*:.。.:*゜ぁいとーの日記 ゜*:.。.:*

ある時点での自分の記録たちとその他いろいろ

Instagramくんが私のことをバカにしてきます

こんにちは、あいとーです。競馬と税金の記事を執筆中なのですが、思いの外ガチになってしまってしばらく完成しなさそうです。ということで、急遽最近思ったことについて書くことにします。

ちょっと前に、今年の東大のミスミスターの出場者が発表されました。このイベントの存続の是非については(語れるほどの知識も思い入れもないので)一先ず置いておくとして、ミスのN番の子が〇〇の知り合いというので、インスタのアカウントを覗いてみたのです。これが全ての始まりでした。

TikTokYouTubeAmazonなど、世間を席巻したサービスは、ユーザーの行動を読み取って、それを新たな情報の提供に役立てています。データを持つ者の強みを存分に活かした結果です。インスタもその例に漏れず、検索の画面には、検索履歴や「いいね」の履歴を活用して、それらに関連する投稿がぶっきらぼうに並べられています。

平成(笑)の前半(笑)に生まれた陰キャおじさん(笑)の僕としては、LINEとTwitterが主戦場で、インスタは正直全然活用できていません(TikTokは言わずもがな)。外向きのストーリーとか投稿についてもそうですが、情報摂取の手段として、何かをインスタで検索することはほとんどなく、目当ての飯屋やケーキ屋の営業日と時間を確認するくらいにしか使っていないという状態です。そうすると、渋々インスタの方から提供されるのは、おいしそうなケーキの写真や、「○○グルメ6選!」といった毒にも薬にもならぬ投稿ばかりとなっていました。そんなデータの砂漠地帯にいきなり生えてきたのが、ミスN番の検索履歴と閲覧履歴、というわけです。

その後、特に他のミスの方とか、他大のミスコンについて検索した、ということもありません。まあ東大の人は多少見た気もしますが、ほとんど記憶にない程度です。ところが、「あの日」からしばらく経った時、突然インスタの検索画面の半分ほどが、今年のミスコン出場者その他キラキラな感じの女子に占領されていました。あの胡散臭いインフルエンサーたちのグルメまとめ投稿はどこへ行ったのでしょう?

「かわいい子がいっぱい見られるんだからいいじゃん」と思われるかもしれません。それが全く間違いというわけでは当然ありません。美醜の価値観は、物心ついた時からの種々の経験により、既に僕の脳の深くに根付いていて、ルッキズムに対する批判の意識があるとしても、それは培われたものを壊すほどのパワーは(自分にとっては)ありません。この点に関して、今後の社会を変える方向を目指したとしても、自分の進む道はもう後戻りできないところまで来ているわけです(この開き直りを批判されても仕方ないですが、少なくとも今の自分はこのように現状を捉えています)。

そして、この歳にもなって、「性欲」に対して過剰に抑制的に振舞う、というつもりでもありません。これは一種の男子校しぐさな気がしますが、あえて恋愛的なものの「純粋」さを美化して行動する、というのは(その価値観の尊さはあるとしても)、あまり現実的ではないでしょう。とはいえ、まだこのしぐさが抜けきらないところはあると自覚してもいますが…

長いこと言い訳を挟んできましたが、要するに何が言いたいかというと、「かわいい子がいっぱい見られるのはいいけど、見せられるのは納得いかない」ということです。俺の欲望をAIが規定するなよ、という怒りがあるわけです。逆張りマインドを常に意識している僕としては、世の中は既に便利になりすぎたと嘆かざるを得ません。

技術の発展や、GAFAの登場が、人間の生活に大量の「どうせお前こんなん好きなんやろ?」を溢れさせています。これまた大量にあるデータから導かれる「どうせお前こんなん好きなんやろ?」はかなり正確で、日常生活を便利にしてくれますし、そこで偶然に出会ったものが自分にとってすごく価値のある何かだった、ということもきっとあるでしょう。その効用の大きさは、いまさら素人が書き連ねるまでもありません。

それを認めた上で、僕個人としては、「確かに好きだけど、それはお前が決めることじゃない」と反抗しているのです。見たいものだけ見ていられる世界だからこそ、「見たいもの」から自由でいたい、と意識しています。この類のテクノロジーはこれからも発展していくでしょうし、その恩恵を与ろうとは思っていますが、それでも自分の欲望や興味関心をテクノロジーに決められたくはない、という意識は崩さないでいたいです。せめてそれくらいは自分で決めさせてくれ、というところです。この点に関してはそこそこ徹底していて、Twitterのいいね欄に思想が出ないようにするとか、YouTubeのアプリは基本的に使わない(見たい動画はブラウザで見る)とか、半分ただの意地ですが、そういうことをしています。時々は「これってすごい損してるのでは?」と思うこともありますが、このちっぽけなプライドが大事なんだ、ということで、これからも同じように過ごしていこうと今のところは考えています。

根本的に、自分ができることを他人に任せたくない、という気持ちが強い、というところもあります。前回の記事では、ネット上の競馬予想の需要は「思考を他人任せにすること」にあると書いたのですが、僕は絶対に自分で予想したい派です。今回の話は、「自分の欲望や興味をAI任せにしたくない」という論旨なので、かなり似たようなことを言っている気がします。自由を標榜する母校・灘校では、判を押したように「自由には責任が伴う」と言われるのですが、僕としては、「自由な思考・欲求とそれに対する自己責任が、自分なりの人間らしさである」ということを思う次第です。

(司法修習に行くまでに、少なくともクイズについて(作った問題の公開も含めて)と、競馬と税金の話は書き上げたいと思っています。)

君たちは「ネット予想家」を知っているか

お久しぶりです。司法試験が終わり、人生最大の暇を謳歌しているあいとーです。

たいへん唐突ですが、そんな自分の暇な時間を彩ってくれるのが競馬です。僕は中央競馬しかやっていないのですが、それでも土日の朝から夕方までたっぷりと楽しむことができるという優れものなのです。今や阪神や漫画と比肩する最大の趣味の一つとなっています。

さて、この頃の競馬の話題といえば、ハズレ馬券が経費になるのか、ということについての論争がありました。このことについて書こうとも考えているのですが、大学を追い出されたためにタダで法律の本を見るのが難しくなってしまい、なかなか進んでいないのが現状です。そういうことなので、今回は「競馬予想家」というニッチな世界に関して現状分析をしてみようと思います(競馬の色々についても書いていましたが、これは下に回しました。競馬そのものに興味がある人はぜひ読んでみてください。)。基本的に個性を捨象した記述なのでご了承ください。

 

ウマ娘の爆発的人気もあり、SNS(特にTwitter)で競馬について触れる人は増えてきているのではないでしょうか。そんなTwitterの競馬界隈には、「予想家」と言われるような活動をしている人が一定数います。彼らの中でも、例えばフォロワーの数に表れるような、他者への強い影響力を持っている方々を「ネット予想家」と呼ぶことにして、話を進めていきましょう*1*2

競馬の界隈に詳しくない人からすると、「予想って自分でするもんじゃないの?」「ネット予想家って何をする人なの?」と疑問に思う声があがりそうです。自分も、競馬を知らなかった時は、「ネット予想家」の存在など全く知りませんでした。しかしながら、フォロワーが万を超えるようなネット予想家も少なくないように、彼らを取り巻く界隈はけっこうな規模を持つものなのです。これはちょっと面白いんじゃないか、ということで、この記事では「ネット予想家」の存在の謎に迫ってみようと思います。

騎手による競馬予想が公式に禁止されて以来、日本の中央競馬*3では、「競馬評論家」なるプロの人や、スポーツ紙の競馬担当の記者が、テレビや新聞、雑誌で予想を語る、というのがほとんどでした。

しかし、SNSがすっかり浸透した現代、市井の競馬ファンでも、他人に向けて予想を公開している人は少なくありません。改めて、そのような人の中でも影響力のある人を指して「ネット予想家」と呼ぶこととしましょう。無料で予想を発表しているネット予想家も一定数いますが、中には、的中の実績を引っ提げて有料で予想を売っている人もいます。また、そのような有料ネット予想家の予想を集めるポータルサイトも存在しています。さらに、彼らのほとんどは副業としてネット予想家をやっているため、プロではなく、素人(アマチュア)であるということになります。

なぜこれだけ素人がのさばっているのか、というと、競馬予想は誰でもできるから、というのが当然あるのですが、もう一つ大事な理由が存在します。それは、(ネット予想家を含む)一般の競馬ファンには「しがらみ」がないということです。記者たちは、現場の取材に始まり、スポーツ紙の記事執筆やテレビの解説者など色々と仕事をしていますが、そのために人気馬を悪し様に言うことはあまりできません。例えば、しばらく後になって、前走の時は実は状態が整ってなくて…といった情報が出てくることも珍しくありません。現場と良好な関係を築き、馬券の売り上げに貢献する役割も担う記者には、情報発信の上で制約が課せられているわけです。その点、ネット予想家は競馬の現場とは何らの関係もない人がほとんどなので、忖度なく予想に取り組めるのです。その強みが、ネット予想家の存在の前提であると言ってもいいでしょう。

 

さて、彼らが有料又は無料で公開している「予想」とは何なのでしょうか。この答えは単純で、「予想の印」(どの馬を本命にして、その他に紐としてどんな馬を買うのか)と「見解」(なぜその馬を本命にして、どのように紐の馬をチョイスしたのか)です。加えて、人によっては、「自信度」(的中の見込みや、期待値の高さ)や「買い目」(印をもとにして、どのような馬券を買うか)も併記しています。

では、予想を見る人、特に買う人(以下では彼らを「予想の消費者」と呼ぶことにします。予想を買うことはないですが、僕も予想の消費者の一人です。)の動機は何なのでしょう。一番最初に思いつくのは、やはり「お金を増やしたい」ということです。馬券で生活費を稼ぐ人はほとんどいないでしょうが、ちょっと美味しいご飯食べれるくらいのお小遣いが欲しい、という人はけっこういそうです。

ここで、前提として、馬券で勝つのは相当に難しいという事実があります。馬券の払戻総額は、(同着がない場合)ある券種の総券面金額に、所定の払戻率を掛けた額となっています。ここで控除された額はJRAの運営費と国庫納付金として使用されるのです。この仕組みにより、競馬における回収率の平均は約75%であると言われます。標準偏差がどの程度の値かはわかりませんが、直感的に、回収率90%を超えれば充分優秀であり、100%、110%を超えてくるのはほんの一握りであると考えられます。

そうすると、予想の消費者たちのほとんどは、競馬で勝つことができない人であるということになります。翻って、ネット予想家はみんな100%という高い壁を越えているのかというと、どうやらそうでもないようなのです。回収率を公開している人自体多くないので、実体は不明ですが、特に予想の買い目に限ってみると*4、100%を超えているのは相当手練れの有料予想家だけだろう、というのが所感です。例えば、上でも紹介したポータルサイトの一つでは、「期待値レベル」という概念がありますが、同サイトに予想を提供している予想家の買い目の回収率を、期待値レベルによる限定を外して見てみると、100%を超えている人はほとんどいませんでした。結局、予想の消費者も、ただネット予想家に丸乗りするのでは100%の壁を越えるのは難しいと言えます。そして、丸乗りはせずある程度自分で考えるとしても、同じような結果が待っていることは言うまでもありません。

以上に書いたようなことは、初めはわからなかったとしても、長期的にみれば、予想の消費者にとって明らかな事態であるはずです。だとすれば、予想の消費者が予想を見る、または買う動機は、「お金を増やしたい」という希望(希望的観測)には留まらないと考えるのが妥当でしょう。全然興味のない人からすれば、勝てもしないのにどこの馬の骨ともしれない人の予想を見たり買ったりするのか不思議に思われるかもしれません。この点、私見では、メンタル的な部分が大いにあるのではないか、と考えています。

競馬の予想は、マジメにやろうとすると、意外と考えるべきことが多く、難しいものです(そこが醍醐味でもあるわけですが)。展開を考えたり、馬場状態を見たり、血統や調教を参考にしたり、とパッと挙げるだけでもなかなかややこしいです。それらの情報を効率的に分析するには多少のお金と時間がかかります。そのくせ、そんなに当たらないし、当てても勝つのは難しい。そうなると、ある程度の割合の人、特に「ちょっと競馬に詳しくなってきた人」*5にとってみると、自分で予想するという行為はストレスの方が勝っているのではないでしょうか。

そんな中で、ネット予想家のTwitterやnoteを見ると、もっともらしいことが書いてあって、時には買い目まで教えてくれているわけです。予想を読んで、「なるほど、確かに」と納得すれば、自分で考えるストレスを抱えることなく馬券を買うことができます。その上、外れても自分(だけ)の責任ではなく、ネット予想家に責任を転嫁することができ(これは実際に文句をつけにいくということでなく、あくまで消費者のメンタルの問題です)、その意味でもストレスを軽減することにつながります。当たった場合には、もちろんお小遣いが増えて嬉しいですし、「自分が乗る人を正しく選んで当たった」という達成感も得られます。

また、予想に丸乗りしなくても、自分のなんとなくの予想と近いことが書いてあれば、安心するものです。同じことを考えている人がいれば、それが客観的に正しい、ということにはなりませんが、それでも人は同志を求めるものです。ネット予想家のリプ欄を見ると、「見解同じで安心しました」「(予想が外れた時)次は当ててくださいね🥺」という類の返信が多く、「お前のせいで負けたわ下手くそ」みたいな返信は思いのほか少ない(馬券は自己責任なので、こんな批判は的外れではあります)ことは、以上に書いたことの表れではないでしょうか。

ここまでをまとめると、ネット予想家の予想を消費する最大の動機は、「諸々のストレスの軽減」にある、と僕は思います。ただし、その役割を担うためには、「この人の言うことは当たりそうだし、勝てそうだ」というイメージを作り上げ、それを崩さないことが必要です。それゆえ、自分の知る限り、ネット予想家となっている方々は、「(トータルで勝っているかは別にして)的中の実績があること」「見解に説得力があること」の2要素を満たしていることが多いです。

このように考察すると、ネット予想家の役割というのは、人間社会において物珍しいものではないということが言えます。時の人、ということで例を挙げると、ひろゆき氏も似たような立場にあると僕は考えています。彼は、今や「論客」としての地位を固めつつあります。「2ちゃんねるを立ち上げたという実績」があり、「なんとなく正しそうなことを言っている」と思わせる話し方ができる、ということが理由でしょう。それゆえに、多くの人が氏の提供する情報や、スタンスに価値を感じ、時には鵜呑みにするわけです。そこには、自分で正確な情報を調べるのは面倒だ、という感覚もあります。真っ当な学者などが、彼の発言の誤りを指摘し、それがバズることもありましたが、(フィルターバブルがあるとしても)その影響により、氏の立場が揺らぐという事態は今のところありません。

ここで大事なのは、氏の発言に「正当性がありそう」という「イメージ」であり、実際に正確な発言をしているかどうかはあまり意味がないという事実です。ネット予想家についてみても同じで、「この人の予想は当たりそう、勝てそう」というイメージが大事で、実際に彼らが予想を当てて勝っているかどうかは二の次ということです。Post-truthの時代を象徴するかのようですが、単に競馬予想の場合真実(正解)はレースが終わってからでないとわからないために、結果として構造が似てしまっている、という方が正確です。基本的には、悪意に満ちた世界というわけではない、とは言っておくべきでしょう。

しかしながら、残念なことに、馬券の捏造を駆使したインチキ予想家も登場しました。けっこう最近のことですが、何者かが、即PAT(インターネットで馬券が買えるサービスで、この記事の前提となっている存在)の的中画面を自由に作成できるサイトを作成し、これを利用した嘘の高額的中をエサにフォロワーを獲得、有料予想を買わせたり、オンラインサロンに引き込んだりといった詐欺まがいの事案がありました。彼らインチキ予想家は、しきりに「俺についてこい」的な発言をしていました。消費者を騙すことを真剣に考えただけあって、僕が上で書いたようなことを早い段階でよく理解していたのでしょう。騙す方が悪いのは当然として、勝てる予想家に思考を丸投げしたい、という人が少なくないために、このような事件が起こってしまったのだろうと思います。

ネット予想家にとっても、特に有料で予想を出す場合には、消費者を勝たせる、ということが至上の価値にはなります。しかしながら、実際に消費者を勝たせるのが簡単ではないという現実がある中で、ネット予想家が提供している最大の価値としては、先ほど触れたような、消費者のストレスを引き受ける、という点が挙げられます。その他にあるとすれば、「自力で予想する材料や方法を提供する」ことかな、と考えています。特に、先ほど予想の消費者のボリュームゾーンとして設定した、「ちょっと競馬に詳しくなってきた人」にとってみると、勝っている(と思われる)人の予想の思考や方法を学ぶのは価値のあることです。自力で勝てるようになるのが何より嬉しい、というのは、多くの馬券購入者が思っていることでしょう。かくいう自分も、色々な予想を消費することで、自分なりの予想・馬券購入のスタイルを作っていきました。後述しますが、丸乗りして勝つだけならもっといい方法が消費者にはある(あった)ので、このあたりが重要なポイントのような気がしています。

最近では、オンラインサロンを開くネット予想家も複数います。そこでの回収率の実態は謎に包まれていますが、競馬を楽しむコミュニティを形成する、という点では、一介のネット予想家とは異なる価値を提供できているのだろうと思います。もっとも、オンラインサロンともなると会員は「勝てる」と信じて入ってくるでしょうから、その信頼に応えることは必要になってきそうです。

 

ここまで、ネット予想家の消費者側の需要について考察してきましたが、ネット予想家当人たちにとって、予想を公開することにどのような意図があるのでしょうか。抽象的には、ネット予想家にとっては、「予想を公開することによって得られる効用>公開を停止することによって得られる効用」という状態が成り立っているだろう、ということが考えられます。そこで、その具体的な意味を明らかにしていきたいと思います。

少し話が逸れるようですが、皆さんは「競馬AI」なる存在を聞いたことがあるでしょうか。最近では、深層学習を用いてAIでの競馬予想をしている人(アカウント)が増えてきています。その精度についてはまさに玉石混淆といった様相ですが、初期の代表的なAI予想である「競馬AI 松風」は、凄まじい額を稼いでTwitterを去っていきました(詳しく知りたい人は「競馬AIでポルシェを買う話」と検索してください)。

(競馬AIについては、馬券と税金の話においても重要な存在です。かなり大雑把に言ってしまうと、競馬AIの場合は自動購入・大量購入なので、外れ馬券も経費として扱ってよい(=実際の利益にのみ課税される)ということになります。)

その「松風」と並び有名なのが、「競馬AIゆま」というものです。このうさんくさそうなのはなんなんだ、という方に説明すると、バカみたいに当たるAI予想を、馬券発売の締め切り前に無料で公開してくれる優れものです。その存在があまり知られていなかった頃はよかったのですが、最近ではゆまの優秀さが多くの人に知られることとなり、ゆまのツイート後のオッズ変動が凄まじいことになっていました。例を挙げると、先日の地方競馬のレースでは、単勝オッズ15倍だった馬をゆまが軸として指名し、最終的には3.4倍になった上に無事勝利するという出来事もありました。さらに、大量購入するAI予想では、ほとんど全レースを買うことになる(先の税金の取り扱いの関係)中で、それでも100%、どころか110%を超える回収率を誇るのが凄まじいところです。たいていの競馬ファンやネット予想家は、勝負レースを絞って買った上でなかなか100%を超えないということを考えると、AI予想の正確性には度肝を抜かれます。

そんな「競馬AIゆま」ですが、2022年8月末をもって公開を停止するとの発表がありました。ブログにおいてその理由が書かれており、様々な憶測も飛びましたが、自分なりに端的に解釈すれば、「有料で公開する方式に変えることによる効用を、公開を停止することによって得られる効用が上回っていると判断したから」公開を停止したのだと思います。既に馬券で相当の資産を得ており、馬券の購入資金も一般人より遥かに多いのだとすれば、1レースでいくら、月でいくらと決めて人々に購入してもらうことで得られるだろう利益よりも、予想の公開が生むオッズの低下による損失の方が大きいのでしょう。その上、予想を参考にして馬券を当て、感謝の意を述べてくれる人が多くいる一方で、公開しなければ予想の当たり外れでいちいち叩かれることもなくなるため、精神的な安定という意味で後者を重視したのだろうと思います。

ここで、改めて言明しておくと、ネット予想家にとっては、「予想を公開することによって得られる効用>公開を停止することによって得られる効用」という状態が成り立っているということが推測されます。ゆまの事例と対照しながら、「予想を公開することによって得られる効用」について考えてみましょう。有料ネット予想家にとっては、予想が購入されることによって得られる額が相対的に大きいとは思われます。人力で回収率100%を超えることが難しいという現実からも、有料予想の売り上げに期待するところは、ゆまよりも大きくなるのではないでしょうか。とはいえ、ほとんどのネット予想家は、副業として予想家活動をしているので、この点がメインの理由とはならないと考えるのが妥当です。

無料有料を問わず、予想を的中させ、(可能であれば消費者を勝たせ、)消費者に感謝されることで承認欲求が満たされるということがあります。この点が、最も重要なポイントだと考えています*6。自分の趣味、好きなことをして他人と交流したり、時に感謝される、というのは、Win-Winの関係であることも含め、素晴らしいことだと言えます。もっとも、その関係を保っていくには最低限的中させ続けなければいけないわけですが(イメージの問題)。先に述べたように需要はけっこう大きいので、承認欲求を満たすフィールドとしては、かなり優秀なんじゃないかなという気がします。

今度は、「公開を停止することによって得られる効用」について考えてみます。消費者に叩かれることがなくなる、ということがまずは言えそうです。その評価については、個人の性格によって異なってくるので、何とも言い難いところではあります。一方、ゆまにはあった、いわゆる「オッズ破壊」がなくなるという利益は、一介のネット予想家にとっては気のせい程度しかないように思われます。無料で予想を出したところでフォロワー全員が丸乗りするわけでもないし、有料予想でも、丸乗りする割合は増えても、絶対数が減るので、(少なくとも中央競馬では)オッズを動かすほどの影響力のある人はいないと言っていいでしょう。

色々と考えてみると、ネット予想家が自ら予想の公開を止めることは、基本的にはあまり起こらないことだろうと結論付けられます。承認欲求を満たしつつお金も稼ぐとなると、やってることは普通のインフルエンサーと似ているので、当然といえば当然です。SNSの発展により、承認欲求の存在が強く意識されるようになり、もはや当たり前のものとして受け入れられるまでになりました(そのことの是非について語るものではありません)。ネット予想家は、ビジュアルの強さや、面白さではなく、見解の巧みさや的中実績によって、承認欲求を満たす存在だ、と言うことができるでしょう。

 

ここまで、ネット予想家の現在地がどんなものかについて私見を述べてきました。一見謎の存在に思えるネット予想家は、ギャンブルに関わるもの、という点は特殊でありながら、その需要という面においても、本人たちの動機という面においても、まさに現代らしい典型的な存在である、ということが明らかになったのではないかと思います。さて、最後に、ネット予想家が与えた影響と、その未来について考えてみることにします。

最近馬券購入者の間でよく言われるのが、「オッズが辛い」ということです。これは、先に述べた「オッズ破壊」の問題とは似て非なるもので、そのレースで有力であろう馬が、順当に売れているということを意味しています。そして、オッズが辛くなる理由として、競馬民全体の予想レベルの向上がある、と言われています。競馬番組の内容、スポーツ紙の内容なんかは昔とさほど変わりがない中で、ファンの予想が上手くなったのは、広くは情報化社会の進展が要因であり、具体的には、網羅的なデータベースの登場と、優秀なネット予想家たちの影響が大いにあると思われます。前者によって正確な予想をする素地ができ、それを利用したネット予想家が、馬の能力や適性、コースの特徴を捉えた予想で成果を挙げていき、その影響が今や一般の競馬ファンにも浸透している、ということだと理解しています。

このように、ネット予想家の功績が大きい一方で、そのために一般の競馬ファンが勝つのがますます難しくなり、ネット予想家の方も簡単には生き残れないという環境が作られてしまった、というのが現状だと言えるでしょう*7。「この人は当ててくれそうだ」というイメージを保つのが困難になった、ということです。今後のネット予想家がどうやってサバイブしていくのか、と考えてみると、オッズの辛さをものともしないような「勝てる」予想をするか、他のネット予想家にはないファクターを活用して、独自の地位を築いて生き残るか、あるいは粗品ばりの「おもしろ枠」として活路を見出すか、といった方向性がありそうです。他にも、徹底的に「逆神」になるスタイルもありそうです。これはいつの世にも通用する面白さを備えているので、悪くない方法に思えます。

ただ、自分としては、ネット予想家の最大の需要は「思考の丸投げ」「ストレスの引き受け」という点にあると考えているので、ネット予想家が消え去ってしまうことはないだろう、とは考えています。払戻額の控除率が変わることもないでしょうし、人間のメンタルの根本からきているだろう需要がなくなることはないからです。また、既に述べたように、承認欲求を満たすフィールドとして優秀(努力でなんとかできる部分が大きく、需要も大きい)なので、ネット予想家の数(供給)も、減ることはないでしょう。もっとも、ネット予想家を求める消費者においては、予想家が的中した時にはしっかりと感謝の気持ちを示すことが必要であり、そうしなければ、この界隈自体がどんどんとしぼんでいくことになるのだろうと推測されます。

言いたいことは以上です。これを読んで、競馬と、謎多きネット予想家の世界を少しでも面白いと思ってもらえれば何よりです。

 

 

・・・

まず、競馬にのめり込むきっかけから書いていくことにします。大学2年生、2019年の秋のこと、クラスからの友人が「今年の秋の天皇賞が超豪華メンバーだから観に行こう!」と誘ってくれました。当時の僕は、競馬番組はおろか、超有名なレースすら一度も見たことがないというド素人だった(クイズの前フリで、「父キングカメハメハ…」ときたら「アパパネ(史上三頭目牝馬三冠馬)」と答えるというような浅すぎる知識しかありませんでした)のですが、実際に競馬場に行く機会なんてなかなかないだろう、ということで行ってみることに決めたのです。これが全ての始まりでした。

初めて行った東京競馬場は、およそイメージしていたような小汚い場所ではなく、とても綺麗に整備されていました。当日は10万人を超える人数がいて、メインの天皇賞・秋はまともに観るのも難しい状況でしたが、それでも全力で走る馬が地面を踏みしめる音の迫力には、自然と心動かされるものがありました。実際に馬が駆け抜けていく光景を目の当たりにした時の感慨というのは、時代を問わない普遍的なもののように思います。そして、素人の僕は当然のように5000円負けて帰りました。それでも「二度と競馬なんてやらない」と思わなかった時点で、既に競馬沼にハマっていたのでしょう。

競馬に詳しくなっていくと、想像以上にたくさんの予想のファクターがあることを知ることになります。色々な要素が複雑に絡み合ってレースの結果が決まり、また次のレースへと向かっていく、という競馬のプロセスは、まるで人生のようだと僕は思っています(数ある娯楽の中でも、競馬と麻雀は特に人生っぽさがあるというのが持論です)。それを説明するべく、予想に使われる様々な事柄についてみていくことにしましょう。

人間界においても、最近つとに「親ガチャ」という言葉が広まっています。そして、競馬の世界、すなわちサラブレッドの世界においても、血統や育成環境がモノをいう領域は多いです。優秀な父か、優秀な母か、どの牧場で生まれ、どの厩舎に入るのか、といったところがパッと挙げられるでしょうか。父母の馬場、距離への適性や、育成、調教の方法が、その馬の能力や個性を形作る面は大きいです。馬に自主的な「努力」の観念を容れる余地がないので、当然と言えば当然なわけですが…。能力の限界とは別に、一生懸命に走れる馬と、そうでない馬とがいますが、「努力できるのも才能/遺伝」と言ってしまえば、それまでかもしれません。

もう少し馬の「能力」について深堀りしていきたいところですが、その前提として、いくつか競馬の基本的な知識について押さえておきます。

  • 競馬は主に「芝」「ダート」「障害」の3種類のレースがあります。日本では芝が花形ですが、アメリカではダートがメインですし、ヨーロッパでは障害レースが平地(障害以外のレースのこと)より人気なこともあります。
  • 平地競争の距離のカテゴリーとしては、おおよそ短距離、マイル、中距離、長距離に区分でき、オープンレースや重賞、その中でも最も格の高いG1のレースも、それぞれの路線で用意されています。重賞以外にも多くのレースがあり、勝利数によってステップアップしていく「条件戦」として行われています。キャリアの浅い2歳から3歳前半あたりまでは、1勝するだけでも重賞に歩を進められますが、基本的には4勝を挙げることで「オープン入り」し、格の高いレースに向かっていくことになっています。ほとんどの馬は1勝もできずに終わり、オープン入りできるのは限られた馬だけです。条件戦においても、いい着順を取れば、賞金を稼ぐことができます(なお、日本では地方競馬も含め、世界の中でもトップクラスの賞金が得られます)。
  • さらに、2歳から3歳までの若駒が競い合う「世代限定戦」も存在します。「クラシック三冠」「牝馬三冠」といったレースは世代限定戦であり、有名な日本ダービーもその一つです。対して、例えば有馬記念は3歳以上の馬が一堂に会して戦いますが、このようなレースは「古馬戦線」に位置づけられます。世代ごとのレベルにも差がありますし、早熟な馬もいれば晩成の馬もいます。
  • 日本の中央競馬には10の競馬場があり、それぞれ直線の長さやコーナーの角度、坂の有無など個性が豊かです。そしてどの競馬場にも多彩なコースが設定されています。また、雨が降って路盤に水を含んだり、強い風が吹いたり、使い込まれて芝が痛んだりすることで、同じコースでも様相が変わってきます。
  • 競走馬の血統は、基本的に父系と言われるもので、ざっくりと分けると4種類になりますが、様々に分化した小系統がたくさんあります。そして、それぞれの血統が持つ特徴、伝える能力は千差万別で、そのために得意な条件と苦手な条件が生まれてきます。大レースが多い芝中距離に強い血統(「良血」と言われるのはこういう血を持っている馬が多いです)もあれば、ダートの短距離で活躍する血統もあります。よく参照されるのが5代目までの血統表で、どんな系統の馬がいるかや、同血の馬が複数いる「クロス」が大事になってきます。
  • 基本的に競馬は前に行った馬が圧倒的に有利です。ただし、ペース(ラップの推移も含む)や馬場状態によっては前の馬にかかる負荷が大きく、後ろにいた馬が差してきやすいこともあります。ハイペースに強い馬もいれば、スローペースに強い馬もいます。

ざっとこんなところでしょうか。長くなってしまいましたが、これだけの知識を入れると、ひとえに「能力」といっても、方向性が一定ではないことがわかってもらえると思います。人間についても、運動ができる人、勉強が得意な人、絵が上手な人、など多種多様な才能があるわけですが、競走馬についても同じようなことが言えます。短距離が得意な馬、長距離が得意な馬などの個性があり、距離の適性には限界があります。例えば、1200m、1600m、2000mのG1を全て勝った馬は日本にはいません。さらに、勉強が得意といっても、科目ごとに得手不得手があるように、競馬においても、同じ距離のレースなのに、コースの違いや天候、ペースによって求められる能力が変わってくるということがあります。そのために、多彩な血統が存在し、小さな牧場も生き残ることができているのです。「良血」と呼ばれる馬が常に強いわけでもないし、雑草とみられるような血統の馬でG1を勝つことも可能です(重賞で、地方競馬の馬が中央競馬の馬をなぎ倒すこともあります)。障害レースにおいても、平地の実績で勝る馬が強いとは限りません。多様な才能が肯定されるのは、競馬の素晴らしい側面と言えるのではないでしょうか。

(とはいえ、いい成績が出せず登録抹消となり、乗馬にもなれず繁殖にも上がれなかった馬が、ほとんど屠畜されるという現実もあります。サラブレッドは経済動物なので、ショッキングではありますが仕方のないことなのです。アニマルライツ、アニマルウェルフェアといった概念の浸透もあり、引退した競走馬への支援は、JRAが行うものから民間が行うものまで、昔に比べれば色々と拡大していますが、それでも限界があるのは確かです。)

競馬の場合、「努力」をするのは馬に関わる人々の方でしょう。競馬に携わる人の中で、一番イメージがしやすいのがジョッキーです。ジョッキーにとっては、騎乗技術を磨くことも大事ですし、自分が乗る馬についてはもちろんのこと、走るコースのこと、当日の馬場状態(どこが走りやすいか、といったこと)、他の馬や騎手のことなど、頭を使って考えなければならない事柄が色々とあります。馬の能力の違いもありますが、力差がそこまで大きくなければ、騎手の腕が着順に小さくない影響を与えると言えます。面白いのは、馬に乗るのが上手でも、馬を勝たせるのが上手とは限らない、ということです。努力の方向性がズレていると結果に繋がらない、というのは、人間の世界と共通するものがあるように思われます。

それ以外にも、調教師や調教助手、育成牧場のスタッフなど、馬の仕上げ、すなわち馬が持てる能力をしっかりと発揮させることに力を注ぐ人たちがいます。常に100点満点の状態を保つのは難しいので、仕上げ切らずに出走させる「叩き」を入れることもありますし、体質も考慮して長い休みをとって仕上げ切ることもあります。いずれにせよ、馬の能力・適性を見極め、目標とするレースに一番いい状態で出走させられるのが理想です。ただ、経済動物という目線からすると、馬主にとっては安定して賞金を持ち帰ってくれることも非常に大切(馬の維持費はバカにならないのです)で、調教師としては、どのくらいの状態でどの程度走らせて、いつ休ませるかといったことも考える必要があります。人間も、自分の適性を見極めるために様々な事柄を学び、経験することが大切ですし、適度に休みを入れたり、肩の力を抜くことも必要です。

ここまで才能/環境、努力の要素について書いてきましたが、当然のことながら運の要素も多分にあるのが人生であり、競馬も同様です。適性の話ともつながりますが、晴れの良馬場で走らせたい馬なのに、雨が降って重馬場で走らなければならなくなることもあります。能力が高くても、ゲートを出た時に躓いてしまって、苦しいレースを強いられることや、騎手が落馬して競走中止になってしまうこともあります。さらに、他の馬の動きやアクシデントによって、進路がなくなったり不利なコース取りをさせられたりすることも珍しくないです。ともかく、その時々の1回のレースにおける、上にあげてきたような不運は、甘んじて受け入れるしかないのです。

 

長きにわたって競馬における様々な要素を説明してきました。予想をするときには、これらの要素を組み合わせながら考えていくことになります(あくまで理詰めで予想する前提で、フィーリングやオカルトで予想を楽しむこともあります)。具体的には、馬場読み、展開読み、血統、騎手の得意条件、調教、過去レースでの好走や不利の回顧などが挙げられます。しかし、全ての要素を合わせて考えるのは、時間もかかりますし、各要素の重み付けも非常に難しいので、例えば馬場状態、コースの特徴を前提に血統メインで予想する、というように、多少単純化した方法をとっている人も多いです。

ただ、個人的には、なるべく全ての考慮要素を総合して考えたい、と思ってしまいます。そうやって頭を使う方が、競馬に関わっている、という当事者意識を持てる気がして楽しい、ということが大きいです。自分や他人のことをもっと知りたい、というのと同じように、馬についてもっと知りたい、という知的好奇心もあるのかな、と思います。「調教はめちゃくちゃいいけど、適性が合わないんじゃないかな…」などと考えて失敗し、悔しい思いをすることもままありますが、仮説と検証を繰り返すというプロセスの面白さが勝っていると感じています。

予想の仕方というのはこんなところになりますが、より重要なのは馬券の買い方です。なんだかんだと綺麗事を言っても、馬券を当ててたくさん勝つことで、お金も増えるし脳汁も出るというものです。そのために最も大事なのが、しっかりと期待値を取ることで、どういう馬を狙い、どの券種を使って何割くらい的中させたいか、ということは個々人の性格によって変わってくるところかなと思います。

ここでいう期待値は、非常に単純なもので、何倍になる馬券が何%の確率で的中するのか、で計算されます。もっとも、的中確率はあくまで主観です。実際の客観的な的中確率が存在すると仮定したときに、主観的な的中確率を実際のものにどれだけ近づけられるが予想の上手さであると言うことができます(客観<主観になると、実際には期待値の取れていない馬券を買ってしまうことになりますし、客観>主観になると、実際には期待値が取れている馬券を買い損ねてしまうことになります)。

その上で、オッズはつかないけど的中確率の高い馬券を買うか、的中確率は低くてもオッズは高い馬券を買うかは人それぞれです。前者は1回でも外れた時には辛い思いをしますし、後者は長い間外し続けることも珍しくない(独立事象)、という辛さを味わうことになります。ちなみに、自分は資金力もなく、一気に大金失う方が辛いタイプなので、少額で参加レースを増やして穴狙いをするスタイルでやっています。予想がピタっとはまって大きな馬券を獲れた時の気持ちよさは、難しい問題で一人だけ正解(あるいは最もいい答え)を出した時のような感覚です。

馬券を買うのには抵抗のある、という人は多いと思いますが、理詰めで考えて予想し、的中させるという営みは、なかなか魅力的なものだ、ということは伝えておきます。まあ、どうせ頭を使うならちゃんと学問に向き合う方がほとんどの人にとってはいいとは思いますが…笑。

 

 

*1:YouTubeで同じようなことをしてる人も少なくありません。ただ、競馬YouTuberの場合、予想そのものよりも購入する過程や結果を共有し、エンタメとして見せる人が多いので、方向性がちょっと違うのかな、と考えています。

*2:また、Twitterでも予想ではない情報提供をメインにされている方もいます。彼らは「ネット予想家」には含まれないという前提で話を進めます。

*3:海外では、公認・合法の予想家が活動していますし、地方競馬には「場立ち」と呼ばれる人がいるのは有名です。

*4:個人で買っている馬券全体、ということになると、一般の競馬ファンに比べればプラスの人の割合が多いだろう、とは思います。

*5:ウマ娘から入ったり、何かの馬のファンになったりで競馬を始めたライト層にとってみると、わざわざ競馬予想を見ようなどと考えないだろう、という意味も込めて、この表現になりました。Instagramで競馬予想がイマイチ広がらない(例えば、1万フォロワーを超えるような予想家はほぼいない)のは、このような層の違いにあるのだろうと思います。

*6:その他にも、単純に自分の意見をまとめて文章に起こし、それを公開すること自体の楽しさはあると思います。競馬予想という行為自体に最大の楽しみを見出し、それをブラッシュアップしていきたいという人もいそうです。

*7:ゆまの公開停止によってまた流れは変わるかもしれませんが。

タコピー人気に物申す!

お久しぶりです、あいとーです。無事東大法学部を卒業することが決まりました。だからというわけではないですが、今回1年以上ぶりに記事を書いています。

前回からのつながりでは、予備試験についに合格したというのが大きな出来事なのですが、まだあんまり書くことが思い浮かばない現状です(司法試験終わったらなんか起こるかもしれません)。

本当は、高校生の時にクイズをしていたことを振り返る記事と共に、自分が作ったクイズを載せるという大変楽しい記事を書こうと思っていたのですが、ネタばかりが積みあがって全然問題を作っていないのでとりあえず棚上げ状態です(これも司法試験が終わってからやることになりそう)。

それでもそろそろ何か書きたいなあ、という気持ちでいたところ、先日とある先輩が「ジャンプラ漫画は人工的過ぎる」という旨のツイートをされていたのを見て、「これだ!」と思い、今回筆を執った次第です。僕はけっこう逆張りがちなタイプなので、『タコピー』も面白いけどなんか胡散臭いね、なんて心の中で思っていたことが、端的に表現されていたので、共感を込めてこの記事を書いていくつもりです。

(しばらく前置き)

ここ数年で、Web漫画(ここでは、主としてオリジナル作品を指します)という媒体は、電子書籍スマホの普及と共に、著しい進化を遂げてきました。振り返ってみれば、かつてのWeb漫画は個人サイトや新都社で、きわめて個人的な作品として描かれてきました。僕が昔記事にして紹介したのも、そういうWeb漫画的古典の流れの中にある漫画たちでした。絵のうまさも不要、表現規制もない、という中で、王道からはずれた人気作品も多数ありました(長門は俺(=藤本タツキ)の『ムリゲー』も、2014年の作ですが、その類な気がします)。

そんな混沌としたWeb漫画界に大手出版社が参入してきたのは2012年のことです。「裏サンデー」や「となりのヤングジャンプ」が、それぞれ『ケンガンアシュラ』『ワンパンマン』といった後の人気作品を引っ提げてオープンしたのがこの年でした(ちなみに、いずれも原作者は新都社出身です)。さらに、『Re:Life』で人気を博したcomicoがオープンしたのが2013年10月で、スマホベースのWeb漫画はこのあたりから盛り上がってきたと言えそうです。その翌年、「少年ジャンプ+」や「マンガワン」など大手出版社のアプリがスタートし、今に至るまで、オリジナル作品が連載され続けています。最近では、アプリ出身の作家が本誌に移籍する例(『チェンソーマン』藤本タツキ)や、逆に本誌で連載経験のある漫画家がアプリで連載する(『SPY FAMILY』遠藤達哉)という例もちょこちょこあり(ジャンプ系で顕著な現象な気はしますが)、いよいよメジャー化してきているのだなあ、という印象です。

(ここまでは余談です)

そんな中で、特に今ネットで話題の漫画といえば、そう、『タコピーの原罪』(タイザン5)です。巧妙に張り巡らされた数々の伏線と、ポップな絵柄とダークな設定の奇妙な調和が、人々の心を掴んで離さないようです。作中の非現実的な設定(「ハッピー星人」やその道具)は、単に話を進める梃子となるだけではなく、キャラクターたちの後ろ暗いリアルな設定を際立たせているように思います。そして、随所に現れる対比的な構図と、衝撃的な一枚絵が、「引き」を作って読者を楽しませています。

こうやって書くと、褒めてるだけになってしまいますが、僕も実際『タコピー』がつまらないと思っているわけではなく、むしろ面白いし続きが気になるとは思っています。ここで問題にしたいのは、そういう計算され尽くした面白さと、それに乗っかって起きているビッグウェーブについてです。

『タコピー』の設定は極めて露悪的です。テーマとしては、いじめ、毒親、コンプレックスなどなど。登場するテーマとしては離れますが、昨年話題を呼んだ藤本タツキの『ルックバック』も、この露悪、という面では共通するものがあると思います。これまでにも、いわゆる「鬱漫画」という括りで様々な作品が語られてきました。ただ、個人的に、うまく言葉にするのは難しいのですが、これまでの鬱漫画とは異なる性質を、『タコピー』は持っていると考えているわけです。鬱漫画マニアの人からすると、大した違いではないのかなと思いますが、そういう人たちのことは置いておいて話を進めます。

さて、鬱漫画の際たる例としては、浅野いにおの『おやすみプンプン』が挙げられます。この漫画は、鳩サブレーみたいなビジュアルの主人公などのシュールな表現と、対照的な暗いストーリー展開、というところで、なんとなく『タコピー』と対比できる部分があるような気がします。知った風に書いていますが、『おやすみプンプン』は読んでいてしんどくなったので、最後までは読んでいません(すいません!!)。ただ、この「読んでいてしんどくなる」という感想が生まれるかが、両者の差なのではないかと思うのです。『プンプン』は、鳩サブレーにして生々しさを軽減してはいるけれども、しかしやっぱりどこかで自分事として捉えて読んでしまうところがある。

翻って、『タコピー』はどうでしょう。絵柄は『プンプン』(とか『ミスミソウ』)に比べるとフィクション寄りです。そもそも、自己省察的な場面自体が多くなく、回想シーンとしての不幸な環境が主としてピックアップされています。更に、作中では、人間社会のドロドロに無知であるタコピーが、暗い場面に現れては的外れな発言をする場面がいくつか見られます。このような表現によって、「最悪」はキャラクターの中に押し込められ、読者にとって他人事となっているのではないでしょうか。言い換えると、読者が受け取るのは、社会における「最悪」のテンプレに過ぎない、ということです。単に自分が恵まれていて、この漫画内のシチュエーションへの共感能力に劣るという面は否定できないものの、これまで説示してきたような仕組みも確かに存在しているのではないでしょうか。実際Twitter上でも、『タコピー』は読んでるけど『プンプン』はリタイアした、という人がわりといるように思います(凄く暇な人は調べてみてください。ちなみに、『ミスミソウ』は、『タコピー』と比較する投稿自体『プンプン』よりはだいぶ少ないです。)。そもそも、『タコピー』は本質的には鬱漫画ではなく、『明日カノ』とか『ヒマチの嬢王』の系統に位置している、とも言えそうです。役に立たない道具の存在によって、超常的な力による救済を否定している、という点が、そこはかとなく鬱漫画っぽいというだけなのかもしれません。

少し脱線してしまいましたが、そういう意味で、『タコピー』の読者の多くは、「最悪」なものに対して「つらい」というお気持ち表明をするだけで済む、ということになります。それによって、多くの読者は自己について顧みることなく、「最悪」について語ることができるようになります。それこそが、鬱要素を多分に含む『タコピー』がバズるための前提条件なのだろうと思います。そして、他人事の「最悪」というベースに巧みな漫画テクニックを惜しみなくぶち込んだ存在である『タコピー』は、設定は重いのに、手軽に読めて、手軽に考察できて、そのことでネットのみんなで盛り上がって気持ちよくなる、という非常にわかりやすい構造を見事に作り上げています。「(~~という表現について)漫画がうまい」「最悪すぎる」など、知った風な感想がTwitterで飛び交っているのをよく見かけます。作品自体に魅力がなければ、こんなに話題にはならないということは前提とした上で、『タコピー』はメタ的な部分での話題を途切れさせないようなつくりであるということが言えるでしょう。穿った言い方をすれば、日々ちょっとした嫌な思いをしている一般市民の「これがわかる(一人称)ってすげー」的な承認欲求を発露させるのに極めて長けた漫画であると僕は思います。それが悪いことだとは思いませんし、現代的需要に完璧にフィットしていて賢いなと感心はします(作中のシチュエーションと同様の目に遭っている人々にとって、問題を矮小化しているという批判はありえます)。単純に、そういう構造があからさま過ぎて、ちょっと怖いなあ…という好き嫌いの問題です。実際、ここに書いたようなことはみんなわかっていて楽しんでいるっていう人もいるでしょうしね。この記事で僕がしているのは、アンチ味の素的な主張であって、まさしく逆張りという他ありません。

ちなみに、『タコピー』はいろんな意味を取れそうな終わり方をして、Twitterが盛り上がるのではないかと思います(これですごい綺麗に終わったとかだったもう敵いません)。またそのうちお会いしましょう。さようなら。

https://www.amazon.co.jp/%E8%AA%AD%E3%82%93%E3%81%A7%E3%81%84%E3%81%AA%E3%81%84%E6%9C%AC%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E5%A0%82%E3%80%85%E3%81%A8%E8%AA%9E%E3%82%8B%E6%96%B9%E6%B3%95-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%94%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%AB-%E3%83%90%E3%82%A4%E3%83%A4%E3%83%BC%E3%83%AB/dp/4480097570

等身大を生きる

人間の性格というのは、まさに千差万別である。巷ではMBTI(なんかアルファベットで16種類あるやつ)でキャッキャしている人が多いが、個人的には気分によって結果が変わるところがあり、どうも腑に落ちない。しかし、自分は人間の性格を、大雑把には2パターンに分けられると思っている。その分かれ目は、その人がサリンジャーを好きかどうか、ということだ(誰それ、とか読んだことないという人も、仮に読んだとすればどう思うか、ということでこの分類の枠内に入れることができる)。サリンジャーというか、言ってしまえば『キャッチャー・イン・ザ・ライ』(ここでは村上春樹訳を想定している。以下『ライ麦』)を気に入るかどうか、ということだろう。僕は『ライ麦』が好き(他のサリンジャーの小説も好き)だけれど、母親は嫌いだという。父親もたぶん好きな方ではないだろう。わりあい読書家の二人だが、村上春樹を読んでいるところは、物心ついた時から全く記憶にない。

ここで、『ライ麦』がどういう話かということをざっと述べておく。主人公はホールデン・コールフィールドという、高校を放校されたクソガキである。大人への、社会への批判を一丁前に語る。一応だが、彼なりに筋の通ったところもあって、妹のフィービーはすごく大切にしているように、無垢な子供の世界に愛着を持っている。『ライ麦』はざっくり言えば、そんなホールデンが、高校を追い出されてからの出来事を斜に構えた口語体で語る小説ということになる(紙幅の関係でだいぶ端折ってますが)。ホールデンは、とにかく大人社会の色々なことについて考え、そのたび文句をつけているわけである。

そうすると、こういったホールデンの語りについて、「下らないことうじうじ考えてばっかでバカじゃないの?」と思う人と、「わかるわ~~、なんか色々考えちゃうよね」と思う人が大雑把に分けられるのである。もちろん、ホールデンへの共感度合いはそれぞれで、完璧に二分できるわけではないけれど。自分だってなんでもかんでも文句を言いたいわけではなく、労働の対価をいっぱいくれるならまあいいよ、程度にしか思っていない節がある。そして、別にこれは後者がいわゆるHSPなので優しくしてあげましょう、とか、レールから落ちた人にも寛容な社会に変えていきましょう、とかいう話ではない。「悩みがちな俺カッケェ~」という類の自慰行為がしたいのでもない。単に世の中には一定数クソガキがいる、というだけのことだ。こんなに回りくどく書かなくても、『ライ麦』が今なおそれなりの支持を得ていることが、そのことを示しているだろう。

さて、本題は、そんな『ライ麦』好きの自分と『ライ麦』嫌いの親がこの間話し合ったことである(一応飲み会の体だったが、全然酒は進まなかった)。わざわざ喋ることといえばただ一つ、またしても予備試験に落ちたことについてである。

 

konnichihaitou.hatenablog.com

二回目も落ちるまでの経緯は、前回の記事の通りである。かいつまんで言えば、ぐだぐだ迷った結果の努力不足で落第したということだ。あれだけ色々と書けば、共感していただけたところもあったかもしれないが、冷静に考えると、もう大学3年生だというのに何を暢気に構えているのだと思われた方が多いのではないか。実際、自分でもこの経緯を俯瞰的な視点で見れば「こいつほんま何をやっとんねん」と嘆くより他はないのである。圧倒的に、パッションが足りていない。

自分がそう思うのだから、『ライ麦』嫌いの親からすれば、二回目の試験ももうほとんど意味不明という感じだったろう。「当初試験をナメてたのはもうしゃあないとして、普通一回落ちてめっちゃ悔しかったらもう二度と落ちひんようにするんちゃうの?」と言われれば、明らかに正論は向こうの側である。「いや~それは普通はそうなんだよ」と返さざるを得ない。

とはいえ、自分がそういう類の「正しさ」「普通さ」を持ち合わせていないこともまた、非常に残念ながら正しい。後天的にそれが身に着くこともあるのかもしれないが、どうも自分はそんなにまっすぐに生きられる気はしない。我が人生の半分における勉強の歴史を振り返ってみれば、そこにあるのは、怠惰、慢心、希望的観測、悩み癖(こうして考えると早めに予備試験の勉強をスタートさせたのは正解だった)。辻褄合わせの能力だけでやってきた典型的ダメ人間である(こういう人は東大に溢れかえっているのかもしれない)。両親としても、長年息子のそんな姿を見ていて、さらに言えば今回また予備試験に落ちた経緯を聞き、同じように思ったに違いない。それゆえあちらからは「受かるまで実家に帰ってきたら?」と言われてしまった。

大学4年を間近に迎える中で、親にこんな提案をさせてしまった、ということがたいへん情けなくなった。うちの両親はそこまで過干渉なわけではない。まあ、最難関の中学受験に付き合っていた時点で世間的には過干渉なのかもしれないが、心配性の域を出ないと個人的には思っている。子どもを管理したいとか支配したいとかそういうことでは全然なく、純粋に怠惰な息子のキャリアが心配で、最も効率的に勉強できるだろう環境を仕方なく提供しようと、そういう意図なのである(そもそも命令じゃなくて提案なわけだし)。仮に今年も落ちたとしてその瞬間人生お先真っ暗というわけではなく(無論だからといって落ちる気はないが)、そういう意味で両親とも心配性には違いないのだが。それも愛されている証拠ということで大変ありがたいし、恵まれていることである。

ただ、実家に帰って至れり尽くせりの状態で無事試験に合格したとしても、何か根本的な解決になることはない、というのは、両親も自分も重々承知しているところである。むしろこのまま社会に出る方がお先真っ暗というものだろう。何を仕事にするにせよ、迷っている間にもそんな事お構いなしで、どんどんタスクはたまっていくのだ。対価に見合う価値を生み出さなければやっていけないのが現代社会である。そこで生きていく上では、心の中のホールデン的な部分をどうにかしなければ、見通しが立たない。(本当に苦労している人からしたら、非常に贅沢な悩みであることは自覚しているのだが…)

どうにかする、とは言っても、『ライ麦』に共感しちゃうような心を追い出すことはできない。年を取るうちに勝手にそんな心はどこかへ行ってしまうのかもしれないけれど、今はその時ではない。「正しい」ものではなくても、こういう心が確かに自分の中に存在している以上、誠実に向き合うのが筋だろう。嫌いな他人みたいに遠ざけていれば済むというものではない。ちゃんとした人間を演じようとしたところで、どこかでボロが出るのがとどのつまりだろう(現実に同じ試験に二回落ちていることからもそれは明らかである)。

さて、唐突であるが、今年の全豪オープン女子シングルスで、大坂なおみ選手が優勝した。決勝はNHKで放送していたので生で見ていたのだが、ストレート勝ちで、内容的にも素晴らしいものだったと素人目にも映った。ただ、テニスのプレー以上にすごいなあ、と思ったのが、試合中のメンタル的な崩れがほとんど見られなかったことだ。自分の中での大坂選手のイメージは、世間の評と同様、好不調の波が激しく、メンタルが繊細で崩れると弱い、といったものだった。ところがこの決勝を見る限りでは全くそんな様子はなく、劣勢な場面でも冷静なプレーを続け、むしろ相手をどんどんミスさせているといった感じであった。なんとなくそれが気になって、試合後のインタビュー記事などを色々と見てみたところ、メンタル面の強化について本人やコーチが話していたが、単純に「もう弱い自分は捨てた!」ということではないようだった。そういうことではなくて、チームの間で、弱い自分の存在をありのまま伝えて、それを認めることが、メンタルの安定につながっている、そういった趣旨の言葉があった。

自分の心に弱いところがある、ということから逃げずに、その存在を肯定する。弱い自分との向き合い方として、そういう方向性が間違ってはいない、と言ってもらったような気がして、ちょっと晴れやかな気分になった。このブログでごちゃごちゃと書いていることも無駄ではない、と改めて思えた(反応をいただけることのありがたさたるや…)。もちろん、肯定して終わり、では何も変わらない。大坂選手のように、ちゃんと前に進む努力をしてこそ、ダメな自分と共存共栄できる。自分がダメな奴だというなら、ダメなりに頑張るのが身の丈にあっているというもので、正しい自分を演じるよりはずいぶんと気が楽だろう。そういうことで、クソガキとしての努力の成果を示すべく、短答でしょうもない点を取ろうものなら大人しく神戸に帰る、という約束になった。これで神戸に戻ることになったら、いくら自分がダメ人間だからといってもさすがにしょうもなさすぎるので、何とか頑張ってやっていきたい。

 

※後付け:ここから、『インファナル・アフェア』という映画と繋げて色々書いています。ストーリーの内容については触れませんが、結末について言及します。真っ新な気持ちで映画を観たい人はここから先は読まないようにしてください!

 

 

 

ちょっと前、高校生以降くらいの自分は、いつ死んでもいいと思っていた、というと語弊があるかもしれないが、たしかに似たようなことを考えていた。いつでも死ねるような薬を持って、自分のダメさによって破滅的な局面が訪れたら、それを飲んで現世とおさらばすればいい。それが幸福な死というものだろうと思っていた。精神を病んでいたというわけではなく、本当に楽しい時間を過ごさせてもらっていたからこそ、キリのいいところで死ぬのがベストだと真剣に信じていた。とはいっても、そんな都合のいいブツはないし、痛いのは嫌なので、予備試験のことも含めて、色んな失敗をしながらも生きながらえてきた。

またまた唐突なのだが、この間『インファナル・アフェア』という映画を観た。警察に潜入するマフィアと、マフィアに潜入する警察官が主人公である(後者を演じるトニー・レオンがめちゃくちゃカッコいい)。この筋書きは面白いのだが、結末は賛否両論あるようだ。三部作になっているので、残り二作も観れば疑問は解消されるのかもしれないが。

この映画は台湾で制作されたもので、原題は『無間道』という。物語の最後において、このタイトルが活きてくる。すなわち、主人公の一人が堕ちるのは、善と悪の狭間で生き続けるという「無間地獄」なのだ、ということが語られる(ここがあっさりすぎるのが賛否両論ある理由だろう)。死んでカタをつけるのではなく、生き続ける。それこそが無間道というわけだ。

かねてから、キレイなまま死にたいなどと考えていた自分にとっては、罪を背負いながら生きていくことこそ無間地獄だ、というメッセージはすごく共感できた。善と悪という究極に対極的な二つを抱えて生きているわけではないにせよ、どうしようもない自分と共存しながら生きていくというのは、構造的にここでいう「無間地獄」と近いものがあると思う。どうも宗教的すぎる気もするけれど。

今のところさしたる大目標もない自分だが、最近はそんな中でも生き続けてやろう、と思うようになった。前の記事にも書いたことだが、こんなダメ人間に期待してくれている人がいる、と改めて感じられたことが大きい。このまま逃げてしまってはいけないな、ということが直感的に思われた。ここまで他人から色々なものを貰ってやってきた以上、責任を持ってダメな自分と生きていくしかないのだ。そこで待っているのは山あり谷ありの人生だろうが、幸い周りに恵まれているのだから、それも楽しんで生きていけばいい。汚れた川を汚れた自分のまま泳いでいく、そういう人間の生をありのまま受け入れようではないか。多くの人は初めから、こんなの当たり前だろう、と思われているかもしれないが、自分はこの年になってようやくこの境地へ辿り着き、肩の荷が多少降りた気分でいる。

この『インファナル・アフェア』は、母親が「めっちゃおすすめ!」というので観てみた映画である。世間的には賛否両論あると言ったが、僕としてもこの映画はけっこう好きだった。『ライ麦』は嫌いだとしても、ダメな自分と向き合って生きていく、という在り方には、うちの親もきっと共感してくれるに違いない。

きれいにまとまったので、この辺で筆を擱かせていただきます。またいつか。

(P.S. 『ライ麦』肯定派の友人に会いました。やっぱりこういう人は色んなところにいるのかもしれません。その人も、ダメな自分と生きていこうと思えたのはけっこう最近だとか。パッションに欠ける者なりに、マイペースで頑張っていこうと思います。そうはいっても、全力で打ち込めるものを見つけたい、とはずっと考えていますが。)

幕の内弁当(大)

大変ご無沙汰しております。あいとーです。毎回ご無沙汰しているので、そろそろ誠意がこもっていない感じがいたします。

これだけ間が空くと、君はもう何も書かないのか、という風に思われていたのではないだろうか。実際のところ、ここ数か月は途中で記事を投げ出してばかりだった。メモ書き程度(高田ふーみんと若い頃のイジリー岡田って似てません?)ならいくらでも更新できたとは思うが、自分の考えを綺麗にまとめて書き上げるのは想像以上に難しい。驚くべきことに、なぜかまだ毎月数百PVがあって、しかもそれがかなりの割合でGoogleからのアクセスということなので、いったい誰が見ているのか不思議になる。

ただ、今回の記事については、令和2年度の予備試験にも落第したということで、何か書き切って膿を出さないとな、という風に、それに何か宣言することでやる気を保ちたい、と強く思ったので、どうにか完成に漕ぎつけた。2回も落ちたのを見ておられる皆様方においては、そんなんいいからしっかり勉強しろよと思われることだろう。しかし、2年連続けっこう惜しいところで落ちていることを踏まえ、試験の敗因を当日のひどいミスとそれをカバーできない努力不足の二つに分けるとすると、自分の精神面というのは後者に強く関係している所なので、ここでは自分の2020年と、試験を受ける理由を整理することによって、この先のことを考えていこうと思う。

(後付け:Facebookもすっかり見なくなっており、こういう文章を小分けに書く機会がなかったので、けっこう文字数多くなってしまいました。毎回のことですがすいません。試験のことはわりとどうでもいいよって人は、昔の記事が貼り付けてあるあたりまで飛ばしてください。逆に多少の惚気成分も受け付けない人は、試験の話だけ読んでくさい。)

とりあえず、大元は試験の話ということで、自分と予備試験のかかわりについて振り返ってみようと思う。そもそも、自分が大学に入る前から法律や法曹に興味があったかといえば全くそんなことはなかった。まあ、これは実際に法律にかかわる仕事についた人もほとんどそうかもしれない。自分が多くの人と違うのは、資格試験に向けた勉強を始める時期の早さだろう。平成23年から門戸の広い予備試験が導入されて、学部生のうちに合格し、司法試験に臨むという人はそれなりの数いる。特に最近では、予備試験ルートのわかりやすさや待遇の良さもよく知られるようになり、年少の合格者(今年は高校生論文合格者がいたとか?)も出ている状況である。とはいえ、学部2年までに受かる人はまだまだごく少なく、4年生で受かればキャリア的には無問題となっている。

そんな中で、自分が1年生から予備試験の勉強を始めることにした最初のきっかけは、某クイズ番組で知り合った先輩に勧められたことだった。その方は非常に優秀で(自分から見れば)キャリアについてもよく情報を集めしっかり考えられていたので、早く始めるに越したことはないという話を聞くうちに、なんとなく自分でもそんな風に思うようになった。それで話を聞きに行った予備校の講師の方も大変気さくで話しやすく、これなら受かるのではないかと思い、親を説得した末五月祭が終わった後から勉強を始めた。まだ結果を出せていませんが、ここで勉強を始めたこと自体は全く後悔はなく、自分にとって良い選択であったと思っているところだ(誤解を招きそうなので明示で書いておいた)。

これだけ書くと、他人に流されて始めただけじゃないかという風に見えるが、実際そこまで単純な話ではない。この選択肢を魅力的だと感じたのは、「何者かになりたい」あるいは「何者にもなれないまま過ごしたくない」という、自分の根底にある想いの為せる技だったと思う。この想いがどこから来たかと考えると、自分が抱えていた二つの不安に帰着した(しばらく非常にモラトリアムらしいありきたりなことしか書かないが、ご容赦ください)。

一つには、「何も目標を見つけられないまま過ごす不安」である。思えば昔から、なにか具体的な将来の夢を思い浮かべていたことは全くと言っていいほどなかった。もちろん、高校生の時あるいはもっと前から、何か夢や目標を持ってそれに向かって突っ走っている人は、そんなに多いわけではないと思うけれども、数少ないそういう人の存在を目にするにつけ、行く先を知らず、また決めもしないまま、レールの上を歩いてきた自分自身の空虚ぶりを実感していた。別に何かに打ち込んだことがないわけではないし、とりわけクイズはいい線行ってたと自負しているが、それに生涯を捧げるつもりはなかった(昨今のブームを見るにこれは先見の明がなかったかもしれない)ので、将来の不透明さは拭えなかった。

もう一つは、「目の前に広がる選択肢が広すぎることによる不安」である。何をやるにも遅すぎることはない、とは言うが、とりわけ学生というのはその気になれば何にでもなれる、というような前途洋々な存在である。しかし、それは裏返してみれば、学生(自分)は非常に曖昧な存在である、ということだ。その曖昧さを楽しむこともできたかもしれない。事実、前期教養学部のある東大に来た裏には、一つそういう意図があったなと思われる。とはいえ、いざその無限の色が広がってるところに身を置いていることを自覚すると、何をすればいいのかわからず、そして何をしても中途半端なままになってしまうという不安が頭をもたげてきた。もともと優柔不断なタイプなのもあって、このまま漫然と過ごしていてはなんかいろんなことをちょっと齧っただけのペラペラ人間になるだろう、ということがイメージされたわけだ。

(少し脱線するが、自分の前に道(選択)がたくさん見えている状況と、1本だけ見えている状況とを比べた場合に、絶対的な正しさとか美徳というものには前者の方が近いのに対し、相対的な幸福や満足というものには、明らかに後者の方が近いのではないか、と自分は考えている(Qアノンとか見れば納得してもらえるのではないか)。色々なことを視野に入れて行動できるということは、それ自体素晴らしいことではあるけれども、言ってしまえば非常に負担が大きいものである。そうはいっても、目の前にたくさんの道があるということを知ってしまった以上、その認識は変えられるものではない。)

こういった不安や、そこからくる「何者かになりたい」という指向性は、多くの人が少なからず持っているものではないか。ありきたりな悩みだからこそ、こういうものといかにして向き合っていくか、というのが人生における難題なわけある。例えば就活は、強制力をもってこの悩みの存在を突き付けてくるものなのではないか、と(自分でやってはいないながら)思う。よく考えてみると、20歳前後の学生なんてまだまだ先は長いわけで、誰しもがすぐに答えを出す必要はないのだが、そこで自分が選んだのが、文系最高峰の資格を得るべく司法試験(予備試験)に合格する、という道だった。一度道を一つに絞ってみれば気持ちが楽になるだろう、と考える中で、最もつぶしがきいて、やりがいのあるものが、法曹の資格を手に入れる、というルートだと結論したわけである。法律に向いているか、そもそもやっていて興味が湧くかもわからない中で、資格の勉強をすることに決めるのは大きな賭けではあったが、それは同時に逃げの一手でもあったように思う。

さて、かくして自分は予備試験の勉強をスタートさせた。早く何かになりたいのなら必死のパッチで勉強してさっさと合格するよう頑張ればいいわけだが、一昨年と昨年は結局そこまで詰め切れずに終わった。本当に興味がなければすぐ見切りをつけているはずで、実際法律は勉強し甲斐があると感じながらやってはいる(こんだけ文章が書けるのも、法律の勉強をした副産物だろう)。そんな中で、この努力不足の原因は、一昨年と昨年とでは異なっていると自分では考えている。一昨年に関しては、単純に過信が問題だった。それなりに順調に勉強を進めることができていて、合格レベルにあると評価されるような答案を書く基礎体力もついてきていることを実感する中で、それなりにやっていれば受かるだろうというような甘い考えになっていたなと思う。

問題は、なぜこれを踏まえての昨年も結局努力不足に陥ってしまったのかということである。その原因は、一言で言えば「迷い」だった。

先ほど、自分の前にたくさんの道が広がっているという状況からの不安について書いた。そして、自分はとりあえず先の長そうな1本の道を選ぶことによって、その不安を解消しようとしたのだった。しかし、当然のことながら、他の道があることを(不可避的に)知りながら、逃げの手として1本の道を選ぶという行為においては、機会費用が生じているわけである。もっとも、勉強を始めた1年目は、先の過信が逆にプラスの効果を発揮して、その機会費用についてはほとんど考えることなく過ごすことができていた。ところが、現実に落第したという事実を突き付けられたことによって、「自分は本当にこの道を選んでよかったのか」という、それまでは意識せずにすんでいた迷いが一気に噴出してきた。非常に良い環境で勉強させてもらっていただけに、余計にそういった思いが強くなったという面もある。こんなことになるなら、何かもっと他にできたことがあるのではないか――同じ状況でも、しっかりと将来を見据えられている人ならば、「それはそれとして次はもう絶対合格する!」と腹を括って勉強できたのだろうと思うけれど、フラフラしながら予備試験ルートに入った自分は、そこまで割り切れていなかったな…と反省せざるを得ない。

ただ、こうやって2回目も失敗したことによって、自分の中で「吹っ切れた感」があるなと思う。単純に悔しいのもあるし、キャリア的に切羽詰まっているというのもあるが、なんだかんだ言っても自分で選んだ道なので、文句を言って乗り換えるのは本気でやって失敗した後にしないとな、という割り切りが(今更ながら)できた、ということが大きい。落ちたことが良かった、というつもりは全くないけれど、過信を捨て、迷いを断ち切ることができたという点では、意味のある結果だったと思う。とはいえ、迷いについては自覚的であったので、色々な人にちゃんと相談しておけば、もっと早く切り替えられたんだろうな、と強く後悔している。

ここまでずっと試験のことについて書いてきたが、2020年は(実際のところ2019年末くらいからだが)、試験以外にも「何者かになりたい」ということに大きく関わることがあった年だった。

こんな久々の記事を読んでいる人は大体昔から当ブログを見ている人だろうから、なんとなく覚えておられるかと思うが、2019年の11月頭に、自分が試験に落ちたことと(ほんとに懲りないなこいつは…)と彼女がうつ病になったということに関する記事を書かせていただいていた。

 

konnichihaitou.hatenablog.com

こうして昔の記事を見るということは、得も言われぬ恥ずかしさを催すものであるが、一応どれだけ恥ずかしくても消さないという矜持を持って記事を書いていて、今回はまた同じテーマで書くということで、改めてリンクを載せておいた。そういうことで、ここからは彼女のうつと自分の話である。

振り返っておくと、彼女は一昨年、美大から、それも彫金⋀東京という狭き門を目指して就活しており、いいところまではいくも、なかなかうまくいかず、その苦悩からうつを発症してしまった、という経緯があった(自分がうだうだして失敗しているのとはえらい違いで、本当に大変な時期だったと思う)。その年僕が試験に落ちたことを知るあたりで、どういうことがあったかというのは、先の記事に色々と書いたところだ。そこでやっと、自分は彼女がどれだけ思い悩んでいたのかを思い知ったわけである。

当時は落第のショックを拭いきれずにいたが、それでもどうにかして彼女を元気にしたいと思った。自分が失意に沈んでいたからこそ、そういう風に思ったのかもしれない。言われ尽くしたようなことだが、誰かを助けることによって、その実自分を救っているということは往々にしてある。試験には落ちてしまったけれど、せめて身近な誰かを助けることができる者でありたい、そうすることで、自分も「身近な誰かを助けることのできる自分」を肯定できる――彼女を元気づけたいというのは間違いなく本心から思っていたことだが、こういう後ろ暗い打算もまた自分の本心だったといえるだろう(こういう記事を書いてしまうところもその表れかもしれない)。以前はこういう結局自分本位な自分が見え隠れするたびに嫌な気持ちになっていたが、今はほとんどの人ってそういうものだろう、と割り切るようになった。

さて、そうはいっても、具体的にどうすることができるか、というのは難しいものである。「うつは完治しない」なんて言われているし、何より重いうつで苦しんでいる人に、安易な言葉は掛けられない。以前はなんとなしに「まだ大丈夫」「頑張れるよ」なんて励まそうとしていたが、それも重荷になるだろう、と思って、こういった言葉は極力出さないようにしていた。想像でしかないけれど、自分の価値を全く見失って、どうしても頑張れない時に、いくら他人が根拠のない励ましの言葉をかけても、素直には受け取れないだろうし、むしろそういう期待に応えられない自分がますます嫌になるのだろうな、と。

そんな中で、心理学に詳しくない(どうせ法律の勉強に集中できないなら、胡散臭いけどアドラーの本くらい読んでもよかったなと今になって思う)自分ができることは、なるべく近くにいてあげることくらいだった。よく会って様子を見る、というのもその例(それでも試験勉強にあてる時間は、コロナのおかげで有り余るほどあったので、このことを言い訳にすることは到底できはしない)だが、とにかく共感的でいることを心がけていた。笑わせるようなことをもっと言えればよかったかな、とか考えてみるが、生憎そういうセンスは足りていないので、なかなか難しいものがあった。ただ、二人とも好きな番組(タモリ倶楽部とか)の録画を勝手に見て消さずに、一緒に見るようにしてはいた。

そうしているうちに、少しずつだけれど、彼女は元気になってきてくれたようだった。実際に本人に聞いたところによると、調子の波がありながらも、昨夏にはほとんど元気になっていたらしい。病院に行って薬を飲んでいた時期は、1年と少しといったところだろうか。これを聞いたのはつい最近のことだが、当時の自分としても、彼女はかなり気力を回復していたように見えていた。ただ、じゃあ完全に立ち直っているのかということでいうと、完治しないというだけのことはあって、否定的な見方をせざるを得ない、そんな状況だったと思う。そういう中で、やはり「頑張れ」的な言葉はまだ掛けたくないと感じていたし、仕事の話もなるべく自分からは振らないようにしていた。

奇しくも転機が訪れたのは、昨年の論文式試験の合格発表の日だった。過信に溢れていた一昨年は、合格はしているだろうという舐めた態度でいたが、先に述べたように迷いというものにはずっと自覚的であったので、当日にしたやらかしのことを思うと、合格には四信六疑といったところだった。そういうこともあって、その日は落ち着いていられず、彼女に来てもらっていた。

たいていの場合悪い予感は当たるもの。結果はご存じの通りである。合格者番号のPDFを開いて番号を確認した時、結果を受け入れられず思わず涙した前年とは違い、今年はただただ自分が情けなく、迷いが招いた無惨な結果を噛み締めていた。とはいえ、まず親に報告の電話をして、色々と話しているうちに、一丁前に悩むだけ悩んで頑張れず、また色々な人に迷惑を掛けている(自分が予備校に誘った同期や後輩は合格していた、とか)なんて思うと、自分のピエロっぷりに涙せずにはいられなかった。彼女にしたって、何と声をかけていいかわからず困っていたことだろう。

ただ、不合格の結果を受け入れて噛み締めているうちに、上で書いたように、心の中の迷いが吹っ切れつつあった。一旦落ち着いて、不合格を報告するツイートも済ませ、しばらくすると、予備校の恩師からDMがあり、色々とアドバイスをいただいた。落ちたばかりの自分には大変耳の痛い話だったが、最後に「君が適性がないはずがない、受からないなんてことは決してない」というようなことが書いてあるのが目に映った。期待されながら2回も同じ試験に落ちても、まだこれだけの期待をかけてくれる人がいる――そのことに気づいて、本当に救われた気持ちになって、心がクリアになった。自分はまだやれる、そしてやらねばならないと心の底から思った。目の前にいたのは、一度は頑張れなくなった人だった。そろそろ言えること、言った方がいいことがあるのではないか。

2回も同じ試験に落ちてしまったけど、自分はもう一回頑張る。信じてくれる人がまだいるから、まだ辛いかもしれないけど、少しずつでも一緒に頑張ろう。そういうことを色々と言った。文章にすると格好がついているが、思いっきり泣きながら絞り出すように声をかけていた。ついに「頑張れ」って言っちゃったけど、言ったものはもうどうしようもないな、なんてそわそわしているうちに、彼女も泣いていた。やっと心に響く「頑張れ」の言葉をかけることができたことに、無性に安堵していた。創作意欲は溢れているから、君が予備試験に合格するまでに何か成果を出すよ、と彼女は力強く言った。彼女を助けることができた、なんていうのは傲慢に過ぎると思うが、感謝されたこと、前に向かって進みだしてくれたことくらい、素直に喜んでもいいだろう。

こうしてなんとなくいい話風にまとまったけれど、これはまだいい話ではない。ここから2人ともが頑張ってはじめて、本当にいい話になるものだ。そういうわけで、これをいい話にするためにも、日々頑張っていきたいと思う。とはいえ、息抜きの記事くらいは書いてもいいだろう。ではまた、どこかで会いましょう。

幸福論?

(プライバシーの観点から一部脚色してたりしてなかったりします)

ご無沙汰しております。あいとーです。ニッチな人気さえもなさそうな本ブログは驚くべきことに、開設から1年を過ぎているようです。それと全く関係ないことですが、今日はいつもよりストレートな感情が爆発する記事になっています。

どうも最近は、ずっと心に重石を抱えて過ごしているように思います。しっかりと落第した予備試験のみならず、自分の不甲斐なさを感じることが多いこの頃なわけです。その不甲斐ない、と感じた一つの出来事が、今回の記事の起点になっています。

Tinderで知り合った彼女は美大の4年生です。彫金専攻で、指輪やアクセサリーをよく作っているようです。それゆえ、宝石なんかにもかなり詳しくて、国立新美術館でやっているカルティエ展を観に行った時にも、昔から金目の物が大好きだった自分と一緒に、アクセサリーを彩る石についてあーだこーだと話し合っていました。美術が、彫金が好きなんだろうな、という彼女の感性は、この時に限らず、いつも会話の端々に見え隠れしているように思います。

美大生の就職活動というものは、概ね一般大学生よりも遅く、また苦労しがちとされています。絵を専攻する人ほどではないようですが、彫金もまたその例に洩れません。基本的に新卒の採用人数は一桁止まりで、ミキモトなんかでは美大生の枠は年3人ほどとのことです。そういうわけで、最終的に彫金とは縁遠い一般職に落ち着くという人が相当数いるのが業界の実情であるのです。

そして、その苦労は、ふわふわとした自分に比べればずっと真っ直ぐに先を見据えているように思える彼女にも降りかかっていました。そんな中で、なかなかうまくいっていないんだ、うつじゃないとは思うけど、最近は時々薬をもらっているんだ、ということは、もちろん時々耳にしていましたが、生来の自分の人生への楽観からか、彼女の就職だってきっとなんとかなるだろう、そしたらストレスもなくなってうつだかなんだかわからないものも吹き飛んでいくだろう、とあまり深くは考えないでいました。

そうこうするうちに、予備試験を受け、夏休みを過ごし、あっという間に10月になりました。この時も自分は、何も言ってくれないってことはきっと就活の終わりはまだなんだろうな、と不安はありながら、とりたてて質問することもないままでいました。そんなような、なんとなく危うい安定は、珍しく向こうから唐突に電話がかかってきたときに脆くも崩れ去りました。

彼女の趣味、というかライフワークらしいのが、夜の散歩です。電話をするときも、彼女はいつも家の近くをぶらぶらと歩きながら話しています。論文の合格発表の2日前だったその夜も、スピーカーの向こうからは足音が聞こえてきていました。初めは何気ない話ばかりで、高クイの人とボルダリングをしてたらSASUKEの川口さんがいて写真を撮ってもらったんだ、なんて言って笑っていましたが、途中から雰囲気が変わってきました。

就活が全然うまくいかない。今までやってきたことに何の意味があったんだろう。つい薬を飲みすぎてしまう。…

彼女の歩みの確かさを少しは知っているがゆえに、ふらふらと涙ぐんで歩きながら話される苦しみの深さがわかり、返す言葉に詰まる時間も長くなりました。気立てがよくって、普段から何か自分の悩みなど見せずに強かに過ごしているように見えていた彼女が、その実相当に追い詰められていたということに気づき、隠しがちな弱さを汲めない自分の鈍い心をただ情けなく思いました。しかし悲しいかな、男性脳というやつのせいなのか、その時はまだ「実効的な解決策」というものを探そうと必死でいました。

ところが、「死」を匂わせるような言葉が彼女から出てきたとき、自分はやっと、そんなこと考えてる場合じゃないということに思い至りました。奇しくも、今年は母方の祖母の葬式があり、これは自分にとって初めてのよく知る親族の死への直面でした。誰かが二度と帰ってこない、という現実の生々しい感覚が、自分の中に強く残っていました。だからこそ自分は、その時は割と高いところにいたらしい彼女に、「そろそろお家に戻ろう。」と言いました。向こうも何かを察したようで、普段の落ち着いた風で了承してくれて、家に帰ったのを確認して、しばらくした後通話を終えました。

これまでの自分と彼女は、互いにわざわざ文句を言うことも、望みを言うこともかなり少ない関係だったように思います。それはもちろん二人ともが高い満足感を持っていたからなのでしょうが、その分相手に迷惑を掛けたくないという無意識下の抑圧があったのかもしれません。しかし、この段になってようやく、彼女はありったけの悩みを吐き出して、自分もそれに応えるように、ありったけの願望をぶつけられたのだと思います。

よく探してみれば、どこかに絶対味方がいる。周りを置いていかないで、助けを求めて欲しい。偶然高校の時に中学の同期と仲良くなれたように、不思議とTinderで出会ったように、思いがけない転機が待っているはずだから。…

こうして並べてみれば、なんとも場当たり的で、薄っぺらにも見えてしまいますが、これらの口にするのも恥ずかしいポエティックな言葉は全て心からの願望であると、それは自信を持って断言できます。あるいは、運命ほど大げさでパターナリスティックではないような、一種の巡り合わせというものを信じる自分の哲学なのかもしれません。

今年の論文式試験に落第したと分かったときは、我が目を疑い、法務省をも疑いましたが、もはやどうすることもできないことです。去年の5月から始めた予備試験の勉強で、講師の方々に多く期待をかけていただきながら、今までの試験勉強と違ってちゃんと自分でしっかりと勉強してきたと思っています。実際、論文式試験の手応えも、周りが話す感触からしても、決して悪くないものでした。ところが結果は動かし難い不合格です。

己の珠に非ざることはよく知っていたつもりですが、しかしどちらかと言えば綺麗な石であることは信じて過ごしていました。そんな臆病な自尊心ライクな心の持ちようもぶち壊されて、発表前に歩道橋から環八に突っ込んでおけばよかった、それとも今からでも間に合うだろうか、なんて暗い思考が頭を渦巻きました。ふらふらとした自分でも、生きていていいと思える最後の自己肯定をも失った気分でした。

そんな中でも、周りの人たちは思ってもいないくらい優しくいてくれました。各所の友人・先輩・後輩たちも、偉そうなのに励まされたばかりで沈んでいるはずの彼女も、一番期待をしていたであろう両親も、誰もが各々のありったけの励ましをくれました。なんでこんな情けない奴を助けてくれるんだろう、と親切に気怠くなることもありましたが、そのうちに自分が彼女に投げかけた願望のことを思い出しました。

意義深い理由なんてなくても、生きていていいんだ、ということにふと気付いたわけです。もちろん生きている以上高みを見据えなければいけないし、そうしなければ生き残れないと思っていますが、それとは別に、人間賛歌のような肯定が、自分を支えていてくれているのだということに、20を少し過ぎたこの頃、気付くことができたわけです。名誉の道は非常に狭く、二人並んで通るほどの余裕はないとしても、人間はこうも美しいと、そう思います。

そうすると、今年試験に落ちたことには、驕るなよ、もっと勉強しろよ、というのに留まらない、暖かい希望の存在に気付かせるという意味があったのかもしれません。客観的に本当のところは、単なる不合格ということですが、やはりそうではないように思いたいという心の内です。やはり何かの巡り合わせというものが、人生には付き物であるのに違いないと、今は思っています。

一昨日にも、アガルートで仲良くなった面々が、遅めの誕生祝いをしてくれました。そうか、こういう人たちがいてくれるから、こんくらいのことがあったくらいで塞ぎ込んでばかりいないで、生きていないとな、と改めて考えました。これもきっと一つ巡り合わせだと、そう思ったらなんだかエナジィが出てくるような気がします。

 

 こうやって1年何か気持ちを形にしてきた中で、今回、自己肯定という面については一定の解決を見たように思います。やはり何か書いてみるものだな、と、ここまで続けて良かったと感じます。こうなると映画か漫画の感想くらいしか書くことがない気がするのですが、細々とまた続けていけたらなと思います。それではまた。

♪Happy Rebirthday

夏休みなのにまたまたご無沙汰してしまいました!あいとーです!今回はいつにも増してまとまりのない文章になったと思いますが、低い文章力に失笑しながらも通読していただけると嬉しいです!

以前に教習期限の9ヶ月をぶち抜きそうでヤバいという記事を書いたのですが、案の定そのまま仮免さえも取得せず突っ走ってしまったので、現在猪名川という片田舎に幽閉され、免許合宿に参加している次第です(今後の人生で、車校に行くのが面倒だという理由で9ヶ月仮免取らなかったという人に会う気がしません)。ということでまずは簡単に教習所でのおもしろランキングを発表します。

7位:黒髪のルキアちゃん(本名)(残念ながらロング)

6位:泊まってる部屋のユニットバスのカーテンにカビ生えててシャワー浴びても雑菌だらけ

5位:猪名川町マスコットのいなぼうの友達の魚の名前が魚くん

4位:朝飯で、黒蜜塗ったパンかと思ったら塗ってあるのはお好みソースで、でも中身はなぜか砂糖入ってる

3位:来て10日目にしてようやく風呂場の鏡が開いて収納スペースになってることを知った

2位:焼きたてを謳う朝のパンが6時半に来るのでどう考えても前日の余り物

1位:部屋の他の4人とは10日間一緒にいるのに年齢や所属さえも知らない

てな感じでなかなか心がしんどいという現状です。あとご飯が少ないのが致命的ですね。いうてもあと3泊4日てなとこなので、うっかりひき逃げとかしないように頑張りたいと思います。住民票移しちゃったので免許取得自体は東京戻ってからになるんですけどね。しかし9ヶ月で取れなかった仮免許が1週間で取れるなんて、なんだか成長を感じられて素敵だって、そう思いませんか?そんな自己弁護はともかく、期間中運転技術においてはやはり凡百なのだと思い知らされると、改めて、傲慢になることなく、等身大の自分をしっかりと見つめて生きないとなあと感じました(これは割とマジめに思った)。

 

さて、こんな感じで2年生の夏休みはいよいよ閉幕に近づいているのですが、今回はこの夏の前半にあった高山ゼミの合宿での将来設計というイヴェントについて綴っていこうと思います。

将来設計というのは、読んで字の如くで、何かしら将来の目標を設定し、それについて知り、目標に対する自分の現状を顧みて、これからすべきことを考えるという非常に建設的な課題でありまして、これを教授とゼミ生と発表し、フィードバックをもらうという一連の流れが、ゼミ合宿における伝統行事になっています。最初の五月祭の後からアガルートで司法試験予備試験の勉強をしている自分は、先のことは分からないなりにも、法曹に関わりはするだろうと思い、1年生の時は最高裁長官、2年生の時は「強い弁護士」という目標を設定し、将来設計を行いました。色々と書くべきことがあるのですが、とりあえずこの1年での心境の変化について述べていきます。なぜ去年は裁判官にしたかといえば、最高裁の長官(長官でなくてもよいが)として、判例の蓄積を形作る一端を担い、公に貢献して歴史に名を刻みたい、と自分は思っているんじゃないか、と考えたからです(※もっとも、聞く話によれば最高裁裁判官というのはかなり特殊な人種が選ばれるものであって、普通の裁判官としての出世ルート(最高裁の事務局長など)とは異なるようですし、また法解釈という点では調査官といった道もあります。当時はあまり考えていませんでしたが。)。ところが、そこから1年経った夏、改めて等身大の自分と向き合ってみれば、公のために粉骨砕身して名誉を得たい、みたいな感情は、一種の四月病みたいなもので、実際のところあまり大きくないのだろうということに気がつきました。少なくとも今の自分は、もっと矮小で、しかし大切な、自分自身の幸福が何より大事なんだろう、と思い直したわけです。そして自身の幸福は、経験上、食事でちょっとした贅沢をして、また完全に独り善がりでは生きられないため、近くにいる誰かを幸せにして感謝をもらう、そんな感じで達成されるのだろうと考えました。結果的には公務員でしかない裁判官よりも、学歴と予備試験という経歴を活かせばかなり確実に高収入が見込める弁護士という道の方が合っていると結論付けた、ということです。

今年の将来設計の内容を詰めるにあたっては、まず自身の幸福を達成できる「強い弁護士」というざっくりとした目標を考えました。そしてその具体的な内容として、法律事務所ZeLo・メルカリの岡本杏莉さんのキャリアなんかを参考にして考え、学部3年で司法試験に通った上で、一定水準の英語を身につけ、リーガルテックにもある程度詳しくなった状態で、サマークラークに行った大きな事務所に所属して実務経験を積み、そして最低限の箔として、留学させてもらってニューヨーク州あたりでLL.Mをとっていれば(これで30歳くらい)、そこまでに築いた人脈を合わせてそこそこ稼げるだろうし、悪くとも食いっぱぐれることはないと結論しました。これは(試験の合格を前提とすれば)非常に手堅い内容であると思います。実際先生やゼミ生にもよくまとまっていると言っていただけて、その点は満足しています。以上が2年生夏の前半の自分の考えです。

 

ところが最近は、これでも「そこまでしなきゃいけないか、そこまでしたいか?自分」という気持ち(以下①)が時々湧き上がっています。実際、文に起こしても、「〜上で、〜して、…」みたいな部分がけっこう長いですよね(こういうわけで、読みづらくてすいません)。何か影響を受けるようなものがあったかといえば、ビッグイベントはないんですが。馬車馬のように働かずとも、しっかり家族と向き合って生きていけたなら、それ以上はオマケみたいなもので特に望んでいないんじゃないか、とふと考えることがあります。

一方で、「こんくらいならできるし、後悔しないようにやらないと」とも強く思います(以下②)。簡単に浮き沈みする僕の性格からすれば、直近の出来事によって①と②の割合は左右されると思いますが、この場で将来設計の再考をすべく、両方について真摯に向き合ってみることにします。

 

もっとも②については、2年夏の将来設計のところで書いた、自身の幸福の渇望が源泉だろうと思います。問題は①についてです。どんどん目標が縮小してるってことはそれって単に怠惰になっただけじゃない?とも考えられますが、たぶんそう単純な話ではありません。何回か書いたかもしれない話ですが、僕は原則として世界が狭い(考えることが少ない)方が幸せでいやすいと思っています。幸福度合いの値hを、ある目標の達成度合いx1,2,...nにそれぞれ重率(ある程度目標を達成できていなければマイナスに働くものとする)をかけ、組み合わせて算出するものとしましょう。Σ(xn)をXとおき、自分のキャパシティだということにします。最後に、hの値がh1以上の時に「充分幸せだ」と思うと仮定します。さて、中途半端に賢くなって考えることが増えた状態(イメージとしては、ダニング=クルーガー効果のグラフの、自信の値が一番小さいあたり)では、目標という関数が増え、しかしx1らの限界を定める自身の能力Xはさほど上がらず、かつ求めるh1が大きくなるので、相対的な幸福度合いを上げるのは案外と難しくなる、という要領です。まあ重率次第でなんとでも変わるものですが(これが前述の①と②の間での揺れ動きを生んでいると考えられます)。ということで、長くなりましたが、手近で大切な望みに絞っていけばいいんじゃないかっていう①の気持ちも同じく自身の幸福を求めてのものなのです。あくまで相対的な幸福度合いの最大化を図ろうとしているわけですが。

 

しかし、①の気持ちには、もう一つ大きな源泉があるように思います。それはたぶん、「何かを大きなことを成し遂げてもそれに見合う達成感が得られないんじゃないか」という疑問です。この20年弱でとりわけ嬉しかったことといえば、灘中合格、高クイ優勝の二つであると思います。それは、実力以上のものが発揮され、思いがけない成果を得た(まあ後者は訳アリかもしれませんが)という状況に起因するものです。しかし逆に言えば、もちろん大変恵まれているためにこういう感想になるわけですが、他の大きな成功というのは、なるべくしてなったという気持ちの方が強いと思います。これは別に、類まれな才能で生きているなんて偉ぶってるのでも、努力を惜しまなかったと信じているのでもなく、自分はそれなりには賢く、一人っ子で、親が教育熱心で、先輩や友人が的確なアドバイスがくれるといったような恵まれた環境に助けられながら、最低限の努力をしたのでこんくらいはクリアできるかな、みたいな、色々な要素が半端に絡まった感じです。そして、自分の成し遂げたことについて、多くの人はこのくらいのこと、環境さえあれば誰でもできるのだろうと冷めた気持ちになってしまうわけです。絶対的には高く評価されるだろうことにも、どうも素直に喜べないのが自分の現状です。それゆえに、これからの人生で、ハイレベルな何かをやれどもやれども、達成感や自己肯定感を掴めないくらいなら、もっと身近な幸せの方を大切にしてやった方がずいぶんいいんじゃないかと考えてしまうのだと思います。

 

さて、こうして後ろ向きな(善悪の価値判断ではないですが)気持ちについて整理してきたわけですが、やっぱり心の奥底では、もっと努力して、広い世界で、新たな、今までになく大きな達成感を、自己肯定感を手に入れたいと渇望していると思います。それが幸せの絶対量を増やすということに繋がる(と知っている/自分で信じている)からです。後ろ向きな気持ちは、この命題が自分の世界で偽になってしまうのを恐れているゆえに起こる気持ちと解釈することができます。もっとも高クイ優勝の時は素直に喜んでいたわけですから、単純に才能(=Xの大部分を占め、かつ不変な要素)が足りないことを突きつけられるのは怖いだけかもしれませんが(テニスプレイヤーのニック・キリオスはこんな感じらしいですね)。

 

こんな自分と通ずるところを感じたのが、the pillowsの『アナザーモーニング』の歌詞の一節です。

今もまだ同じよく似た不安がつきまとう
耐えきれないような出来事は確かにあるけれど

どんなに寂しくても誰も迎えに来ないよ
迷子の知らせアナウンスはかからない
扉の向こうには約束なんてない
でも行こう生まれ変わる朝が来た

自分はこんな不安をけっこう前から抱えているけれど、友達がいようが彼女ができようが何かに受かろうが、自己肯定感はやってこないという迷子みたいな立場にある、のかななんておセンチに考えてしまいます。全部聞くと、山中さわおがこんなよくわからない悩みを綴ったわけじゃないだろうとは思いますが、やっぱり刺さる部分は多い曲です。

 

東大では今朝進振りの第二段階の結果が発表されましたが、雲を掴むような状態で、頑張り続けることがいかに難しいかということは、自分の至らなさからよくよく学んできました。「扉の向こうには約束なんてない」というのは、誰もがおんなじ状況なのだろうなと思います。そんな不安を吹き飛ばすように、幸せを求める強さを持って生きていける人は決して多くないでしょう。今の自分はむしろ不安に押し潰されそうになっていますが、世界を広げて、少しずつでも生まれ変わっていきたいと思います。言うは易く行うは難し、の典型例ですが、少しでも前に進むにはとりあえず、運転免許くらいしっかり取らないとダメですね。ではまた。