのだ。実際に東大にある問題点を、都合よく一つ切り取り脚色するだけで、ちゃんと指摘しない本小説、そして本題と逸れるが、指摘できない自分のジェンダーに関する感覚の欠如に呆れるばかりである。

以上まとめると、『彼女は頭が悪いから』は、①フィクションでありながら東大はあえて現実の名前のまま使用したこと、②そうしてリアリスティックに描かれる東大に対し、多分に誤りを含んだ過度な一般化を施し、その誤った認識を問題の根源として設定したこと、という2点において、「東大生」に対する誤解(人によっては東大のジェンダー問題に関する誤解)を生むステレオタイプを拡散することに貢献する危険性が相当高いと言うことができるだろう。姫野氏が、何の目的でこのような設定を施したかについては定かではない。商業主義的な面を想像しがちだが、事実ではないかもしれないので限定は避ける。しかし、故意にせよ過失にせよ、このような危険性があることを顧みることなくこれを出版した関係者は反省すべきではなかろうか。ついでにもう一つ個人的に問題だと思うのは、冒頭で「事件の背景にあるのは、単なる数か月のすれ違いではなく、加害者と被害者のこれまでの人生なのだ」といった趣旨のことを述べているのに、加害者側については、嘘によって単純化された「東大」の歪みに責任を帰着させている点である。対して被害者の人生と心理描写に分量を割き、東大生がよく言う「下心」を持たない純粋な存在として持ち上げたのは、当時不当に叩かれた被害者を擁護する意図があったのだろうが、お粗末としか言えない構成である。

さて、このような事情からして、「フィクションに対して現実との齟齬を指摘するのは無理筋だ。」という批判は、取るに足らないということはすぐに言える。原則として、その主張は正しいだろう。しかし、本作品は、嘘の中に「東大」という現に存在する名称を混ぜ込むことで、「東大」に関する様々な嘘(当てはまる人はいるが、一般化はできない特徴)にもリアリティを与え、それにより読者に東大への誤解を拡散しかねないという性質を強く持つ。ゆえに、例外的に、現実との齟齬を指摘することが許されると言うべきだろう。あらゆる齟齬が、東大に対する誤解の種となってしまうような構造になっている。

そして、「『東大』描写は作品のディテールに過ぎず、本題とは逸れており、そこに混ぜ込まれた様々な嘘については語る価値がほとんどない。本題から目を背けるための(マンスプレイニングの)論理だ。」という批判もある。先ほどよりは「へ~」と思うけれども、まず同様の理由で反論することもできるし、何よりこのような批判を加える人々には「被害者目線」が欠けていると言わざるを得ない。インタビューなどから、姫野氏が小説で表現したかったことは、「弱者を虐げることで自分を保とうとする人間一般の汚い性質」や「それを助長する学歴至上主義や男性中心主義に対する怒り」といったことなのではないかと推察される。もちろん、これらの課題は、日本社会がより成熟していくために立ち向かわなければならないものである。しかし、「それとこれとは関係ない」というべきだ。本題は重要なものとして確かに語られるべきだが、不当な偏見を助長する作品の問題点についても、またしっかりと追及がなされるべきであり、この点で姫野氏をはじめとする出版側に東大生からケチがつけられるのは必然のことである。なにせ、嘘八百によって、現実の程度をはるかに超えて、「学歴至上主義と歪んだ男性性の象徴」として自分の所属する共同体が描かれているのだから、何度も言うように怒りはごもっともなのである。ただ、実際、出版以後の東大生の内部での今回の件の語られ方、とりわけブックショーの件以後の語られ方については、いささか冷静さに欠ける態度で「東大」描写に対する批判がなされているという印象を受け取らざるを得ない(ブックショーにおける某氏の態度も、彼の「本題」はともかく、誤解を生むものとして批判されるべきだろう)。ブックショーの冒頭で述べられたような「東大という記号の根深い問題」が存在するのは確かなのだ。それにジェンダーの面でも、種々の問題が指摘されるような状況にある。作者が虚飾を施してまで伝えようとした意図を検討する姿勢を忘れててはいけない。当然、それはそれとして反省すべきだろう。しかし、やはりそれとは別に、レッテル張りの危険にさらされた東大生が、それに対して反感を示すのは、ごく自然な態度であるのだ。そのような危険性の根源である「東大」描写の嘘を「些末」と切り捨て、「この作品の本題は~~で…」と言うことこそを語るように求めてくる外野の人間は、神の目線で大局観を押し付けてくる、当事者意識に欠けた下らない奴だという印象を受ける。そんな彼らも大概、差別主義者の素質があると断言して差し支えないだろう。要は、「冷静に分けて考えてどちらにも言及できるといいね」というのが、この段落での私見である。

対して、少し難しいのは、「現実との齟齬の批判に終始するのではなく、そのような虚飾とは違った『東大生像』を示していくことこそが、東大生のすべきことではないか」という批判(意見と言った方が通りがいいかもしれないが)である。実際、ディテールの批判によって小説の瑕疵をあげつらうのは、あまり意味がない。作者の失態を責めようが、本が読まれるたびに誤解は生まれていく。そうやって生まれてしまったステレオタイプを、その被害者として自ら立ち上がり誤解を解こうというのは、一種の答えであり、一つなすべきことであることは間違いない。しかし、それが正しいからといって作者の帰責性を看過するのは適切ではない(それもまた大局的に過ぎる)し、作品のディテール批判も、これまで述べてきたように、誤解を解こうという点が根底にある点では、「新たな『東大生像』を示す」ことと同じ方向を向いていると言える。腹立たしい部分はあるけれど、やはり東大に存在する問題を考えるきっかけになるという面は否定できないだろう。

本小説による東大生のステレオタイプ、そしてそれ以前の報道やバラエティにおける東大生のステレオタイプは、しっかりと拭っていかねばならない。波紋を呼んだ本作品だが、一東大生としては、東大はその特殊性ゆえに、外部者からよくわからないステレオタイプを押し付けられがちだということを改めて認識するきっかけにはなった。東大という属性を背負ってしまった以上、その問題点につき、偏見の解消と属性の新定義という二種類のアプローチで以って解決を図るのが冷静だろう。

最後に、何度も同じことを言い直すことになる自分の文章の頭の悪さを詫びながらまとめさせてもらう。これ以上、ただただ東大描写の嘘をあげつらうことに実益はない。「姫野氏の表現方法の瑕疵ゆえに、フィクションであるにもかかわらず、本小説は東大への差別を助長する高度の蓋然性を有する。そして現に、〇〇といった違いがあり、××のような偏見が誘発されることが明らかである。」といった形の批判が正当だと考える。フィクションであることを理由とした言い訳は、このような形で抗弁がなされることでこそその効力を失う。その上で、この小説自体の読解も、腹が立つのを抑えながら、しっかり行い、その世界における問題(作者の意図)を取っ掛かりとして、現実の東大の問題について考えていく姿勢を見せることが、誰も頭が悪いことにならない最もマシな方法ではないか。まあこの件で東大生に絡んでくる人に論理が通用するかは怪しいけれども。知りたくないことに目を背けるから偏見が維持されるわけで、そういう人たちに東大の現状をちゃんと見せるのも簡単ではない。何より東大という記号が邪魔になるだろうし(苦労するマクロンのことを想像すればわかるだろう)。茨の道という感じもするけれど、それに関してはこの記事の射程の範囲外といった感じである。 以上です。

長文クイズの長文覚書

某英語論文執筆授業を課題より遅刻欠席で殺してしまいました。月曜の朝に授業するなと怒り心頭です。あと、某先輩が再履して文Ⅲから法進していたのを見ていたので、やはり気のゆるみがあったのでしょうか(時間と人のせいにするな)。

さて、おとといはPERSON OF THE YEAR 2018というクイズの大会に行っていました。今の学生クイズ界ではほぼ唯一の長文難問の大会です(後述のじごろうオープンは長文の大会だった)。表舞台でボタンを押す機会はかなり久々(3月以来)だし、少しは頑張りたいと思っていましたが、やはり十分に対策が取れないまま臨み、杵柄力と付け焼き刃力でなんとかペーパー30位、3Rで早押し1度ボード2問で終わり敗退という結果に終わりました。昨日終わった時は「今の自分には妥当な結果かなあ」と思いましたが、一夜明けて忸怩たる思いが募ってきました。パーオブに出られるのも後3回なので、来年に向けてこの気持ちを保存する意味も込めて、長文クイズそのもの、パーオブという大会、自分とクイズの関わりについて記しておきたいと思います。

まずは長文クイズについて。自分とクイズの関わりを振り返るうえでも欠かせないものです。一般人からすれば「長文クイズなんてものがあるの?」と疑問に思われるでしょう。テレビで見ていた高クイも、学生クイズ界における多くの大会も、やはり短文クイズの場になっています。誰でも見ていて面白いような展開のスピード感はやはり短文にしかなく、競技としても「競り勝つ」技術とセンスの面が強くて、最近はまるで出来ていないですが、独自の面白さがある良いものです。対して長文は、大会も多くなく、クイズ界においてさえとっつきにくい印象があるように思います。実際、良い長文問題を作るのは簡単ではないし、対象もいわゆる「難問」に偏っている印象がありそうです。

「難問」に偏っている印象は、やはりパーオブという大会抜きには語れません。同大会は、2009年にスタートし、今年まで10年連続で開催が続けられている、学生クイズ界における長文の王道であり実質的には唯一の目標となる大会です。毎年前年度の大学卒業世代が主要スタッフを務められ、クオリティの高い問題が揃うすごい大会だと、未熟ながら感心しています。ただ、長文をやるモチベを上げてくれる、楽しい大会ではあるのですが、その影響力の強さが仇になっている部分もあるのかなと思います。「仇」というのは何かと言えば、学生界における長文クイズのほぼ唯一の大会であるために、同大会で「難問」が主として扱われていることが、「長文」=「難問」のイメージ固定化に図らずも貢献してしまっているのではないかということです。大会のクオリティが高いこともそれに拍車をかけています。今出題される「長文難問」は、短文の知識とは重ならない部分も多く、その土台を仕上げるだけでもかなり努力を要するもので、「難問」をやる環境が整っていなければ太刀打ちできないようなジャンルになっていると思います(だからこそ、やりがいもあるのですが)。つまり、門戸が狭い状態になっています。木曜会や充問会、僕がやらせてもらっているバイトヌール長文基地など、それなりの蓄積ある場所でないとなかなか立ち向かえないようになっていると思います。その点、NQCの有志で開催した「じごろうオープン」は、難問への強さを測ることもさることながら、長文自体の面白さを伝えるという役割を担える良い大会だったのではないかと自賛するところです。一つ注意しておきたいのは、これは決してパーオブへの批判ではなく、パーオブが今高く険しい山として君臨している状況の中で、じごプンは全く異なった役割を果たすものだというだけのことです。

そもそも、クイズというのは数ある趣味の中でもマイナーなうえ実益がほとんどないというマゾ競技なのですが、長文なんてその中でもさらにニッチなもはや変態向けの趣味であることは間違いありません。ただ、やはり自分の中で、クイズに時間を割けていない今でも、長文クイズというのは興味深い存在です。深いとも浅いともつかないわけのわからない前フリから、最後は感心するようなところに持っていくのが長文の面白いところです。事物人物に関する雑多な情報を、面白いという感性に任せて抽出して、何を使うか考えながら自分のモノにしていくという、迂遠な作業に、なんだか知的な楽しみを見出してしまうところです。その無駄の極致に魅せられた者として、少しはその面白さを伝え普及に貢献したいという思いはあります。易問であっても色々とフリをつけるということは、自分がバイトヌールに入った高2の時から少し意識しているところです。やはりじごプン2をやるにおいては、自分としては「長文クイズ自体の面白さ」を意識しながら、問題を提供できればいいなあと考えるところです。とはいっても、勝ちにこだわりたいという部分も大きく、来年こそは、しっかりと装備を整えて、パーオブという高い峰を攻略していきたいなと思います。

最後は自分のクイズ歴における長文の立ち位置、というところですが、とにかくバイトヌール長文基地の存在が大きい、というかそれがほぼ全てです。高1からクイズを始めた僕ですが、当時中高でトップの少数精鋭ぶりを誇っていたNQCという素晴らしい環境にいられたことで、高2になるくらいには、関西ではある程度活躍できるようになってきました。そこで、先輩3人、後輩1人も関わっていたバイトヌールへの誘いを受けて、本格的に長文を始めることになりました。今思えば、びっくりするほど弱くて、むちゃくちゃな問題を作っていたりしたなあという感じですが、とにもかくにも、長文との本格的な関わりはそこに始まったわけです。その年はヌールには120問出し、自分で色々と問題集を読んだつもりでしたが、パーオブ2016はペーパーで実力が露呈し、ギリギリ3Rに出られただけに終わりました。それでも、中高生での紙抜けや3Rはほぼバイトヌールの仲間だったので、悪くはないのですが。やはり今より練度は高くてもコーパスは狭かったなあと思います。なんだかんだ1年やるうち、部内杯にも、少しはオーソドックスな難問を出せるようにはなりました。毎回の活動は楽しく、ヌールの上位層に圧倒されるばかりでしたが、早押し正解を出すと心の中で喜んだものでした(今後いくらクイズから離れようが、この気持ちを忘れないようにはしたいもの)。高3の年も、なんだかんだとクイズから離れすぎることはなく、息抜きがてら、付け焼き刃で知識を広げエンスト(2017年から開催されている、中高生向け長文大会。大学生の今や関わりがないので先ほどは書きませんでしたが、大学生のしっかりしたスタッフが関わるこれまた良大会です)に出てみたりと、長文には触れていたなあという思いです。受験生なのであまり仕事できませんでしたが、合格発表後開催のじごプンのスタッフの一人として、問題も少しは提出し、熱い戦いを見届けました。そして今年、予備試験の勉強、ゼミの勉強にほぼ時間を割く中(別に絶えず勉強しているということではなく、一人暮らしになったこともありちょっとヤバい量の休憩をとり興味のない授業を殺しまくることでギリギリもっている)、4年目を迎えたバイトヌールで、ちょこちょこ長文には触れるものの、復習の機会も持てず、なんとか50問の小企画をするにとどまってしまった。さすがにこのまま臨んでは、コーパスも狭いまま、練度は下がったままで無理だ、ということで、前日にクソコピペが大半のメモ程度のペーパーを80問仕上げ、ヌール勢の合宿所となっていた某先輩の部屋にお邪魔して必死にコーパスを広げ、結局付け焼き刃でパーオブに臨むことになってしまった。そして、上記の結果に終わることとなったわけです。こうして振り返ると、当然の結果とはいえ、今まで自分がある程度長文に触れる機会を持たせてもらってここまでやってきたことを思うと、だんだんと悔しさがこみあげてくるというものです。ただ、バイトヌールの末席に居続けた自分の力が少しは増す(ペーパーの実際の点としてはブランクも出てひどかったけれど、取り得る点の順位自体はあがっているということ)とともに、サークル全体の成績も上がっているのが、なんだか誇らしくて、やはりヌールでやらせてもらってよかったと思います。それでもやはりいつまでも末席に甘んじていてはいけないし、ヌールの第1世代は来年がラストイヤーなわけで、色々な意味で、来年は秋からしっかりと対策をしたいところです。

実際、今年のパーオブに行って、来年の自分の活躍に希望が見える部分もありました。自分の問題だけでも作ったことある問題がたくさん出ていました。昔作ったらいつのまにか流行っていた問題や、対策に使ったものが1フリ目から完璧に当たっている問題もありました。フリに入れたものが出題されたということもありました。高1の始めたての頃はわけもわからず作っていたものが、こうして今クイズの作法を身に着けた中出題されるのは、感慨深いものがあります(見直していたら、高1五月末の初めての部内杯からペーパー2問出てたと分かったときには驚きました。2問ともド忘れしてたけど)。なんだかんだ、短長易難ごちゃまぜで、2400問くらいは作ってきた(3/4は高2までだけど)ことを思えば、これからもクイズに向き合っていきたいなあという気持ちになります。うち8問くらいが今回出た(ヌール関連は5問ほど)ことを思うと、問題を作ることの大切さも身に染みるというものです。そのうえ、自分は、これまた問題をどんどん当てている強い先輩・同期・後輩の問題へのアクセスもできるので、これを活用しない手はありません。ヌールの問題もすでに4000問ほどになっているので、まさに遺産というべきでしょう。自分が所属してきたコミュニティの問題を全部覚えて、勝手に何か背負った気になりながら、大会に臨みたいなあと思います。

せっかくなので、ほぼ完璧に当てた問題と、長文易問とを載せて終わりにします(ちなみに、一問一答の記事にも一問長文クイズが収録されている。あれはブログのために作った稀有な問題。)。初めてクイズのことを書きましたが、大会に出たうえで振り返ると相当感慨深かったです。これからも色々に感謝の心を忘れず、細々とでもクイズが出来ればいいなと思います。

Q.ドイツの映画監督レニ・リーフェンシュタールと意気投合し、西武美術館で開かれた彼女の写真展のトータルディレクターも務めている、前田美波里を起用しセンセーションを巻き起こした資生堂の広告「太陽に愛されよう」を手掛けたことでも有名な日本のアートディレクターで、1987年にマイルス・デイヴィスのアルバム『TUTU(ツツ)』のジャケットのデザインによって日本人として初めてグラミー賞を受賞したのは誰?

A.石岡瑛子(3R2組目でした)

Q.現在一般に定着している「ニース風」の誕生以前は、主に刑務所で提供される「不味い煮込み」としての意味合いしかなく法務省にそのレシピが掲載されていたという、ピクサー制作の2007年の映画『レミーのおいしいレストラン』では主人公のネズミ・レミーが物語のクライマックスで作る料理となっている、パプリカ、茄子、ズッキーニ、トマト、玉ねぎなど夏野菜をオリーブオイルと香草で炒め煮にする、フランス南部の名物料理は何?

A.ラタトゥイユ(じごプンより。もっと出来が良いのはあるが、自分の中でまさに易問だったので)

ではまた。

♪愛情ってゆう形のないもの~

こんなに間が空くとは思っていなかった。これまでがハイペースすぎたという見方もできる、というか実際そうだったと思う。どうしようもないので重い腰?を上げてTinderをネタに記事を書くことにした。

山崎賢人の写真を採用してから明らかにマッチが増えたという事実(なぜ山崎賢人か、わかる人にはわかる)に、世の中の悲哀を感じるこの頃である。始めてから大分経ったもので、業者とか救いようのないメンヘラとか雰囲気ですぐわかるようになった。一言目の出し方にも大分慣れてきたように思う。女性だと思って話していた人が実はバイセクシャルの男性だったという、相手の気持ちやらなにやら考えると怒るに怒れないけれども、ヘテロの僕からすれば大変痛ましいような出来事もあった。話の小ネタが増えるのもTinderならではというところで、理Ⅲを知らないJK、子持ちの20そこそこのシングルマザー(マッチしたことはない)、etc.と自分が生きてきた世界とは隔世の感もあるたくさんの人々が同じ日本にいるということも自然と頭に入ってきたのだった。

そういうこまごまとしたことはさておき、少し考えさせられる出来事があった。本題は少し先になるのだが、ぜひ最後まで付き合っていただきたい。なお、一部薄めに脚色しているのでそこのところはご理解のほど(少し短絡的じゃない?と思ったところがあれば、きっとそこが脚色されている)。

こないだマッチした人がプロフィールに「一人暮らしの男の家に行きたいです。大きいといい」というようなことを書いていた。「とうとう僕にもお鉢が回ってきたらしい」なんて虫のいいことを考えながら、適当に雑談もしつつ、「一人暮らしですよ」「隣町のラーメン屋の近くに"HAPPY FAMILY LIFE"って書いてあるコンドームの自販機があるんですよ」などと自己アピールを行い、向こうの人もけっこう行為に乗り気に見えた。見えたというか、これは間違いなく"HAPPY FAMILY LIFE"案件だという感じだった。

ところがどっこい話が進むと突然、「童貞でしょ?」なんてことを聞いてきた。羞恥心を噛み締めながら、「話してるだけでわかるもんですね~ まあ男子校6年なんで」などと模範的童貞の返しをすることになった。くそお。しかし次の彼女のセリフでその羞恥心は吹き飛ぶことになる。「私童貞とはしないようにしてるんだよね。(笑)」と彼女は言ったのだ。

なんということだろう!これまでの雑談から彼女に彼氏がいるということ、その間も他の男性とセックスをしているということを聞いていた僕は相当驚いた。最初この彼女の「主義」を聞いた時のがっかり感もまた驚きに流されていくくらいに。明らかにクズっぽい奴とはセックスしないというなら(自分の既存の価値観に合って)納得もできようが、いわゆる「ヤリマン」などと呼ばれておかしくない彼女があえて童貞を拒んだ理由が僕にはわからなかった。まさに「イメージの裏切り」とでも言えよう。こんなことでキレてると勘違いされぬよう、慎重に「なんで童貞とはしないことにしてるんですか?」という旨のことを聞いた。僕にとっては意外なことに、彼女は「私も初めては好きな人とで幸せだったから、君もそうして欲しいな」なんてことを言った。

今彼女がしていることと、彼女の言葉とは、矛盾、というか大きな変化が明らかに見て取れる。その理由を推測することもできない自分の経験の無さに呆れながらも、新たに湧いてくる疑問を彼女に投げかけた。「なんでそんなに変わってしまったんですか?」と。(今思えばずいぶんとデリカシーもなく次々と聞いていたもので、よく答えてくれたなあと感じるところ。)そしてまた彼女は衝撃的なことを告げてくれた。「すごく好きだった元カレが、自分と付き合ってる間に他の女の子とガッツリ付き合ってたってことを知って、結局愛されてなかったんだと思うと何だかどうでもよくなっちゃって、って感じかな」

まさかこんな深刻な話になると、最初は誰も思っていなかっただろう。僕もそうだった。彼女はこうも言った。「穴埋めがしたいだけなのかもしれない。」と。言葉で語る「真実の愛」の薄っぺらさに疲れ切った、という様子だった。残酷に奪われた「真実の愛」という題目の代わりとして、一時的な性愛を使わざるを得ないほど苦しんだようだった。それでもなお、その尊さゆえに「真実の愛」を求めてしまう人間らしさにも溢れていた。いくら僕に恋愛の経験がなくても、すごく共感できる部分だった。

「本気で好き」だとか、「真実の愛」だとか、今のところ自分は感じたことがないような気がする。恐ろしいほど鈍いか怖がりか、どっちかかもしれないけれど、主観で言えば同じことだ。母親はよく「あんたは幼稚園の○○先生のことが絶対好きだったよ」ってことを言うのだが、あんまり昔なので何も覚えておらず、役に立たない。世の中の恋人たちはどんな気持ちで、付き合い、別れ、また付き合って、と繰り返しているのだろうか。自分も相手も嫌な思いをしないように、「ちょっと気になってるのかな」という程度ではほとんど告白に出ることはしてこなかった。純粋なものを求めすぎているのかもしれない。この年代の恋愛にはそぐわないんだろうなと自分でも思う。あるいは、決まりきった定義を求めすぎているのかもしれない。親友に近いのか、セフレとは近いのか、恋人というのはどんな人間関係であるべきなのか、そういう堅苦しいことに囚われているようにも思える(このレベルに拗らせてると、男子校が悪いとかそういう話ではない気がする。)。とにかくそういった諸々の問題に思いを馳せながら、「初めては好きな人とした方がいい」という彼女に、「本気で人を好きになったことは今までない気がするんです」と心の内を打ち明けた。

彼女もまた同じような悩みを心の内では持っているようだった。「いろいろ言ってきたけど、私も自分から人を好きになったことはなくて、相手に言われて自分も好きになるみたいな感じかな」と彼女は教えてくれた。それじゃ自分の問題が解決しないのは明らかだけれど、「誰かに好きと言われたら、なんとなく自分もそんな気がしてきそうだ」ということにはとても共感した。相手が自分のことを好きだと言ってくれるなら、こっちから好きと言っても傷つかないだろう、と思う。相手が何か大事なものを預けてくれたということに、心を動かされるだろう。やっぱり僕は単に臆病なのかなと思ったけれど、本当のところはまだわからない。

そんな彼女も、「今の彼氏といる時間は幸せだし、離れたくない」、なんてことを思うらしい。きっかけが完全に相手主導でも恋愛はちゃんと成立しているようだ。ついでに言うと、「大きさよりも、好きな人とするのが一番気持ちいい」そうである。そうした感情が「好意」という規範的要件の評価根拠事実なんだろうか、と考えながら、傷ついてもなお恋愛に身を焦がす彼女を羨ましく思った。彼女の彼氏のことを考えるとさすがに気の毒だなあと感じるけど。そろそろちゃんと恋愛しなきゃまともにも幸せにもなれない気がするし、それこそまたTinderを活用しなきゃなあと思う。予備試験の勉強も時期で言えば後半戦、本気の本気で取り組むべき時期に入っている中、何につけても時間を有効活用したいものだ。